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1
「えー、ウーロン茶ひとつに厚揚げと鳥の煮込み。あああと、冷やしトマトも」。「はいよー」。高井戸駅前の居酒屋「小春」のカウンター席に近藤寛は腰を掛けていた。3年前に高井戸駅のアパートに引っ越してきてからの常連の店である。焼き鳥の居酒屋だというのにユーロジャズが不断なく流れているのがこの店の特徴である。女将兼店長の小春さん(苗字は忘れた)は来月で45歳と聞いているのに、30歳になったばかりと言われても誰も疑わないであろう程に若々しい。肩くらいまでの黒い髪を後ろで束ね、鼻筋が通った綺麗な横顔で丁寧にアルバイト君に仕事を教えている様子は聖母のようである。勿論ユーロジャズは小春さんが流しているのだから、文句は微塵もない。焼き鳥の煙に巻かれ汗をタオルで拭う小春さんから、手元の厚揚げに視線を戻す。せっかくの華金だというのに一人で酒を飲むのは孤独感を感じざるを得ないが、もうそれにも慣れた。いやもうそれも終わるのか。絵にかいたようなしたり顔を周囲に見せつけながら、彼は葛西佐紀のことを思い浮かべた。明日は午後から彼女と食事にようやく行ける。寛は新米刑事ということもあってか、日程の調整が難しかったのだ。ウーロン茶をちびちび飲みながら、携帯電話のアルバムの柏田佐紀の写真をじっくり眺める。佐紀という女性の素晴らしさを熱心にいつの間にか隣に座ってきていた近所の銭湯のオーナーの堺にペラペラ話していた時、右ひじから振動を感じた。鈍い振動。間髪入れずに裏にしていた携帯の画面をひっくり返した。寛人は軽く舌打ちをしたあと天井に思いっきり溜息をぶつけてやった。「竹下さんからのお呼び出しかい?」にやにやしながら銭湯のオーナー堺がこっちを見てくる。
イラつきながら寛は、「ジンジャエール一つ!急いで!」
と急かすように奥でボケっと突っ立っているバイトの学生に呼びかけた。
2
寛は高井戸の隣の駅である浜田山駅から10分ほど離れた新しいアパートの前に自分の車を停止させた。すぐ事件現場にくることができたのは良かったことだが、浜田山は寛の生活圏である。身近で事件が発生したことを知り、少し身が引き締まった。
「遅えぞ」竹下慶は寛の右胸を軽く小突いた。寛の20年先輩のベテランの刑事である。一日二箱吸うヘビースモーカーなだけあってニコチンの匂いがいつもきつい。寛は少し体を後ろに仰け反りながら、「他殺ですか?」と尋ねる。「恐らくな。仏さんは高さ12メートルのベランダから落下してそこの駐車場で全身を強打して血を流していた。だが部屋には被害者の大量の血が流れだしていた。おそらく犯人に襲われた後、放り投げられたんだろう」
「了解です。自分も部屋見てきます。」
寛は頷く竹下を確認した後、背後にいた捜査員らに警察手帳をみせ、悠然と事件があったアパートの4階まで階段で上がり、その階の401号室に入っていった。玄関はこじんまりとしていた。物も大して置かれていなかった。玄関から家の中に入り廊下は細く、右手にトイレ、洗面所と浴室の部屋、左手に一人暮らしには十分な大きさのキッチンがある。そこを通り抜けてリビングに寛はおもむろに足を踏み入れた。床には大量の血が流れていた。被害者は後頭部を強く殴打されたという話であったからリビングで襲われたということだ。
床にはカーペットのようなものは一切しかれていなかった。教科書やパソコン、飲みかけのコップ、A4のコピー用紙、モバイルバッテリー、イヤホンが置かれた勉強机。部屋の隅に置かれた橙色の小さなマットの上に置かれた観葉植物。パキラか何かだろうか。茶色い引き出し付きの台の上に置かれた32インチほどの小型テレビ。寛は引き出しの中のDVDを中身も空けて確認する。作品は邦画であれば典型的なミーハーな人間が見るようなイケメン俳優、美人女優のパッケージの作品ばかり、洋画もこれまた誰でもキャラクター名を諳んじられるようなシリーズ物の作品ばかりであった。寛は部屋を見回すが、他に変わった点は無いように判断し、リビングからベランダに出た。
部屋が暑かったせいか8月だというのに外気がいくらか涼しいとさえ感じられる。どこまでも続いていきそうな黒い夜空には無数の星が輝いている。寛はベランダから少し上半身を乗り出して下をのぞき込んだ。高さ12メートル。寛は部屋を出て、4階の廊下に待機させていた化学捜査班らにリビング、そして主にベランダを重点的に調べるよう指示を出した。
「被害者は勉強机に置かれたものから判断するに女子大生です。部屋は物も少なく殺風景であり、観葉植物の世話も行き届いて無いようでした。恐らく大雑把な性格の女性でしょう。部屋は荒らされた形跡は一切ありません。被害者の事をよく知っているものによる犯行だと考えられます。お願いします。」寛はつっかえることなくすらすらと自信ありげな表情で竹下に採点を仰いだ。竹下は10秒ほど間を置き、スカスカの頭をボリボリかき、「悪くは無い。」と吐き捨てた。
4
二人はまず被害者の両親、そして彼女が通っていた大学の知り合いに直接聞き込みを行った。
両親は悲痛な表情をこらえて亜紀について色々話してくれた。山田亜紀は、昨年の大晦日に実家に帰省してきたときに満面の笑みで結婚したい相手がいると告げたそうだ。
