シーブリーズの匂い

忍野木しか

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シーブリーズの匂い

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「行ってくる」
 妻の返事はない。代わりに掃除機の重低音と、廊下を慌ただしく動く妻の足音が響いた。高見洋平は、はぁっとため息をついて会社に向かった。朝の電車は通勤ラッシュに混み合い、冷房が効いていても滲み出る汗が止まらない。何とか電車を降りると、鞄の中身を確認した。書類や手帳、ハンカチに包まれた弁当箱もしっかりと収まっている。
「課長、相変わらず美味しそうな弁当ですね」
 午前の仕事をあらかた済ませた洋平は、弁当箱を開けた。新人の森慎太郎は菓子パンの袋を開けながら、弁当箱を物欲しそうに覗き込んでいる。
「ああ、でも冷たいよ」
 手を合わせた洋平は静かに箸を動かした。冷えたソーセージは匂いが無く、なんだか味気ない感じがした。
 妻との会話が少なくなったのは、いつ頃からだろう。
 妻とは学生時代からの恋愛結婚だった。高校時代はずっと同じクラスで、様々な青春を共に過ごした。新婚時代も仲が良かった。夕飯は必ず一緒に食べ、毎週のように旅行へ行ったのだった。
 やがて子供を授かる。妻は育児に、洋平は仕事に追われるようになると、少しづつお互いにすれ違うようになっていった。
 子供は可愛い。生活も大変だが充実している。いったい何が足りないのだろう? 
 洋平には分からなかった。ただ、妻は毎朝弁当を作ってくれる。洋平は妻への感謝と愛情を忘れたことは無い。
 仕事を終え、帰宅する。疲労で気分が沈んでいた。
 玄関の前で鍵を取り出そうと立ち止まると、家の中から妻と娘の笑い声が聞こえた。
「ただいま」
 小声で呟いた。鞄を下ろして靴をぬぐ。洋平はそっと居間を覗くと、懐かしい匂いがした。爽やかな石鹸のような匂いだった。
「あ、おかえりなさい、あなた」
 妻は珍しく微笑む。
「何だっけ、この匂い?」
 洋平は上着を脱ぎながら、ふと学生時代を思い出した。
「シーブリーズだよ」
 まだ中学に上がったばかりの娘が呟いた。最近、おしゃれに目覚め始めたようで、前髪を上げ、手首には色とりどりのミサンガを巻いている。
「ああ、何だっけそれ?」
「制汗剤よ。なんだか懐かしいわ」
 妻は手首の匂いを嗅ぎながら、白く濁った液体のゆれる水色の筒を洋平に渡した。洋平は蓋を開けて匂いを嗅ぐ。
「ああ、これか。懐かしいな」
「でしょ?」
「お前、よくつけてたよな、これ」
 洋平は学生の頃に若返る気がした。学校の昼休みに、弁当を食べながらこの匂いを嗅いだ覚えがあった。陽が差し込む騒がしい教室。窓から吹く風。揺れる白いカーテン。
 そう言えば、あの頃から妻は私に弁当を作ってくれていたのだ。二人で机を合わせて一緒に弁当を食べた。そして食べ終わった後、手を合わせた私は気恥ずかしそうに言うのだった。
「弁当、美味かったぞ」
 洋平はシーブリーズを片手に妻に微笑んだ。
「……えっ? あ、お粗末さまでした!」
 妻は気恥ずかしそうに微笑んだ。

 
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