奴隷契約書の先

史乃あき

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②-1始まりと終わり

 秋口も幾日か過ぎ、朝夕は外を出歩けば少し秋らしさも実感できるようになってきた時分、私、桐生春香の大学3回目の夏休みも終わろうとしていた。
 サークル活動や、バイトなどをしていない私にとって、夏休みは引きこもって本を読みふけるのにとても有意義な時間であった。
 図書館で借りだめていた本を返し、新学期に向けて数冊の専門書を借りまっ直ぐ家路についていた。
 一人暮らしをしているマンションまであと少しというところで、突然背後から声がかかった。

「おい、お嬢さん。落とし物だよ」
 
 春香はハッとして振り返ると、そこには見知らぬ男の姿があった。 
 彼は180cmほどの大男で、100kgは超えているだろうともわせるような体系をしていた。それも格闘家やラガーマンのような鍛えられた肉体ではなく、卑しく肥え太ったまさに豚のような男が、不潔な格好で、下品な笑みを浮かべてそこに立っていた。
 その男の手にはまさしく女性もののハンカチが握られており、こちらに渡そうと手を伸ばしながらゆっくりと近づこうとしてきた。

「いえ、多分私のではないので大丈夫です。ありがとうございます。」
 彼の異様な雰囲気と、異臭から少しでも離れたいと強く思い後ずさる。

「いやいや、そんな目で見ないでよ。おじさん傷ついちゃうよ。これを渡すだけだから。さっき君の鞄から落ちたの見たから間違いないよ。」
 そういいながらずかずかと距離を詰めてくる。
 
 はやく受け取ってこの場から離れたい。そう思い、春香は必死に笑顔を作り、ハンカチを受け取ろうと手を伸ばした瞬間、男の表情が一変した。下品な笑みがさらに歪み、目が不気味に輝く。
 男は素早く彼女の腕を掴んだ。

「つーかまえたー。 ちょっとおじさんとお話ししようか。」

 その力は想像以上に強く、春香は思わず悲鳴を上げそうになった。

「大丈夫何もしないから。騒がないほうがみんなのためだよ。」

 そういいながら顔を近づけてくる。
 男の息が春香の顔にかかった瞬間、春香は思わず顔を背けた。その息は、腐った生ごみと汗の混ざったような、鼻を刺すほどの異臭だった。不快感が全身を駆け抜け、春香は吐き気を覚えた。男の口元には黄ばんだ歯が不ぞろいに並び、その隙間から垂れた唾液が不潔な光を放っていた。
 背けた顔をお構いなしに男は小さな声でしゃべりだす。

「君のおうちの会社の犯罪行為。おじさん知ってるんだよね。証拠もある。これが世に出ると、家族みんなおわっちゃうねー。大きなグループだし何人首くくるか楽しみだね。」

 春香は息を呑んだ。彼の言葉は刃物のように彼女の心に突き刺さり、動揺が全身を駆け抜けた。しかし、すぐに彼女は冷静さを取り戻し、毅然とした口調で返した。

「そんなことありません。父も母もみんな尊敬できる人ですし、悪いとなんでやってないです。会社でそんなことが起こっているなら見過ごすような人は一族にはいませんから。」
「そう信じたいよね。わかるよ。まあ嘘かほんとかしっかり見て、聞いて判断したらいいよ。嘘だったら、脅されたとかで警察に駆け込んでもいいからさ。でも、今ここでお話してて大丈夫?僕たちはたから見たらすごく目立つよ。このままだと、君や会社のうわさがいっぱい流れるかもね。」

 春香は男の言葉にハッとした。確かに、大柄な男と自分が密着している姿は、周囲から見れば不自然で、噂の種になるだろう。たとえうその話でも、第三者に聞かれて、うわさされるのはよくない。彼女はどうすべきか少し考えた。。

「おじさんの家すぐそこだから、そこで話す?それとも君のうちで?君が選んでいいよ。」
「わかりました。家で話します。でも、少しでも変なことしたらすぐに警察呼びますよ。警備員もいますし。この時間だとお兄ちゃんも部屋にいますか。あ、歩くときは少し離れてくださいね。」

 春香は男の提案に一瞬迷ったが、彼の「家」に行くよりはマシだと判断し、必死に冷静さを保ちながら言った。 
 春香の住んでいるマンションは富裕者向けのマンションで、学生が一人暮らしをしているようなマンションではなかった。セキュリティもしっかししており、コンシェルジュや警備員も常駐している。
 ただ、それだけでは不安だったので、一人暮らしだとばれないようにとっさに兄の存在をほのめかした。

 春香と男はマンションの中に入っていった。
 正面玄関からだと人に見られるので、地下駐車場からの裏口を使った。
 裏口は暗証番号がないと開かないし、仮に相手もそこからのエレベーターは部屋のカードキーが必須であった。
 男は不気味なほど静かに、そしておとなしくついてきた。
 春香は震える手で鍵を開け、部屋に入った。
 男は後に続き、部屋に入るなり、ソファにどかりと座った。

