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第三章 ドワーフ国編
ジークハルトの変化
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ジークハルトは、ティアを背負って走っていた。
錯乱状態に陥っていた彼女は、カイによって強制的に眠らされた。今はその呼吸も静かで、ひとまず落ち着いている。
彼は、カイからティアを引き受けたときのことを思い返していた。
腕の中で眠るティアの手や腕には、女性とは思えぬほど深く、無数の傷痕が刻まれていた。
最近の戦闘で負ったのだろう、ヴァルゴイアとの戦いの傷も生々しく残っていた。左腕に巻かれていた包帯は途中で緩み、その下には獣に噛まれたような痕があり、そこからはまだ赤い血が滲んでいた。
──なぜ、君は戦う。君はそんな性格じゃないだろ。
その問いは、怒りでも哀れみでもなかった。ただ、答えの出ない空虚な疑問として、ジークハルトの胸に沈殿していた。
ふと、数刻前の出来事が脳裏をよぎる。
『あなたたち、ティアの知り合いか知らないけど……あの子のことこれ以上悪く言ったら許さないから』
『ティアが過去に何をしたのか知らないし、知ろうとも思わない。だけど、大事な友達が泣くことがあれば、あたしがあんたたちを許さない』
あの時、そう言い放ったのは、大道芸の踊り子・リシェルとカナリアだった。
それは、ほんの些細なきっかけから始まった出来事だった。
数日前、街で話題になっていた旅芸人一座の噂を耳にし、マリエルが「見に行ってみたい」と言ったのが始まりだった。ジークハルトは、彼女のためにその願いを叶えようと、興味もなかった一座の公演に足を運んだ。
そこで、思いも寄らぬ再会を果たすことになる。
かつての婚約者。すでに存在すら忘れていた、追放されたはずの女。
レティシア──今は、ティアと名を変えていた。
「……あの方、レティシア様に似てませんか?」
最初に気づいたのはマリエルだった。
ジークハルトは最初、それを彼女の見間違いか、単なる他人の空似だと思った。
だが、視線の先にいたのは紛れもなく、レティシア本人だった。
彼女は旅芸人の一座に紛れ、友人らしき者たちと笑顔で談笑していた。
信じられなかった。罪を犯し、砂漠へと追放されたはずの女が生きていることもそうだが、なにより、あの表情が許せなかった。
マリエルを追い詰め、悲しませ、殺そうとした女。
ジークハルトにとって、レティシアは決して許せる存在ではなかった。
それが、何の咎もない顔で生きている。ティアという偽りの名で、友人を作り、仲間と共に日々を過ごしている。
あたかも、自分の罪など忘れたかのように──笑っていた。
その根性が、神経が、胸を焼いた。
怒りとも、嫌悪ともつかぬ感情が、じわりと彼の中に広がっていく。
──どうして、お前が笑っている。
一時は、レティシアの環境に同情し、歩み寄ろうとしたこともあった。
だが、マリエルが編入してきてからというもの、レティシアの本性は露わになった。放漫で、利己的で、排他的──その姿は、化けの皮が剥がれたようだった。
彼女とは政略結婚のための婚約者関係だったが、情がなかったわけではない。初めて会ったときから、整った容姿には心を惹かれた。
歳を重ねるごとにその美貌はさらに洗練され、隙もなく、知的で、周囲からも理想の令嬢として称賛されていた。
だが、完璧に思えたその姿は仮面にすぎなかったと知ったとき、ジークハルトの心を支配したのは、僅かな愉悦と優越感だった。
“か弱い”マリエルを守るために、彼女には相応の罰を与える必要があった。
マリエルを虐げる卑劣な性根の女で、貶め、傷つけ、命さえ奪おうとした。それが、ジークハルトの中にある“レティシア”という存在だった。
