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第二章
長い黒髪の妹
しおりを挟むホームルームを終えた教室で三原麗奈に向けられたクラスメイト達の瞳と声に同情は無かった。不動の山稜に向けられるような憧憬と期待の視線。信頼と親愛が込められた声の集まり。麗奈こと障子はそんなクラスメイトたちの目と唇に耐えられないような羞恥を覚えた。不安と孤独感。曖昧な返事と微笑みを繰り返し続けた麗奈は疲れ切った体を引き摺るようにして教室を後にする。山姥の声にさえ愛おしさを覚えるほどの疎外感である。混乱と疲労の中で麗奈は訳が分からないままに大野木紗夜の腕に引かれていった。
「千夏!」
1年B組を覗き込んだ紗夜が声を上げる。麗奈にとって見覚えのある生徒たち。顔を上げた千夏の笑顔が眩しい。姫宮玲華の長い黒髪は見当たらない。
「麗奈ちゃーん!」
聞き覚えのない声。ワックスで固められた猫っ毛の天パ。吉田障子という名の怪奇が目前に迫っても、疲れ乱れ切った麗奈の心は動かなかった。ドッペルゲンガーかもしれない、と鏡に映った自分を見つめる第三者のような視線を送った麗奈は、教室を飛び出た千夏に背中を押されながら校舎の外に足を踏み出した。麗奈の背後に張り付いたまま喋り続けていた吉田障子の甲高い声も次第に遠のき、気が付けば麗奈は見知らぬ家の玄関前に立っていた。
「お邪魔しまーす」
柑橘系のアロマの匂い。玄関に吹き込む夏風に千夏の声が流される。
「さ、入って入って」
紗夜の声に押されるように玄関に足を踏み入れた麗奈は靴箱の上に並んだ写真を見た。家族らしき四人の笑顔。写真に映っている少女の唇は薄い桃色である。フラフラと知らない家に足を踏み入れた麗奈の思考は停止したまま動かない。紗夜に導かれるままに麗奈は陽に明るい階段を登っていった。
田中太郎はいつになく饒舌だった。スクエアメガネの奥でよく動く黒い瞳を輝かせながら、師範である戸田清源という男がどれほどの傑物なのかを彼は語り続けた。金髪の大男を肩に担いでバスに乗り込んだ睦月花子はそんな太郎の得意げな様子に歯軋りした。腕に浮かび上がった血管の数が嫉妬の大きさを示す。花子の腕力に絶命寸前だった鴨川新九郎はバスの座席に下ろされると共に何とか息を吹き返した。
新緑の青葉。小道を挟んだ木々が涼しい影を作る。バスを降りた彼らは静かな山沿いの道を進んでいった。やがて遠くに見え始めた巨大な建造物に太郎の舌の動きが止まる。
「……は?」
目を見開いた太郎は歩みを止めた。その隣で立ち止まった花子は目を細めると、青空の下に聳え立つ白い建物を仰ぎ見た。滑らかなレンガ畳の広い正門。左右の巨大な支柱の天辺には白い石柱が並べられ、神社の鳥居のような様相を成している。
「ここが道教の寺なの?」
「……いや……は?」
太郎は言葉を失っていた。呆然と白い建物を見上げていた太郎はおもむろにポケットからスマホを取り出す。マップを開いた彼は現在地の確認をした。
「ちょっと、君たち」
広い正門の端から現れた警備員らしき青い服装の男が花子たちに声をかける。
「何よ」
「ここに何か用かな?」
「伝説の男に会いに来たのよ。ねぇ、ここって道教の寺なの?」
「ドウキョウの寺? いやいやいや、君たちねぇ、どう見たってここお寺じゃないでしょ。ここはね、心道霊法学会の本殿だよ。何だったら見学してみるかい?」
「シントウレイホウガッカイ?」
「君たち、学生かね。何処の学校だい?」
金髪の大男を肩に担いだ花子に対して警戒心を抱きながらも、男は柔らかな微笑みを絶やさない。その青い警備キャップを横目に見上げた花子の唇が動くと、男の頬がサッと強張った。
「富士峰高校よ」
「ふ、富士峰高校だって……?」
よろけて後ろに下がった警備員の男は慌てて無線を取り出すと、花子たちを横目に小声で何かを捲し立て始めた。眉を顰めた花子は太郎を振り返る。太郎はといえばスマホと白い建造物を交互に見つめるばかりで、警備員の様子など視界に入っていないようである。
「……そうだ、富士峰高校の生徒だと……ああ、フェーズ5の……うん、うん、分かっているよ……」
「何なのよ、たく……こら、憂炎! どうなってんのよ!」
「はあ?」
「早く伝説の男の寺に案内しなさいよね!」
「いや、ちょっと待てって……」
「待てるかっつの! このドアホ!」
「君たち!」
警備員の男が声を上げる。はあん、と腕を組んだ花子が鋭い視線を送ると、男は額に浮かんだ汗をハンカチで拭いた。
「君たち、富士峰高校の生徒さんだったんだね。うんうん、もちろん知っているとは思うが、ここはね、君たちの学校と繋がりの強い場所なんだ」
「だから、何よ」
「もし良かったら中を案内するけど、時間は大丈夫かい?」