両親からの話でその男が堀田亮という男であるということを知った。「私と亜紀と堀田君の三人で一度だけ外で食事をしました」母である山田佳代が懐かしんだ様に寛の目を見て言う。「その時は結婚の話などはしませんでしたが、堀田君は真面目で信用できる男性だったので私は安心したんです」
寛と竹下は、両親からの聞き込みを終えた後直ぐに堀田亮が住むアパートに向かった。
5
「亜紀が死んだのを知ったのは、僕の携帯に亜紀のお母さんから電話が掛かってきたときです。」目の前にいる山田の彼氏である堀田亮は顔を強張らせながら寛の質問に答えた。堀田のアパートの近くのチェーンのカフェに三人はいた。堀田は、山田佳代の話していた通りの好青年だった。白いシャツにヴィンテージ物の青いジーンズ、さわやかな印象で女にモテそうな男だった。
「その日、つまり8月13日以前で最後に彼女に会ったのは?」
「8月11日です。その日は彼女の大学の帰りに会って、映画館に行ったあと二人で居酒屋に行って、その日は日付が変わる前に別れました」「最近亜紀さんに変わったことはありませんでしたか。些細なことでも良いのですが」竹下はカフェのソファー席に深く腰掛け堀田に尋ねる。「特には気づきませんでした。」「亜紀さんを恨むような人間に思い当たりなどは?」「いえ、無いです」堀田は寛の質問にもキッパリと答えた。「亜紀さんはあなたと結婚したいと両親に話していたそうでした。結婚の話はよくされていたのですか?」寛は尋ねた。「少しはそういった話をしたことは勿論ありましたが、そこまで詳しく真剣には」「そうですか。事件当日堀田さんはどちらに?ああ気にしないでください、ただの事件調査の一環としいてお聞きするだけですので」
「あの日は大学の課題を徹夜でやった後、夕方、たしか五時過ぎに起きて8時になる少し前からサークルの男友達の家に行って宅飲みをしてましたね。亜紀のお母さんから電話が掛かってくるまでです。」「成程。そうですかそうですか」寛はメモを熱心に採りながら頷く。
竹下はシロップを三個注ぎ込んだアイスコーヒーをグビッと飲みほした後、少し間をおいて、いささか不謹慎で躊躇われますが、と前置きしたうえで「あなたは守れなかったことを悔いていますか?」と聞いた。堀田は少し強い口調で当たり前ですと言い返した。二人は堀田に礼を言い、自宅のアパートの前まで送り届けた。堀田は二人に丁寧に一礼した後アパートの二階の部屋に入っていった。堀田の話で矛盾点は無かったが、寛人は竹下が最後の質問を尋ねた際、堀田の目線が少し定まらないように見えたのが気になっていた、そしてそのことには質問をした竹下も当然気づいていた。
二人が有力な情報にたどり着いたのは、翌日の事である。二人は亜紀が働いていたカラオケ店を訪ねていた。笠井美穂は亜紀と大学は違うものの、同時期にバイトを始めた友人で二年以上の付き合いであった。彼女によれば8月に入ってからというもの亜紀は元気がないようで養分を失ったようにほっそりしていたという。「亜紀は自分が重い女なのが悪いのだとかなんとか言っていました」笠井は淡々と言った。この人はそこまで亜紀とは気の置けない関係では無いと笠井の話口調をみて寛人は判断する。「というとそれはやはり山田さんの彼氏さんとのことになるのでしょうか」竹下も淡々と笠井に尋ねる。「たぶんそうだと思いますね。亜紀は結婚したいんだけど彼氏の反応が良くない、みたいな」笠井は淡々とした話し方で答えた。となると堀田は結婚について真剣に話したことは無いような言い方をしていたことと、この笠井の供述は相違するように思えた。最後に寛は笠井の山田に対してのどこかよそよそしい態度が気になってそれを尋ねると、笠井は「亜紀ちゃんは全然良い子なんだけど、たまに何を考えているのかわからない時があったのよね。それもあって休みの日に二人で遊びに行くとかは無かったわ。彼女あまり友達も多いタイプでは無いと思う。けど堀田君でしたっけ、その彼氏のことは嬉しそうに話してたわよ」
6
その日の夜、署に戻り会議が行われ日付が変わったころ一度寛は仮眠を取るために家に帰るよう竹下に指示を受けた。といっても寛は家には直帰せず一時間だけ小春に立ち寄った。
「寛ちゃん、疲れ切ってるねえ。あれそういやこないだ見せてくれた女はどうなったんだよ」
「結局会えてませんよ。しかも詫びのメールの返信も「了解だよ」の一言ですよ。もういつも竹下さんのせいで邪魔が入るんだから。」寛はうんざりしながらいつものごとく堺と話している。「いや竹下さんのせいじゃなくて、事件が起きた。そして寛ちゃんは新米と言っても刑事。いくら巨乳の子とのデートでもことわらなきゃ」梅酒のソーダ割しか飲まないのに常時泥酔している堺がにやにやしながら言う。「まあまあ豊さん、寛ちゃんは立派よ。寛ちゃんたち刑事さんがいるから私も、毎日安心してお店やっていられるんだから」小春はニッコリと微笑み、サービスのポテトサラダを寛に渡してくれた。「いま調べているのは浜田山の事件なんですよ」「あら、若い女性についてニュースでやっていたあれのこと?」小春は驚きで大きな目を更に見開いた。寛人は頷いた後「なにやら簡単に終わらなそうなところがあって。小春さんの言う通り、浜田山の治安を守ることはこの店を守ることに繋がるかもしれませんね。」寛は強がりながら、すこし照れるように小春に言った。
