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3.二人の関係

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「彼女はロレーヌ・ベンター。若く見えるけど二十六歳。元はライネローズの貴族でね。カルヴェ伯爵家の三女。四年前ダトル皇国のベンター公爵家に嫁いだんだ」
 訊いてもいないのに、アレクシは勝手に喋り始めた。

 夜風に当たりにバルコニーに出たけれど、風は吹いていなかった。
 春だというのに、夜だからか肌寒い。
 ミシェルは冷えた手摺から指を外し、手摺に背中を寄り掛からせた。

「四年以上前にも、カルヴェ伯爵家に招かれたことはあるけど、彼女とは会ったことがないわ」
 カルヴェ家はライネローズでも有数の名家である。
 ミシェルも父に同行し、父の前座として演奏を披露したことがあった。
「病弱だし……内気でね。社交場が苦手な人だったから」
「そんな感じね。淑女らしくは見えなかったもの」
 とても二十六歳になる淑女とは思えない。おどおどした態度は、まるで小動物のようであった。

「君だって淑女らしくはないだろう?」
 アレクシが軽く笑い言う。
「ドレスを着たら他の誰よりも淑女らしく振る舞う自信はあってよ。……ずいぶん彼女を庇うのね?それに、親しかったような口振りだわ」
「それは、まあね。付き合っていたんだ。彼女が嫁ぐ前の、数ヶ月間だけど」
「……初耳ね」

 アレクシとミシェルは以前から顔見知りであったが、親交が深くなったのは父が亡くなる少し前。
 彼の家がミシェルの後見を申し出てからになるので、二年半ほど前からになる。
 親しくなった今ですら、彼の交友関係を把握してはいないのだ。
 四年前のアレクシが誰と付き合っていたかなど、ミシェルが知るはずもない。
 噂になっていれば耳にしたかもしれないが、彼の話し方だと、大っぴらな交際ではなく、隠れて付き合っていたのだろう。

(彼女がワイングラスを割ったのは、昔の恋人と再会したせいかしら……)
 動揺する彼女を飄々と見ていた男を、ミシェルは怪しんだ。

「捨てた女に四年ぶりに再会したというわけ?」
「なぜ僕が捨てたって決めてかかるのさ?」
「あら、あなたが捨てられたの?」
 アレクシは考え込むように少し黙ると、ミシェルと同じように手摺に背中を預けた。

「どうだろう。捨てたのか、捨てられたのか。今でもよくわからないな。僕と交際していた時、彼女にはすでに婚約者がいて、嫁ぐことが決まっていたからね。それに当時、僕は彼女を愛してはいなかったし、彼女もたぶん僕を愛してはいなかったから」
「体だけの関係だったってことでいいのかしら。初心そうに見えたけれど、人は見た目によらないのね」

 昔に比べれば貞操観念は薄れているとはいえ、貴族の令嬢は結婚まで処女であることが望まれていた。
 非処女の結婚が法律で禁止されているわけではないが、男なら結婚までの色恋は『経験』の一言で片付けられることも、女だと非難される。
 男の自分勝手な処女願望は馬鹿らしいとは思っていたが、婚約者がいながらアレクシと関係していたとなると話は別だ。
 衆目を浴びただけで顔を赤くさせていたロレーヌという女からは、不誠実な印象は受けなかった。しかし外見や態度が、内面と異なるのは珍しくない。いや、内気に見える女性ほど、実は好色だったりもする。
 ミシェルは蔑むように失笑した。

「そのダトル皇国の公爵夫人が、なぜ夜会に出席しているの?」
「クラウス・ブロウリはベンター公爵のお気に入りだったらしいよ。公爵家の援助があったからこその、地位と名声だろうね。もちろん彼自身の実力がないと、ここまで成功してなかったと思うけど」
「どこの国も同じね」
 自虐を込めてミシェルは呟く。