「案内? 悪いけどそんな時間……」
「いや、待て! 案内してくれ!」
太郎が声を荒げると、花子の眉が吊り上がった。
「アンタ、なに悠長なこと……」
「ここなんだよ」
「はあん?」
「ここにあったんだ。それが何故か無くなってんだよ!」
「それって伝説の男の?」
「そうさ、ちくしょう、どうなってんだ」
「電話してみりゃいいじゃないの」
「師範は電話を持ってねーんだよ」
「たく……」
手を腰に当てた花子は警備員の男を振り返る。微笑み続ける男の額の汗は止まっていなかった。
「勝手に入っていいの?」
「いや、まぁ、出入りは自由なんだがね。せっかくだから僕が案内をしよう」
ニッと笑った男がまたハンカチを額に当てると、花子は腰に手を当てたまま、やれやれとため息をついた。
「千夏ちゃん、またバイト辞めちゃったの?」
「うん、めんどくさくなっちゃった」
「もう、千夏ちゃん、そんなんじゃお金貯まんないよ」
「えへへ」
ベットに腰掛けた三原千夏の笑顔が眩しい。大野木紗夜の部屋は広かった。物の少ない簡素な部屋の壁には冬山や小川の風景写真が並んでいる。父親の趣味なのだと、紗夜は微笑んだ。
「お姉ちゃんはバイトした事ないよね?」
「……え?」
千夏の笑顔に三原麗奈の頬が強張った。何処か不安げな紗夜の瞳。曖昧な笑みを浮かべた麗奈は首を横に傾げて見せる。もう何度繰り返したか分からない動作である。
「え、へへ……」
「お姉ちゃん、私のことは覚えてるんだよね……?」
「え、う、うん! 覚えてるよ!」
「じゃあ、私の好きな食べ物は?」
「あ、あ……カ、カレー?」
「おお、正解!」
千夏の瞳に夏の一等星が瞬く。ほっと胸を撫で下ろした麗奈は震え続ける指を太ももに下でギュッと握り締めた。
「ねぇ麗奈、もしも何か分からない事があったらさ、何でも私に聞いてくれていいからね?」
優しげに目を細めた紗夜の薄い唇が開く。また曖昧に微笑んだ麗奈はコクコクと細い顎を縦に動かしてみせた。
「お姉ちゃんさ、やっぱり変だよね?」
「そ、そう……?」
「そんなんで部活どうするの?」
「ぶ、部活って……?」
「お姉ちゃん、演劇部の部長でしょ!」
ベットの上で飛び上がった千夏の栗色の瞳が麗奈に近づくと、わっと後ろに身を引いた麗奈の体がベットの上に倒れた。
「ぶ、部長って……」
「大丈夫だよ、千夏ちゃん」
紗夜の微笑み。体を起こした麗奈は込み上げてくる涙に奥歯を噛み締めた。
「大丈夫じゃないよ、今のお姉ちゃん、ポンコツだもん」
「ポンコツでも大丈夫よ。麗奈はどんな風になっても麗奈だから」
「ポンコツで部長が務まるの?」
「うん、麗奈はね、特別だから」
紗夜の長い腕が麗奈の肩にかかる。紗夜の暖かな腕の中で麗奈は涙を溢した。
「麗奈はね、特別なの」
「ひっ……ひっ……」
「例えポンコツになろうとね、違和感を持つ人はごく僅かだよ」
「ひっぐ……うう……」
「例え男口調になろうとね、大丈夫なの。無垢な少女のように繊細な涙を流そうと、豪胆な権力者のように高笑いしようと、誰も麗奈に違和感を抱かないよ。だって、麗奈は天才だから」
「……ひっぐ……ど、どういう意味?」
「そういう意味。ああ、可愛い麗奈。かっこいい麗奈も好きだけど、可愛い麗奈も大好きだよ」
紗夜の唇が麗奈の耳に近づく。ひっと軽い悲鳴を上げた麗奈は慌ててベットの上に転がった。
「あはは、今の麗奈、警戒心無さ過ぎだよ」
「ほんと、お姉ちゃん、警戒心無さ過ぎて怖いよ」
瞳を濡らしながら頬をほんのり赤くした麗奈に、千夏はため息をついた。
「お姉ちゃんさ、ほんと気をつけてよね」
「な、何が?」
「吉田くんだよ、吉田くん」
「……は?」
麗奈の表情が固まる。腕を組んだ千夏のため息が夏の夜の音と重なった。
「アイツ、見境無いからね。ほんとお姉ちゃん気を付けてよ」
「ア、アイツ……?」
「さっきもお姉ちゃんのこと触ろうとしてたし、ほんとヤバいよ、アイツ」
「ち、ち、千夏ちゃん。も、もしかして、その、吉田……って奴に、何かされた?」
「うーん……」
俯いた千夏の栗色の瞳に影が差す。体を起こした麗奈はベットの端に爪を立てると、千夏のタレ目を下から覗き込んだ。
「千夏ちゃん……?」
「……吉田くんね、毎日ベタベタ私の体触ってくるの。だから嫌なんだよね」
絞り出されたような声が夜の音を飲み込む。重苦しい静寂。紗夜の結ばれた唇。腹の底から湧き上がってくるマグマが如き熱が麗奈の首から上を真っ赤に染め上げていった。
は、は、早く……早くアイツを殺さないと……。
羞恥と憤怒の赤。ワナワナと唇を震わせ始めた麗奈の怒りに満ちた表情に、視線を落としていた千夏の唇が横に開いた。
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