「さあ、話の続きをしようか。おっとその前に自己紹介しないとな。俺の名前はまさよしだ。正義ってかいてまさよしとよむ。今から話す内容にちょうどいい名前だと思うよな。」

 春香はまさよしの態度にイラつきながら、彼と向かい合って座った。

「犯罪の話ってどういうことなの?何をして、どんな証拠があるっていうの。なぜあなたが持ってるの?」

 まさよしはにやにやしながら、春香をじっと見つめた。

「まあ、あせるな。きちんと説明するよ。」

 そういいまさよしは下品な笑顔のまま話し出した。
 一連の出来事ですっかりキャパオーバーをしていた春香は、それでも外面だけはしっかりと体裁を整え聞いていたが、不快感と嫌悪感、緊張感のためか話の内容は全部頭には入ってこなかった。
 ただ目の前の男が主張するには、春香の一族は表向きの会社経営以外に人身売買や、違法薬物の製造、非合法な人体実験や武器の密輸を行っているらしい。
 根も葉もない嘘。春香は到底信じれなかった。

「そんなことありません。みんな正直者で、会社も清潔です。」
 そういいながら、いつも清く正しく、公正に、嘘偽りなくいきなさいと教えてくれた父の顔を思い浮かべた。

「そうか? じゃあ、これを見せてやるよ。」
 男はポケットから折りたたんだ紙を取り出し、春香の前に投げつけた。彼女は恐る恐るそれを拾い上げ、中身を確認した。そこには、彼女の会社の内部文書らしきものがコピーされていたが、内容は曖昧で、犯罪行為を証明するものは何もなかった。

「これだけですか? これでは何の証拠にもなりません。」
 春香は毅然とした態度で言ったが、男は肩をすくめ、あざ笑った。

「まあ、これだけじゃないよ。もっとあるんだ。写真もある。」
 そういって取り出した写真は目をそむけたくなるようなものだった。
 高く積まれた子供の死体、流れる血。そんなグロテスクな写真だった。

「こういうのもあるにはあるんだけれども、お嬢様にはちょっと刺激が強いかなと思ってね。ちなみにそれはコピーだから上げるよ。本物は家にあるから捨てても無駄だからね。今日は持ってきてないけれど、証拠になりそうな薬や道具、動画や音声も用意してるから見たかったら言ってくれよ。」

「これで私を脅そうっていうのですか。」
 春香はおびえながらも。精一杯の強がりな態度で答えた。
 この男の言っていることは全くのでたらめで、嘘だと信じている。
 それでもまさよしの言葉に、胸が締め付けられる。彼女はまさよしを睨みつけながら、声を震わせた。

「何が目的なの。お金なの。」
「お金じゃないよ。もっと簡単なことだ」

   まさよしはニヤリと笑い、春香を挑発するように言った。
 
「簡単なこと?何よ?」

 まさよしは春香をじっと見つめ、ゆっくりと口を開いた。

「お前に、ちょっと簡単なことをしてほしいだけだよ。大丈夫なにも犯罪を犯せというわけではないし、誰にでもできることだ。心配するなよ。お前にとって、簡単なことだ。明後日までに答えを出せ。それまでに答えがなければ、あとはわかるよな。何をするかはその時に教えてやる。回答はその時に聞かせてもらうからな。」

 男はもうこの件については何も言わないというような強い表情で、念をおした。

「……わかったわ。」

 まさよしは満足そうに笑い、春香の部屋を舐めるように見回した。

「すまないがトイレを貸してもらえるか?だめだと言ったらこのまま漏らすが…。」
 男は下品な笑みを浮かべながら、春香を見下ろした。彼の言葉は明らかに挑発的で、春香は不快感を覚えた。

「トイレはあそこです。」
 春香は震える声で、廊下を指さした。男は礼を言いにやにや笑いながら、その方向に向かって歩き始めた。
 数分して男は帰ってきた。
 このままここに居させてはいけない。この男のペースに流されてはいけないと思い、出ていくように強く促した。

「わかったわかった。もう出ていくよ。今日は話だけの約束だったからな。
俺は約束は守る男だ。心配しなくても、もうお暇させてもらうよ。しっかり、考えろよ。お前の選択次第で、すべてが決まるんだからな。」

 春香はまさよしを見送り、ドアを閉めた。男は最後まで下品に笑いながら、「お兄さんによろしく」と言いながらドアの向こうに消えていった。彼女の心は重く沈んでいた。
 玄関で座り込み、まさよしが要求する「簡単なこと」が何なのか、なんでこんなことになったのか、これからどうするべきなのか、彼女はただただ、暗く、重く悩んでいった。
 春香の眠れない夜の始まりであった。
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