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玄関のアマちゃん
しおりを挟む佐々田陽太は小さな悲鳴を上げた。
玄関で揃えられた運動靴の隣に、親指の爪ほどの生き物がちょこんと座っていたのだ。薄緑の滑らかな肌。丸っこい目は眠たそうに半分閉じられている。
小学生に上がったばかりの陽太は怯えた。初めて見るそれは、幼い彼にとって未知の怪物だった。ランドセルを背負い直した陽太は恐る恐る運動靴を履く。サッと立ち上がると、ドアの外に転がり出た。
明るい一年生の教室。陽太はクラスメイトに今朝見た怪物の話をした。物知りなクラスメイトの一人が、それは冬眠から目覚めたばかりのカエルだろうと推測する。陽太は首を傾げた。幼い彼はまだカエルの存在を知らなかったのだ。
放課後のチャイムが校庭を揺らす。陽太は今朝の出来事などすっかり忘れていた。一緒に下校していた友達に別れを告げ、玄関の扉を開ける。そして、ピタリと動きを止めた。薄緑の怪物は今朝と寸分違わぬ格好で土間の端に蹲っていた。
「お母さーん! お母さーん! ただいまー!」
陽太はありったけの声を振り絞って叫んだ。夕飯の支度をしていたらしい母は、台所からひょこりと顔を出す。陽太はホッとした。
「陽くん、お帰りなさい」
「お母さん、そこに何かいる!」
陽太は恐々と土間の端を指差した。母はキョトンとした顔で陽太に近づくと、その人差し指の先を見る。
「あら、アマガエルね」
「アマガエル? カエルなの、これ?」
「そうよ、暖かくなってきたから目を覚ましたのかしら」
「暖かくなったから? 冬眠してたってこと?」
「あら、陽くん、すごく物知りね? そうね、このカエルちゃんは冬眠してたのかも」
陽太は褒められて嬉しくなった。ニッコリと微笑んだ母は、そっとカエルを掴む。庭に出ると紫陽花の葉の上にカエルを乗せた。
「さて、お母さんと一緒にお手手を洗いましょうか?」
頷く陽太。靴を脱ぐと母の手をぎゅっと握る。そのまま、ドタドタと洗面台へ走った。
その日から陽太は、毎日のように玄関の外でアマガエルを見かけるようになった。朝日に煌めく湿った肌。恐怖心の消え去った陽太は、その小さな生き物に愛らしさを覚えた。
アマちゃんと名付けられたカエル。毎朝アマちゃんを観察するのが、陽太の日課となった。
五月の終わり頃。梅雨入りの前。アマちゃんは忽然と姿を消した。
母に尋ねると「きっと何処かに旅立ったのよ」と優しく微笑んだ。
雨音が家の中を木霊した。梅雨の夜。夕日は遅く沈む。
夕食を済ませた陽太は暗い窓の外を見た。雨の声に混じって、ゲェゲェという低い音が響いてくる。父に尋ねると「アマガエルだな」と答えた。
「アマガエル? アマちゃんがいるの?」
「アマちゃん?」
「うん、いっつも外にいたカエル」
「そんなのがいたのか?」
「うん、いなくなっちゃったけど」
陽太は寂しさと嬉しさが交差するような視線を窓の外に向けた。アマちゃんは帰って来たのだろうか?
「何でアマちゃんは鳴いてるの?」
陽太は父を見つめた。ビールを飲んでいた父はニヤリと笑う。
「そりゃあ、お嫁さんを探してるからさ」
「お嫁さん? アマちゃん結婚するの?」
「ああ、可愛い女の子を見つけたらな。母さんみたいなのじゃ、ダメだ」
酔っ払った父はガハハと笑った。そんな父をギロリと睨みつける母。残ったビールをサッと取り上げる。
アマちゃんって男の子だったんだ。
陽太は驚愕の真実に固まった。
ちゃん付けをしたから、怒って何処かに行ったのかな?
窓の外。何時迄も響くカエルの声。暗闇を揺らす低い合唱は、何処か寂しげだった。
「アマくん、ごめんなさい。帰って来て」
陽太は窓の外にぺこりと頭を下げた。
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