「小春ちゃんあんまり聞いちゃだめだよ。あんまりペラペラ話すと竹下さんに殴られちゃうもんなあ寛ちゃん」
「豊さんがいつも一番詮索してきますけどね。」
寛は苦笑いしながら言う。
「ちょっ、俺もう家帰らなきゃ。小春さん、トイレ借りますね」寛は自分の分のハイボールを飲み干して立ち上がった。
寛がトイレから戻ると、何やら豊田と小春がそわそわ話していた。「豊さん、小春さんは洗いものとかあるんですから邪魔しちゃダメすよ」寛はそう言って椅子をひいて座った後、豊田が山田亜紀の写真を持っていることに気づいた。「あれ、おれ落としました?そっか、さっき立ち上がったときか。すません豊さん」寛は豊田が右手で持っている写真を取り戻そうとした。すると「やっぱそうだ、寛ちゃんこの子、浜田山の子かい?ニュースでやってる」豊田はいぶかしそうな表情でこっちを見てくる。「そうですけど、どうしたんすか」「こないだニュースの写真は髪が短かったから分かんなかったけど絶対そうだ。」
「だからなにがですかって」寛は急かすように豊田の顔を覗き込む。
「この子、先週見たぞ商店街で」
「え、どこでですか」
「探偵事務所だよ。栄田さんのとこの息子がやってる」堺は答えた。
7
仮眠を取った後、寛は竹下に昨日堺から聞いた旨を話し、高井戸駅商店街の小さな探偵事務所を訪ねた。堺が言っていた通り山田亜紀は栄田探偵事務所に依頼をしていたことが分かった。「浮気調査です。一番ありふれた依頼ですね。山田さんは彼氏の堀田さんが浮気をしているかどうかを調べてほしいと7月の頭のころにうちに相談に来ました。」「その時の山田さんの様子はどのようなものでしたか?」「山田さんは、自分が一番愛している彼氏に近づいているひとがいるかも知れない、そう言っていました。自分たちは結婚したいのにとも言っていました。」探偵事務所の栄田は真剣な表情で寛に答えた。「で、とどのつまり堀田は浮気をしていたという証拠はつかめたんですか?」
「いえ、わからないまま終わってしまいました」「といいますのは?」寛は首をかしげながら栄田の方を見る。「8月に入ってすぐ、もう調査はしなくていいと山田さんから電話があったんです。7月中、堀田さんを調査していましたがどうにも短い期間だったので、浮気をしていたかどうかは分かりませんでした。」
「つまり堀田の浮気を山田亜紀は疑っていた。そして探偵事務所に依頼をした。にもかかわらず急に8月に入り調査の中止を申し出たと。」「はい、そうです」
探偵事務所を出た後、寛と竹下は寛の車内で考えをまとめていた。「山田亜紀のバイト仲間である笠井の証言では、山田が明らかに元気が無くなりだしたのも8月の頭。依頼の中止を申し出た時期と重なります」「寛。浮気調査を頼んだ人間が急にその依頼を取りやめる。どういう事態が想定されると思う」竹下は鋭く冷え切った目で寛の目をまっすぐ見る。「パートナーが浮気をしてないと確信したときでしょうか。例えばそのことについて相手に問いただしたところ満足のいく回答が得られたとか。それでもう依頼の必要性が無くなって」「まあその場合もあるだろう」竹下は
ペットボトルのお茶をひとくち飲んだ後「逆じゃないのか」と小さな声で言う。そして続けて「山田亜紀は自分の手で浮気の証拠を掴んだ。その場合も探偵事務所を頼る必要などない。」「つまり堀田は、山田亜紀の予想通り浮気をしていて、山田はそのことに気づいてしまった。」
そのとき、助手席に座っていた竹下の左胸に入れていたガラケーが鳴った。
竹下は電話に出て、適当な返答をした後、警察署にすぐさま向かえと寛にいった。
8
逮捕された男は佐伯隆文、浜田山駅北口の目の前にあるパチンコ店に勤務する54歳の男である。佐伯は今年6月ごろから、空き巣を繰り返していた。7月29日に一人暮らしの女性の家で被害総額120万円の宝石とアクセサリー類が盗難された事件が起こった。佐伯は空いた窓から忍び込み金品を盗むことには成功したのだが、家から逃げる際、道路で会社員の男性にぶつかった。その会社員の男性が佐伯の顔を覚えており、佐伯はその日から22日後の今日8月22日に逮捕された。佐伯は自分が行ったすべての盗難事件について自供した。
問題なのは、佐伯があの日、つまり山田亜紀が死亡した日にあのアパートに、そして山田亜紀の部屋に空き巣に入ったことを供述したことである。
竹下と寛は取り調べ室に入り、慎重に佐伯に質問を投げかけた。
「あの日、8月13日に山田亜紀の部屋に入った日の事を詳しく話してくれ。ゆっくり
全てを思い出しながら」寛は冷たく厳しい口調で佐伯を睨みつけながら聞いた。犯罪者に遠慮はいらない。佐伯はその寛の様子を見て唾を一度音を鳴らして飲み込み、ゆっくり話し出した。
「前々からあのアパートに狙いは付けていたんだ。あそこは監視カメラやセキュリティ会社の警備もないしね。だからあの日、非常階段から屋上に上がった。あの日、4階の一番階段の近い部屋から男が出ていくのを屋上から見てたんだ。それで…」「待て、その男はこの男か?」寛は佐伯の話を遮り、胸から堀田の写真を取り出した。佐伯はそれをちらっとみたあと、「いや分からない。男はマスクと帽子をつけていたんだ。俺はその男が鍵を閉めないで家を出ていったのを見届けて屋上から4階に降りて401号室に入ったんだ。大抵電気は消えていることが多いんだ。けどその部屋は奥の部屋の電気がついていた。俺は少し心配になって玄関で耳を澄ませたんだが、生活音は一切聞こえなかったから不在を確認してリビングに入った。そしたらたまげたよ」