だが今、“ティア”と名を変えた彼女の周りには、彼女を信じ、共に戦おうとする仲間たちがいる。
最初は、巧妙に騙して取り入っているだけだと思っていた。寄生先を変えただけの、同じ人間だと。
しかし、今回の襲撃で、ジークハルトは“ティア”という一人の人間の在り様を、否応なく目にすることとなった。
大道芸の公演が終わり、館に戻ろうとしていた時だった。
突如、東門で爆発が起き、魔獣が雪崩れ込んできた。
魔獣は人の集まる場所に現れる。公演会場は満席で、東区で最も人が集中していた。魔獣が向かってくるのも、ある意味当然だった。
現場はたちまち混乱に包まれた。
「マリエル、私の傍を離れるな」
「護衛騎士の名にかけて、殿下とマリエル様には指一本触れさせません!」
ジークハルトはマリエルの肩を抱き、ユリウスが前へ出て魔獣を薙ぎ払う。
人々は恐慌状態に陥り、狭い通路に密集して身動きが取れなくなっていた。
その時だった。
夕闇の空に、狼煙が上がる。大輪の光の花が空に咲き、人々の目を引いた。
そして、風に乗って女性の声が届いてきた。
「聞いてください!この先にある石造りの倉庫が安全です!冷静に、落ち着いて、走らず、押さず、戻らずに移動してください!」
避難指示だった。
最初に動いたのは、大道芸の一座だった。役者たちは声に従い率先して誘導に走った。
その声に引き寄せられるように、人々は徐々に秩序を取り戻していく。
「あ、この声、英雄のお姉ちゃんの声だ!」
一人のドワーフの子供が叫んだ。
それを皮切りに、周囲の観客も顔を見合わせ──そして頷く。
「あの姉ちゃんか!英雄の指示なら間違いねぇ!」
「よし、俺たちも動けない老人や怪我人を手伝おう!」
混乱の中に確かな秩序が生まれ、避難は円滑に進み始めた。
やがて人々は近くの倉庫へと身を寄せ、その場は“英雄たち”の話題で持ちきりとなっていた。
倉庫を守っていた獣人の戦士や、商人と思しき人物、大道芸の役者たちを、誰もが讃え、口々に「英雄」と呼んでいた。
ドワーフ族でもない者たちが、何故英雄とばれているのかジークハルトは不思議に思い、近くのドワーフの婦人に尋ねてみた。
「あんたたち、ドルマリスの件、知らないのかい?」
驚いた様子でそう言われた。
ドルマリス──王都に向かう前に立ち寄った、ドワーフ国の玄関口。その町は疫病によって封鎖されていたはずだった。
ジークハルトの記憶にも新しい。数日前、そのドルマリスを救ったと噂になった旅商人と大道芸の一座がいた。
まさか、それが彼らだったのか、とジークハルトはようやく納得した。
婦人は続ける。
「団長や医師の活躍ももちろんすごかったが、特に話題になってるのは、女たちの勇敢な行動でね。称賛の声が多いのさ」
「女性が……?」
ジークハルトが聞き返すと、婦人は顎で示す。
「ああ、ほら、あそこにいる女性たちさ」
視線の先には、ティアと共にいた女性たちの姿があった。
──あれは、レティシアと行動を共にしていた女たち。
ノアとエリーは怪我人の手当をしつつ、周囲に的確な指示を飛ばしていた。
ルゥナという名の獣人の少女は、親とはぐれた子供たちの世話にあたっている。
「なんだ、お前さんたち、ドワーフ国を救った英雄を知らんのか?」
近くで話を聞いていた男が会話に割って入ってきた。
「もう一人、銀髪の姉ちゃんがいるんだがな。今も避難誘導で奔走してる。俺も、あの姉ちゃんに助けられたんだわ」
男は快活に笑った。
“銀髪”という言葉に、ジークハルトは即座に反応する。おそらく、その人物は──レティシア。
「あの子の指示で、どれだけの人が助けられたか。今や、この王都グラントハルドの英雄でもあるわね」
そう言って、婦人は感慨深げにうなずいた。
「おうさ。それに、聞いた話だが、ボルグラム王の息子との縁談もあるらしいじゃねぇか」
「それは朗報だ!露店で言葉を交わしたが、気立てもよくて、なにより美しい。まさに申し分ないお嬢さんだったよ」
