変わらぬ想いの先に

忍野木しか

文字の大きさ
上 下
1 / 1

変わらぬ想いの先に

しおりを挟む

 太田治郎はクワにへばり付いた泥をカマの峰で削いだ。握力の抜けた手が痛い。玉粒の汗が眉間を伝う。クワを地面に倒した治郎は苦土石灰の紙袋を敷くと、ドサっと腰を下ろした。
 五月晴れの鋭い日光が畑に降り注ぐ。
 治郎は粗い呼吸を抑えようと何度も息を吸っては吐いた。手足の震えが止まらない。泥だらけの軍手を外すと、皮ばかりになった腕を摩る。
 早く畝を作り上げなければ。
 治郎は顔を上げて、畑に盛り上がった土の道を見つめた。梅雨が来る前に長ネギの苗を植えなければならなかったのだ。
 暫く俯いていた治郎は、よっこらせと立ち上がった。鋭い痛みが腰に走る。温湿布を貼り直した治郎は畝上げを再開した。
 数年前の川の氾濫で水没した畑には無数の石が転がっていた。石に跳ね返される畝立て機では土に歯が通らない。地道にクワを下ろし続けていた治郎は、生まれて初めて誰かの手助けが欲しいと感じた。
 ーーまだ、生きたい。
 若くして眠りについた妻の涙。六十年の歳月が流れても忘れることのない言葉。妻の分まで生きようと決めた治郎は、親から受け継いだ畑と、沢山の思い出が詰まった家を守り抜くことに生涯を捧げてきた。子供はいない。人一倍頑強だった体のみが、彼の苦労と寂しさを支えた。
 治郎はクワを振りながら腕の力が抜けていくのを感じた。先ほど苦土石灰を畑にまいた際に、腕の筋肉を痛めたのだ。なんとか一つの畝を完成させた治郎は休憩を取ることにした。今朝買ったペットボトルのキャップを握る。だが、開かなかった。固くて回らないのだ。
 水分が取れない。
 どうすればいいのか分からず顔を上げた治郎は、辺りを見渡した。荒れた畑には雑草が生い茂っている。周囲の柵は錆びて曲がり、風化したブルーシートが風に揺れていた。
 結局、ひと畝しか作れなかった治郎は家に帰った。土間で靴を脱ぐと、廊下を這いずるようにして居間に向かう。四日前に作ったご飯が炊飯器の中に残っていた。臭い水のようになった米を啜ると、座布団に突っ伏した。疲労が何時迄も体に残る。もう長いこと風呂に入っていない。治郎は自分の体から漏れる異臭に気づいていた。だが、気にしなかった。
 静かに目を瞑ると、せっせと畑にクワを下ろす若き日の父の後ろ姿が見えた。
 畑を荒らしてしまった。
 深い悲しみが治郎の胸を震わせる。
 雑草の生い茂る畑。石の混じった土。壊れた柵を直すことも出来ない。
 そのまま眠りに落ちた治郎は、妻の夢を見た。
 歳を取った白髪の妻。その両目には涙が溢れている。
 私の葬式だ。
 治郎は夢の中で呟いた。白い布団の上で目を瞑る自分。その隣で一人、妻が泣いている。
 妻を一人にしてしまった。
 治郎は焦った。年老いた妻には足が無い。不自由な体で一人生きる寂しさ。妻がこれからどう生きてゆくのかと考えると、治郎は涙が止まらなくなった。
 はっと目を覚ました治郎。ゆっくりと体を起こす。外はまだ暗い。
 畑で痛めた腕が上がらない事に気がついた治郎は、床に転がる温湿布を腕に貼り付けた。
 畑と家を守らねば。
 まだ僅かに動く体。暗闇の中、治郎は一人立ち上がった。
 
 
 
 
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...