「女性が頭から血を流して倒れていたと。」
寛がそういうと、佐伯は頷いた。「女はうつぶせの状態で床に倒れてた。頭から大量の血を流して。俺は盗むけど暴力はできないんだよ。だから足から震えだしちまっですぐ部屋をでて逃げ帰ったんだよ。「待て、お前が部屋に侵入したのは何時だったか覚えてるか」寛が佐伯に質問すると、佐伯は19時40分と即答した。侵入している時間を把握するために腕時計はいつも着用していると自慢気に言った。
9
寛はあの8月13日に起こった出来事を時系列で順番にノートに書いてみた。
・19時35分ごろ マスクと帽子を着用した不審な男が401号室から出てきた
・19時40分 空き巣が部屋に侵入すると血を流した亜紀が倒れていた。
・21時40分 アパートの住人が駐車場で山田亜紀の死体を発見
堀田が事件に絡んでいるのは間違いない。19時35分頃部屋から出てきたのは堀田だろう。堀田は浮気をしていて、そのことで被害者ともめた。動機はそんなところだろう。被害者の部屋に侵入できる人間は限られているし、誰かに恨まれるような人間でも無さそうだったからだ。そのうえ堀田は男前。浮気を気づかれたと判断するのに間違いはないはずだ。仮に堀田が亜紀に暴行を加えたとする。堀田には19時50分ごろから吉祥寺駅の友達の家に飲みに行っていたとのアリバイがある。この証言はその友人には確認も取れている。つまり堀田が被害者を突き落とすことは不可能なのだ。堀田にはだれか協力者がいて、自分が立ち去った後、その人間が被害者の部屋に入り亜紀を突き落としたのだろうか。だが、そんな協力者を雇うことは考えにくかった。竹下も事件をまとめたホワイトボードを凝視しているが、解決には遠いようだ。寛は何か考えの根本が間違っているような気がしていた。何かを勝手に除外している。寛は目の前のホワイトボードを見つめる。
何か誤解していることは無いか。なにかに考えが縛られているのではないか。自分はこの事件の登場人物を芯から理解しているか。
。
暫くした後、霧が晴れた感覚を寛はつかみ取っていた.
10
翌日、寛は竹下とともに堀田の大学の入り口に立っていた。17時を過ぎたころ、キャンパスから出てきた堀田を呼び止めた。三人は山田亜紀のアパートの部屋に到着した。
「8月13日、あなたはこの部屋に来ましたか?」そう言った寛の目を一瞬堀田は見たものの、何も答えずベランダの方に目をやった。
寛は落ち着いた口調で「では先にほかの質問をします。あなたは浮気をしていた。そのことを山田さんは知っていたんですか?」と堀田の背中に語り掛ける。
深いため息をついた後、堀田は寛の方をゆっくりと振り返り「一回だけです。一度だけの火遊びでした」といった。「全部話しますよ」
とまた再びベランダの方にに体の向きを変えた。「一度だけ、大学の友達と関係を持ってしまったんです。亜紀は8月に入ってすぐ、そのことについて僕に酷く泣きながら責めてきました。ですが僕は結婚を執拗に急く彼女に少し嫌気が差していた。僕は謝罪しました。ですが彼女は恐ろしいことを僕に告げたんです」「それは……」寛は恐る恐る聞いた。「彼女は、僕が関係を持った女性を殺すと言ったんです。その時の彼女の目は憎しみに溢れたおぞましいものでした。僕はこの人間から逃れられないと確信してしまった」「それであの日、この部屋に来て、亜紀さんに暴行を加えた」「ええそうです」堀田はどこか吹っ切れたような様子で、寛と竹下をゆっくり順番に見て言った。「持ってきたハンマーで彼女を殴りつけると、彼女は前のめりに倒れて動かなくなりました。彼女は僕だと気づくことなく倒れました。全く動かない亜紀を見て、死んだことを確信しました」淡々と言った。
「あなたは違和感をほったっらかしにしているんですか?それとも気づいているんですか?」寛の言葉に堀田はうつむいたままで何も答えない。寛の頬に涙が伝う。無音。
堀田はすでに泣いていた。黒い悲しみの涙。
妙な浮遊感。寛はゆっくりと口を開いた。
「山田さんは、あなたに殴られたことに気づいていたんです。彼女が思い描いた残りの人生にはあなたしかいなかったんですよ。彼女はあなたに裏切られた事を知って即座に決意した。彼女は気を失った後、目を覚ました。そして生きる意味がないことを即座に理解した。彼女はあなたと一度肉体関係を持った女性を殺すといったのは虚勢だったんでしょうね。彼女はあなたを本当に愛していたことがその証拠です。彼女は飛び降りて自殺した。何も躊躇なく」
11
「愛は、理解が及ばないこともある」竹下は夏の日差しが照り付ける中、たばこを携帯灰皿に押し込みながら言った。寛は夏の青らの青さを見上げて、希望を抱く真似事しかできなかった。