 音楽家は才能だけでは、名を残すことは出来ない。
 後援者や国が、生活を支援することで、音楽家は音楽に没頭出来る。
 そして、いくら才能があっても支援がなければその実力を発表できる機会が与えられない。
 それは音楽家だけに限った話ではなく、芸術家には最低限の出世術が必要だった。

「ベンター公爵もいらしているの?」
 父の庇護を失ったクラウスは、どのような経緯で公爵家の支援を受けるようになったのだろう。
 疑問に感じつつミシェルが尋ねると、アレクシは首を振る。
「夫人だけ?」
「そう。というかね、ベンター公爵は一年前に亡くなられてるんだ。ロレーヌは、あの若さで未亡人なのさ」
「……未亡人、ね。国内の演奏会なら理解も出来るけれど、公爵家の未亡人が他国にまで同伴するなんて。私には、結構な醜聞に思えるわ」 
 親密な二人の様子を思い返す。
 ミシェルの声音は自然と刺々しくなった。
「それも一年前に亡くなったばかりなのに。お気に入りのピアニストを連れて旅行気分に浸るには早過ぎじゃないかしら」
「未だに父上の喪に服している君が不快に感じるのは当然だろうね」
 同意し批難して欲しかったわけではないが、アレクシの飄々とした口調はミシェルを苛立たせた。
「喪服を着てなかったことを責めてはいないわ。夫を亡くしたばかりなのに、夜会に若い男を連れ立って出席することを恥知らずだと思っているだけよ。まあ、婚約者がいながらあなたと交際してたくらいだから、恥知らずなのは今に始まったことじゃないのでしょうけど」
「……やけに攻撃的だね。貴族連中のお喋りをくだらないと一蹴してる君らしくない。それほど彼女のことが気に食わなかったってことかな」
 アレクシがくすりと笑って、指摘する。

 確かに初対面の、無関係な相手の陰口をたたくのは自分らしくない。
 苛立ちを抑え、ミシェルは彼に微笑みを向けた。

「そうね。あなたと昔、関係のあった女だから、気に入らないのかも」
「なら僕も、彼を気に入るわけにはいかないね」
「彼って?」
 誰のことを言っているのか予想はついたが、敢て尋ねた。
「クラウス・ブロウリ。色男のピアニストさ。顔は負けていないと思うけど、身長は彼の方が高い」
「彼は父の元弟子よ。私とは無関係。ああ、昔関係のあった女の愛人が気に入らない?それなら仕方ないわ」
 からかうように言うと、アレクシは肩を竦めた。
「無関係には見えなかったけどね。……それはともかく、愛人と決め付けるのはどうかと思うよ」
「噂好きの淑女じゃないから、愛人だと騒ぎ立てたりはしないわ。それに、私だって他の人達から見れば、あなたの愛人のようなものだもの」
「愛人じゃなくて恋人でしょ」

 ミシェルは彼の言葉を鼻先で笑って、貴族達が歓談している様子を窓越しに眺める。
 彼らからもミシェル達が見えているだろう。
 親密そうに話すミシェル達の姿が、彼らの話題にのぼることもあるはずだ。

(ロレーヌやクラウスを私が批難したら、彼らはお前が言うなって思うのかしら)
 自嘲すると、少しだけ気が緩んだ。

「彼……クラウスは父の愛弟子だったわ。父には彼以外にも多くの弟子がいた。でも後にも先にも、父が一番目を掛けていたのは彼だったの。孤児だった彼の後見人になって、自宅に住まわせて……まるで自分の息子のように可愛がっていたのよ。けれど彼は……そんな父の期待を裏切った。私の彼への態度が無関係に見えなかったのは、その蟠りが原因ね」
「……蟠り?」
「そう。私、彼を軽蔑してるのよ」
 へえ、と相槌を打ったアレクシは、ミシェルの様子から訊いても無駄だと察したのか、別の話題を振ってきた。
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