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水族館には行きたくない
しおりを挟む雨だった。
風のない六月の雨。梅雨の雲から垂れる雨粒は大きい。
人で賑わう駅のホーム。江本由香里は暗い土曜の空を見上げた。斜めに伸びる駅の屋根。街を覆う灰色の水。方角を示すものの無い空が彼女を迷わせる。ため息をついた由香里は俯いた。
「由香里、どうかしたの?」
花木優斗は首を傾げた。センターパートのセミロング。両目の端に茶色い毛先が掛かっている。
「ねぇ、優斗? 水族館行くのやめにしない?」
由香里は自分の前髪を弄った。黒のストレート。湿気で絡まる毛先。優斗は驚いて由香里の目を見た。
「どうして? 雨だから水族館に行こうって話だったじゃん?」
「雨だから行きたくないの」
「どう言うこと?」
「わざわざ、水に囲まれたような場所に行きたくない」
「ええ、今更そんなことを?」
「だって」
電車がホームの横につく。人の波に押し流されるように二人は車内に移動した。
「ねぇ、モール行こうよ」
「嫌だよ、ショッピングばかりで飽きたから水族館に行こうって話になったんじゃないか」
「じゃあ、映画館」
「見たい映画なんてあるの?」
「……プラネタリウム」
「水族館で決まりだね」
由香里は露骨に眉を顰める。ギリギリまで細めた瞳で上目遣いに優斗の顔を睨みあげた。優斗は苦笑する。
暫しの無言。電車は雨に濡れたレールを滑るように海沿いに向かった。僅かに疎らになった客。灰色の空は窓の向こうでゆっくりと形を変える。
青々とした壁。海沿いの駅のホームに降り立つ二人。雨に混じった潮風はぬるい。
「どんよりしてるね?」
優斗は手の平を上に向けた。屋根に弾かれた霧雨がホームに流れる。由香里は無言で優斗の後に続いた。駅の改札口を抜けて短い階段を降りると、青い波を跳ねるイルカの絵が見える。水族館行きのバスを待つ二人。町の入り口に流れる沈黙は雨音を消し去った。
「……ねぇ、じゃあ、こうしようか?」
何時迄もふくれた顔の由香里。優斗はその暗い瞳を覗き込む。
「水族館がジメジメしてて楽しくなかったら夏の予定は山だね。予想外に楽しかったら海にしよう」
「……意味わかんない」
「こんな雨ばかり見てるから、由香里は落ち込んじゃうんだよ。暑い夏になったら、君は絶対に水が恋しくなる」
「……ならない」
「なるよ」
「ならないってば。ねぇ、海も山も行きたくないからさ、夏は温泉旅行にしない?」
「あれ、水は嫌じゃなかったっけ?」
「温泉は、お湯よ」
「はは、ま、いっか。じゃあ山の温泉か海の温泉かを水族館で決めよう」
「はぁ……」
乾いた夏の暑さを想像した由香里。ほんの少しだけ前を向く。
でも、やっぱり水族館には行きたくない。
水の跳ねる道の向こう側。イルカの絵の描かれた青いバスが大粒の雨を蹴散らす。
ムッと眉を顰めた由香里は、苦笑する優斗の服の裾を引っ張った。
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