「えー、ウーロン茶ひとつに厚揚げと鳥の煮込み。あああと、冷やしトマトも」。「はいよー」。高井戸駅前の居酒屋「小春」のカウンター席に近藤寛は腰を掛けていた。3年前に高井戸駅のアパートに引っ越してきてからの常連の店である。焼き鳥の居酒屋だというのにユーロジャズが不断なく流れているのがこの店の特徴である。女将兼店長の小春さん(苗字は忘れた)は来月で45歳と聞いているのに、30歳になったばかりと言われても誰も疑わないであろう程に若々しい。肩くらいまでの黒い髪を後ろで束ね、鼻筋が通った綺麗な横顔で丁寧にアルバイト君に仕事を教えている様子は聖母のようである。勿論ユーロジャズは小春さんが流しているのだから、文句は微塵もない。焼き鳥の煙に巻かれ汗をタオルで拭う小春さんから、手元の厚揚げに視線を戻す。せっかくの華金だというのに一人で酒を飲むのは孤独感を感じざるを得ないが、もうそれにも慣れた。いやもうそれも終わるのか。絵にかいたようなしたり顔を周囲に見せつけながら、彼は葛西佐紀のことを思い浮かべた。明日は午後から彼女と食事にようやく行ける。寛は新米刑事ということもあってか、日程の調整が難しかったのだ。ウーロン茶をちびちび飲みながら、携帯電話のアルバムの柏田佐紀の写真をじっくり眺める。佐紀という女性の素晴らしさを熱心にいつの間にか隣に座ってきていた近所の銭湯のオーナーの堺にペラペラ話していた時、右ひじから振動を感じた。鈍い振動。間髪入れずに裏にしていた携帯の画面をひっくり返した。寛人は軽く舌打ちをしたあと天井に思いっきり溜息をぶつけてやった。「竹下さんからのお呼び出しかい?」にやにやしながら銭湯のオーナー堺がこっちを見てくる。
イラつきながら寛は、「ジンジャエール一つ!急いで!」
と急かすように奥でボケっと突っ立っているバイトの学生に呼びかけた。
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寛は高井戸の隣の駅である浜田山駅から10分ほど離れた新しいアパートの前に自分の車を停止させた。すぐ事件現場にくることができたのは良かったことだが、浜田山は寛の生活圏である。身近で事件が発生したことを知り、少し身が引き締まった。
「遅えぞ」竹下慶は寛の右胸を軽く小突いた。寛の20年先輩のベテランの刑事である。一日二箱吸うヘビースモーカーなだけあってニコチンの匂いがいつもきつい。寛は少し体を後ろに仰け反りながら、「他殺ですか?」と尋ねる。「恐らくな。仏さんは高さ12メートルのベランダから落下してそこの駐車場で全身を強打して血を流していた。だが部屋には被害者の大量の血が流れだしていた。おそらく犯人に襲われた後、放り投げられたんだろう」
「了解です。自分も部屋見てきます。」
寛は頷く竹下を確認した後、背後にいた捜査員らに警察手帳をみせ、悠然と事件があったアパートの4階まで階段で上がり、その階の401号室に入っていった。玄関はこじんまりとしていた。物も大して置かれていなかった。玄関から家の中に入り廊下は細く、右手にトイレ、洗面所と浴室の部屋、左手に一人暮らしには十分な大きさのキッチンがある。そこを通り抜けてリビングに寛はおもむろに足を踏み入れた。床には大量の血が流れていた。被害者は後頭部を強く殴打されたという話であったからリビングで襲われたということだ。
床にはカーペットのようなものは一切しかれていなかった。教科書やパソコン、飲みかけのコップ、A4のコピー用紙、モバイルバッテリー、イヤホンが置かれた勉強机。部屋の隅に置かれた橙色の小さなマットの上に置かれた観葉植物。パキラか何かだろうか。茶色い引き出し付きの台の上に置かれた32インチほどの小型テレビ。寛は引き出しの中のDVDを中身も空けて確認する。作品は邦画であれば典型的なミーハーな人間が見るようなイケメン俳優、美人女優のパッケージの作品ばかり、洋画もこれまた誰でもキャラクター名を諳んじられるようなシリーズ物の作品ばかりであった。寛は部屋を見回すが、他に変わった点は無いように判断し、リビングからベランダに出た。
部屋が暑かったせいか8月だというのに外気がいくらか涼しいとさえ感じられる。どこまでも続いていきそうな黒い夜空には無数の星が輝いている。寛はベランダから少し上半身を乗り出して下をのぞき込んだ。高さ12メートル。寛は部屋を出て、4階の廊下に待機させていた化学捜査班らにリビング、そして主にベランダを重点的に調べるよう指示を出した。
「被害者は勉強机に置かれたものから判断するに女子大生です。部屋は物も少なく殺風景であり、観葉植物の世話も行き届いて無いようでした。恐らく大雑把な性格の女性でしょう。部屋は荒らされた形跡は一切ありません。被害者の事をよく知っているものによる犯行だと考えられます。お願いします。」寛はつっかえることなくすらすらと自信ありげな表情で竹下に採点を仰いだ。竹下は10秒ほど間を置き、スカスカの頭をボリボリかき、「悪くは無い。」と吐き捨てた。
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二人はまず被害者の両親、そして彼女が通っていた大学の知り合いに直接聞き込みを行った。
両親は悲痛な表情をこらえて亜紀について色々話してくれた。山田亜紀は、昨年の大晦日に実家に帰省してきたときに満面の笑みで結婚したい相手がいると告げたそうだ。