周囲の称賛の声は止むことがなかった。
人々の目に映る彼女たちは、確かに“英雄”だった。
錯乱状態に陥っていた彼女は、カイによって強制的に眠らされた。今はその呼吸も静かで、ひとまず落ち着いている。
彼は、カイからティアを引き受けたときのことを思い返していた。
腕の中で眠るティアの手や腕には、女性とは思えぬほど深く、無数の傷痕が刻まれていた。
最近の戦闘で負ったのだろう、ヴァルゴイアとの戦いの傷も生々しく残っていた。左腕に巻かれていた包帯は途中で緩み、その下には獣に噛まれたような痕があり、そこからはまだ赤い血が滲んでいた。
──なぜ、君は戦う。君はそんな性格じゃないだろ。
その問いは、怒りでも哀れみでもなかった。ただ、答えの出ない空虚な疑問として、ジークハルトの胸に沈殿していた。
ふと、数刻前の出来事が脳裏をよぎる。
『あなたたち、ティアの知り合いか知らないけど……あの子のことこれ以上悪く言ったら許さないから』
『ティアが過去に何をしたのか知らないし、知ろうとも思わない。だけど、大事な友達が泣くことがあれば、あたしがあんたたちを許さない』
あの時、そう言い放ったのは、大道芸の踊り子・リシェルとカナリアだった。
それは、ほんの些細なきっかけから始まった出来事だった。
数日前、街で話題になっていた旅芸人一座の噂を耳にし、マリエルが「見に行ってみたい」と言ったのが始まりだった。ジークハルトは、彼女のためにその願いを叶えようと、興味もなかった一座の公演に足を運んだ。
そこで、思いも寄らぬ再会を果たすことになる。
かつての婚約者。すでに存在すら忘れていた、追放されたはずの女。
レティシア──今は、ティアと名を変えていた。
「……あの方、レティシア様に似てませんか?」
最初に気づいたのはマリエルだった。
ジークハルトは最初、それを彼女の見間違いか、単なる他人の空似だと思った。
だが、視線の先にいたのは紛れもなく、レティシア本人だった。
彼女は旅芸人の一座に紛れ、友人らしき者たちと笑顔で談笑していた。
信じられなかった。罪を犯し、砂漠へと追放されたはずの女が生きていることもそうだが、なにより、あの表情が許せなかった。
マリエルを追い詰め、悲しませ、殺そうとした女。
ジークハルトにとって、レティシアは決して許せる存在ではなかった。
それが、何の咎もない顔で生きている。ティアという偽りの名で、友人を作り、仲間と共に日々を過ごしている。
あたかも、自分の罪など忘れたかのように──笑っていた。
その根性が、神経が、胸を焼いた。
怒りとも、嫌悪ともつかぬ感情が、じわりと彼の中に広がっていく。
──どうして、お前が笑っている。
一時は、レティシアの環境に同情し、歩み寄ろうとしたこともあった。
だが、マリエルが編入してきてからというもの、レティシアの本性は露わになった。放漫で、利己的で、排他的──その姿は、化けの皮が剥がれたようだった。
彼女とは政略結婚のための婚約者関係だったが、情がなかったわけではない。初めて会ったときから、整った容姿には心を惹かれた。
歳を重ねるごとにその美貌はさらに洗練され、隙もなく、知的で、周囲からも理想の令嬢として称賛されていた。
だが、完璧に思えたその姿は仮面にすぎなかったと知ったとき、ジークハルトの心を支配したのは、僅かな愉悦と優越感だった。
“か弱い”マリエルを守るために、彼女には相応の罰を与える必要があった。
マリエルを虐げる卑劣な性根の女で、貶め、傷つけ、命さえ奪おうとした。それが、ジークハルトの中にある“レティシア”という存在だった。
だが今、“ティア”と名を変えた彼女の周りには、彼女を信じ、共に戦おうとする仲間たちがいる。
最初は、巧妙に騙して取り入っているだけだと思っていた。寄生先を変えただけの、同じ人間だと。