両親からの話でその男が堀田亮という男であるということを知った。「私と亜紀と堀田君の三人で一度だけ外で食事をしました」母である山田佳代が懐かしんだ様に寛の目を見て言う。「その時は結婚の話などはしませんでしたが、堀田君は真面目で信用できる男性だったので私は安心したんです」
寛と竹下は、両親からの聞き込みを終えた後直ぐに堀田亮が住むアパートに向かった。
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「亜紀が死んだのを知ったのは、僕の携帯に亜紀のお母さんから電話が掛かってきたときです。」目の前にいる山田の彼氏である堀田亮は顔を強張らせながら寛の質問に答えた。堀田のアパートの近くのチェーンのカフェに三人はいた。堀田は、山田佳代の話していた通りの好青年だった。白いシャツにヴィンテージ物の青いジーンズ、さわやかな印象で女にモテそうな男だった。
「その日、つまり8月13日以前で最後に彼女に会ったのは?」
「8月11日です。その日は彼女の大学の帰りに会って、映画館に行ったあと二人で居酒屋に行って、その日は日付が変わる前に別れました」「最近亜紀さんに変わったことはありませんでしたか。些細なことでも良いのですが」竹下はカフェのソファー席に深く腰掛け堀田に尋ねる。「特には気づきませんでした。」「亜紀さんを恨むような人間に思い当たりなどは?」「いえ、無いです」堀田は寛の質問にもキッパリと答えた。「亜紀さんはあなたと結婚したいと両親に話していたそうでした。結婚の話はよくされていたのですか?」寛は尋ねた。「少しはそういった話をしたことは勿論ありましたが、そこまで詳しく真剣には」「そうですか。事件当日堀田さんはどちらに?ああ気にしないでください、ただの事件調査の一環としいてお聞きするだけですので」
「あの日は大学の課題を徹夜でやった後、夕方、たしか五時過ぎに起きて8時になる少し前からサークルの男友達の家に行って宅飲みをしてましたね。亜紀のお母さんから電話が掛かってくるまでです。」「成程。そうですかそうですか」寛はメモを熱心に採りながら頷く。
竹下はシロップを三個注ぎ込んだアイスコーヒーをグビッと飲みほした後、少し間をおいて、いささか不謹慎で躊躇われますが、と前置きしたうえで「あなたは守れなかったことを悔いていますか?」と聞いた。堀田は少し強い口調で当たり前ですと言い返した。二人は堀田に礼を言い、自宅のアパートの前まで送り届けた。堀田は二人に丁寧に一礼した後アパートの二階の部屋に入っていった。堀田の話で矛盾点は無かったが、寛人は竹下が最後の質問を尋ねた際、堀田の目線が少し定まらないように見えたのが気になっていた、そしてそのことには質問をした竹下も当然気づいていた。
二人が有力な情報にたどり着いたのは、翌日の事である。二人は亜紀が働いていたカラオケ店を訪ねていた。笠井美穂は亜紀と大学は違うものの、同時期にバイトを始めた友人で二年以上の付き合いであった。彼女によれば8月に入ってからというもの亜紀は元気がないようで養分を失ったようにほっそりしていたという。「亜紀は自分が重い女なのが悪いのだとかなんとか言っていました」笠井は淡々と言った。この人はそこまで亜紀とは気の置けない関係では無いと笠井の話口調をみて寛人は判断する。「というとそれはやはり山田さんの彼氏さんとのことになるのでしょうか」竹下も淡々と笠井に尋ねる。「たぶんそうだと思いますね。亜紀は結婚したいんだけど彼氏の反応が良くない、みたいな」笠井は淡々とした話し方で答えた。となると堀田は結婚について真剣に話したことは無いような言い方をしていたことと、この笠井の供述は相違するように思えた。最後に寛は笠井の山田に対してのどこかよそよそしい態度が気になってそれを尋ねると、笠井は「亜紀ちゃんは全然良い子なんだけど、たまに何を考えているのかわからない時があったのよね。それもあって休みの日に二人で遊びに行くとかは無かったわ。彼女あまり友達も多いタイプでは無いと思う。けど堀田君でしたっけ、その彼氏のことは嬉しそうに話してたわよ」
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その日の夜、署に戻り会議が行われ日付が変わったころ一度寛は仮眠を取るために家に帰るよう竹下に指示を受けた。といっても寛は家には直帰せず一時間だけ小春に立ち寄った。
「寛ちゃん、疲れ切ってるねえ。あれそういやこないだ見せてくれた女はどうなったんだよ」
「結局会えてませんよ。しかも詫びのメールの返信も「了解だよ」の一言ですよ。もういつも竹下さんのせいで邪魔が入るんだから。」寛はうんざりしながらいつものごとく堺と話している。「いや竹下さんのせいじゃなくて、事件が起きた。そして寛ちゃんは新米と言っても刑事。いくら巨乳の子とのデートでもことわらなきゃ」梅酒のソーダ割しか飲まないのに常時泥酔している堺がにやにやしながら言う。「まあまあ豊さん、寛ちゃんは立派よ。寛ちゃんたち刑事さんがいるから私も、毎日安心してお店やっていられるんだから」小春はニッコリと微笑み、サービスのポテトサラダを寛に渡してくれた。「いま調べているのは浜田山の事件なんですよ」「あら、若い女性についてニュースでやっていたあれのこと?」小春は驚きで大きな目を更に見開いた。寛人は頷いた後「なにやら簡単に終わらなそうなところがあって。小春さんの言う通り、浜田山の治安を守ることはこの店を守ることに繋がるかもしれませんね。」寛は強がりながら、すこし照れるように小春に言った。
「小春ちゃんあんまり聞いちゃだめだよ。あんまりペラペラ話すと竹下さんに殴られちゃうもんなあ寛ちゃん」
「豊さんがいつも一番詮索してきますけどね。」
寛は苦笑いしながら言う。
「ちょっ、俺もう家帰らなきゃ。小春さん、トイレ借りますね」寛は自分の分のハイボールを飲み干して立ち上がった。
寛がトイレから戻ると、何やら豊田と小春がそわそわ話していた。「豊さん、小春さんは洗いものとかあるんですから邪魔しちゃダメすよ」寛はそう言って椅子をひいて座った後、豊田が山田亜紀の写真を持っていることに気づいた。「あれ、おれ落としました?そっか、さっき立ち上がったときか。すません豊さん」寛は豊田が右手で持っている写真を取り戻そうとした。すると「やっぱそうだ、寛ちゃんこの子、浜田山の子かい?ニュースでやってる」豊田はいぶかしそうな表情でこっちを見てくる。「そうですけど、どうしたんすか」「こないだニュースの写真は髪が短かったから分かんなかったけど絶対そうだ。」
「だからなにがですかって」寛は急かすように豊田の顔を覗き込む。
「この子、先週見たぞ商店街で」
「え、どこでですか」
「探偵事務所だよ。栄田さんのとこの息子がやってる」堺は答えた。
7
仮眠を取った後、寛は竹下に昨日堺から聞いた旨を話し、高井戸駅商店街の小さな探偵事務所を訪ねた。堺が言っていた通り山田亜紀は栄田探偵事務所に依頼をしていたことが分かった。「浮気調査です。一番ありふれた依頼ですね。山田さんは彼氏の堀田さんが浮気をしているかどうかを調べてほしいと7月の頭のころにうちに相談に来ました。」「その時の山田さんの様子はどのようなものでしたか?」「山田さんは、自分が一番愛している彼氏に近づいているひとがいるかも知れない、そう言っていました。自分たちは結婚したいのにとも言っていました。」探偵事務所の栄田は真剣な表情で寛に答えた。「で、とどのつまり堀田は浮気をしていたという証拠はつかめたんですか?」
「いえ、わからないまま終わってしまいました」「といいますのは?」寛は首をかしげながら栄田の方を見る。「8月に入ってすぐ、もう調査はしなくていいと山田さんから電話があったんです。7月中、堀田さんを調査していましたがどうにも短い期間だったので、浮気をしていたかどうかは分かりませんでした。」
「つまり堀田の浮気を山田亜紀は疑っていた。そして探偵事務所に依頼をした。にもかかわらず急に8月に入り調査の中止を申し出たと。」「はい、そうです」
探偵事務所を出た後、寛と竹下は寛の車内で考えをまとめていた。「山田亜紀のバイト仲間である笠井の証言では、山田が明らかに元気が無くなりだしたのも8月の頭。依頼の中止を申し出た時期と重なります」「寛。浮気調査を頼んだ人間が急にその依頼を取りやめる。どういう事態が想定されると思う」竹下は鋭く冷え切った目で寛の目をまっすぐ見る。「パートナーが浮気をしてないと確信したときでしょうか。例えばそのことについて相手に問いただしたところ満足のいく回答が得られたとか。それでもう依頼の必要性が無くなって」「まあその場合もあるだろう」竹下は
ペットボトルのお茶をひとくち飲んだ後「逆じゃないのか」と小さな声で言う。そして続けて「山田亜紀は自分の手で浮気の証拠を掴んだ。その場合も探偵事務所を頼る必要などない。」「つまり堀田は、山田亜紀の予想通り浮気をしていて、山田はそのことに気づいてしまった。」
そのとき、助手席に座っていた竹下の左胸に入れていたガラケーが鳴った。
竹下は電話に出て、適当な返答をした後、警察署にすぐさま向かえと寛にいった。
8
逮捕された男は佐伯隆文、浜田山駅北口の目の前にあるパチンコ店に勤務する54歳の男である。佐伯は今年6月ごろから、空き巣を繰り返していた。7月29日に一人暮らしの女性の家で被害総額120万円の宝石とアクセサリー類が盗難された事件が起こった。佐伯は空いた窓から忍び込み金品を盗むことには成功したのだが、家から逃げる際、道路で会社員の男性にぶつかった。その会社員の男性が佐伯の顔を覚えており、佐伯はその日から22日後の今日8月22日に逮捕された。佐伯は自分が行ったすべての盗難事件について自供した。
問題なのは、佐伯があの日、つまり山田亜紀が死亡した日にあのアパートに、そして山田亜紀の部屋に空き巣に入ったことを供述したことである。
竹下と寛は取り調べ室に入り、慎重に佐伯に質問を投げかけた。
「あの日、8月13日に山田亜紀の部屋に入った日の事を詳しく話してくれ。ゆっくり
全てを思い出しながら」寛は冷たく厳しい口調で佐伯を睨みつけながら聞いた。犯罪者に遠慮はいらない。佐伯はその寛の様子を見て唾を一度音を鳴らして飲み込み、ゆっくり話し出した。