しかし、今回の襲撃で、ジークハルトは“ティア”という一人の人間の在り様を、否応なく目にすることとなった。
大道芸の公演が終わり、館に戻ろうとしていた時だった。
突如、東門で爆発が起き、魔獣が雪崩れ込んできた。
魔獣は人の集まる場所に現れる。公演会場は満席で、東区で最も人が集中していた。魔獣が向かってくるのも、ある意味当然だった。
現場はたちまち混乱に包まれた。
「マリエル、私の傍を離れるな」
「護衛騎士の名にかけて、殿下とマリエル様には指一本触れさせません!」
ジークハルトはマリエルの肩を抱き、ユリウスが前へ出て魔獣を薙ぎ払う。
人々は恐慌状態に陥り、狭い通路に密集して身動きが取れなくなっていた。
その時だった。
夕闇の空に、狼煙が上がる。大輪の光の花が空に咲き、人々の目を引いた。
そして、風に乗って女性の声が届いてきた。
「聞いてください!この先にある石造りの倉庫が安全です!冷静に、落ち着いて、走らず、押さず、戻らずに移動してください!」
避難指示だった。
最初に動いたのは、大道芸の一座だった。役者たちは声に従い率先して誘導に走った。
その声に引き寄せられるように、人々は徐々に秩序を取り戻していく。
「あ、この声、英雄のお姉ちゃんの声だ!」
一人のドワーフの子供が叫んだ。
それを皮切りに、周囲の観客も顔を見合わせ──そして頷く。
「あの姉ちゃんか!英雄の指示なら間違いねぇ!」
「よし、俺たちも動けない老人や怪我人を手伝おう!」
混乱の中に確かな秩序が生まれ、避難は円滑に進み始めた。
やがて人々は近くの倉庫へと身を寄せ、その場は“英雄たち”の話題で持ちきりとなっていた。
倉庫を守っていた獣人の戦士や、商人と思しき人物、大道芸の役者たちを、誰もが讃え、口々に「英雄」と呼んでいた。
ドワーフ族でもない者たちが、何故英雄とばれているのかジークハルトは不思議に思い、近くのドワーフの婦人に尋ねてみた。
「あんたたち、ドルマリスの件、知らないのかい?」
驚いた様子でそう言われた。
ドルマリス──王都に向かう前に立ち寄った、ドワーフ国の玄関口。その町は疫病によって封鎖されていたはずだった。
ジークハルトの記憶にも新しい。数日前、そのドルマリスを救ったと噂になった旅商人と大道芸の一座がいた。
まさか、それが彼らだったのか、とジークハルトはようやく納得した。
婦人は続ける。
「団長や医師の活躍ももちろんすごかったが、特に話題になってるのは、女たちの勇敢な行動でね。称賛の声が多いのさ」
「女性が……?」
ジークハルトが聞き返すと、婦人は顎で示す。
「ああ、ほら、あそこにいる女性たちさ」
視線の先には、ティアと共にいた女性たちの姿があった。
──あれは、レティシアと行動を共にしていた女たち。
ノアとエリーは怪我人の手当をしつつ、周囲に的確な指示を飛ばしていた。
ルゥナという名の獣人の少女は、親とはぐれた子供たちの世話にあたっている。
「なんだ、お前さんたち、ドワーフ国を救った英雄を知らんのか?」
近くで話を聞いていた男が会話に割って入ってきた。
「もう一人、銀髪の姉ちゃんがいるんだがな。今も避難誘導で奔走してる。俺も、あの姉ちゃんに助けられたんだわ」
男は快活に笑った。
“銀髪”という言葉に、ジークハルトは即座に反応する。おそらく、その人物は──レティシア。
「あの子の指示で、どれだけの人が助けられたか。今や、この王都グラントハルドの英雄でもあるわね」
そう言って、婦人は感慨深げにうなずいた。
「おうさ。それに、聞いた話だが、ボルグラム王の息子との縁談もあるらしいじゃねぇか」
「それは朗報だ!露店で言葉を交わしたが、気立てもよくて、なにより美しい。まさに申し分ないお嬢さんだったよ」
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