「前々からあのアパートに狙いは付けていたんだ。あそこは監視カメラやセキュリティ会社の警備もないしね。だからあの日、非常階段から屋上に上がった。あの日、4階の一番階段の近い部屋から男が出ていくのを屋上から見てたんだ。それで…」「待て、その男はこの男か?」寛は佐伯の話を遮り、胸から堀田の写真を取り出した。佐伯はそれをちらっとみたあと、「いや分からない。男はマスクと帽子をつけていたんだ。俺はその男が鍵を閉めないで家を出ていったのを見届けて屋上から4階に降りて401号室に入ったんだ。大抵電気は消えていることが多いんだ。けどその部屋は奥の部屋の電気がついていた。俺は少し心配になって玄関で耳を澄ませたんだが、生活音は一切聞こえなかったから不在を確認してリビングに入った。そしたらたまげたよ」
「女性が頭から血を流して倒れていたと。」
寛がそういうと、佐伯は頷いた。「女はうつぶせの状態で床に倒れてた。頭から大量の血を流して。俺は盗むけど暴力はできないんだよ。だから足から震えだしちまっですぐ部屋をでて逃げ帰ったんだよ。「待て、お前が部屋に侵入したのは何時だったか覚えてるか」寛が佐伯に質問すると、佐伯は19時40分と即答した。侵入している時間を把握するために腕時計はいつも着用していると自慢気に言った。
9
寛はあの8月13日に起こった出来事を時系列で順番にノートに書いてみた。
・19時35分ごろ マスクと帽子を着用した不審な男が401号室から出てきた
・19時40分 空き巣が部屋に侵入すると血を流した亜紀が倒れていた。
・21時40分 アパートの住人が駐車場で山田亜紀の死体を発見
堀田が事件に絡んでいるのは間違いない。19時35分頃部屋から出てきたのは堀田だろう。堀田は浮気をしていて、そのことで被害者ともめた。動機はそんなところだろう。被害者の部屋に侵入できる人間は限られているし、誰かに恨まれるような人間でも無さそうだったからだ。そのうえ堀田は男前。浮気を気づかれたと判断するのに間違いはないはずだ。仮に堀田が亜紀に暴行を加えたとする。堀田には19時50分ごろから吉祥寺駅の友達の家に飲みに行っていたとのアリバイがある。この証言はその友人には確認も取れている。つまり堀田が被害者を突き落とすことは不可能なのだ。堀田にはだれか協力者がいて、自分が立ち去った後、その人間が被害者の部屋に入り亜紀を突き落としたのだろうか。だが、そんな協力者を雇うことは考えにくかった。竹下も事件をまとめたホワイトボードを凝視しているが、解決には遠いようだ。寛は何か考えの根本が間違っているような気がしていた。何かを勝手に除外している。寛は目の前のホワイトボードを見つめる。
何か誤解していることは無いか。なにかに考えが縛られているのではないか。自分はこの事件の登場人物を芯から理解しているか。
。
暫くした後、霧が晴れた感覚を寛はつかみ取っていた.
10
翌日、寛は竹下とともに堀田の大学の入り口に立っていた。17時を過ぎたころ、キャンパスから出てきた堀田を呼び止めた。三人は山田亜紀のアパートの部屋に到着した。
「8月13日、あなたはこの部屋に来ましたか?」そう言った寛の目を一瞬堀田は見たものの、何も答えずベランダの方に目をやった。
寛は落ち着いた口調で「では先にほかの質問をします。あなたは浮気をしていた。そのことを山田さんは知っていたんですか?」と堀田の背中に語り掛ける。
深いため息をついた後、堀田は寛の方をゆっくりと振り返り「一回だけです。一度だけの火遊びでした」といった。「全部話しますよ」
とまた再びベランダの方にに体の向きを変えた。「一度だけ、大学の友達と関係を持ってしまったんです。亜紀は8月に入ってすぐ、そのことについて僕に酷く泣きながら責めてきました。ですが僕は結婚を執拗に急く彼女に少し嫌気が差していた。僕は謝罪しました。ですが彼女は恐ろしいことを僕に告げたんです」「それは……」寛は恐る恐る聞いた。「彼女は、僕が関係を持った女性を殺すと言ったんです。その時の彼女の目は憎しみに溢れたおぞましいものでした。僕はこの人間から逃れられないと確信してしまった」「それであの日、この部屋に来て、亜紀さんに暴行を加えた」「ええそうです」堀田はどこか吹っ切れたような様子で、寛と竹下をゆっくり順番に見て言った。「持ってきたハンマーで彼女を殴りつけると、彼女は前のめりに倒れて動かなくなりました。彼女は僕だと気づくことなく倒れました。全く動かない亜紀を見て、死んだことを確信しました」淡々と言った。
「あなたは違和感をほったっらかしにしているんですか?それとも気づいているんですか?」寛の言葉に堀田はうつむいたままで何も答えない。寛の頬に涙が伝う。無音。
堀田はすでに泣いていた。黒い悲しみの涙。
妙な浮遊感。寛はゆっくりと口を開いた。
「山田さんは、あなたに殴られたことに気づいていたんです。彼女が思い描いた残りの人生にはあなたしかいなかったんですよ。彼女はあなたに裏切られた事を知って即座に決意した。彼女は気を失った後、目を覚ました。そして生きる意味がないことを即座に理解した。彼女はあなたと一度肉体関係を持った女性を殺すといったのは虚勢だったんでしょうね。彼女はあなたを本当に愛していたことがその証拠です。彼女は飛び降りて自殺した。何も躊躇なく」
11
「愛は、理解が及ばないこともある」竹下は夏の日差しが照り付ける中、たばこを携帯灰皿に押し込みながら言った。寛は夏の青らの青さを見上げて、希望を抱く真似事しかできなかった。
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