上 下
7 / 94
本編

4-1

しおりを挟む
 フランジア帝国の皇城は、広大な湖を見下ろす崖の上に建っていた。

 見上げるほど高い城壁は、皇城が『城塞』と呼ばれる由縁だ。城唯一の入り口がある西側は湖と繋がる深い堀に囲まれており、その上に架けられた幅の広い跳ね橋を渡れば、鉄製の重々しげな鎧戸が侵入者の行く手を阻む。

「開門!」

 鈍い金属音と共に開いた鎧戸を馬車がくぐり抜ける少し手前、マシェリは窓の外をちらっと見た。――さっき通り過ぎた、大きな森が遠くに見える。
 世界は今、乾季のためどの国の地面も乾ききっている。なのにあの森の木は、葉がどれも青々としていた。土に水がいきわたっている――もしかしたら、それも水竜に与えられた恩恵なのだろうか。

(あれならきっと、図鑑で見た野草も枯れずに残ってるわ。なんて素敵……!)

「大丈夫ですか? マシェリ様」

 歓喜でつい、瞳をうるませたのがいけなかった。隣のルドルフが、心配げにマシェリを覗き込んでくる。
 背もたれに手を掛けられ、ややつり目がちな瞳が目の前まで迫ってくると、マシェリは思わず隅っこに体を押し込めた。馬車は決して狭くないのに、息苦しくて仕方ない。

「だっ、大丈夫ですわ。ですからルドルフ様、わたくしにはどうぞおかまいなく」
「……そう、ですか? でもお顔が赤いですし、もしや熱でも――」
「体が丈夫なのが取り柄なので!」

 ルドルフが額に伸ばしてきた手をぐいと押し戻すと、マシェリは窓の方を向き、ぜぇはぁと息をした。

(きょ、距離感がやたらと近い気がする……! これもテラナ公国と帝国の差なのかしら? それとも、わたくしの免疫のなさのせい?)

 胸を押さえながらマシェリが振り返ると、にっこりと笑ったルドルフが前方を指さす。

「あそこが、皇帝陛下と皇太子殿下のおられる宮殿です」

 ルドルフの示す先に目を凝らす。きらびやかな装飾を施された巨大な宮殿が夕暮れを背負い、勇壮な佇まいを見せていた。
 その面前の中庭もまた、一周するのに半刻以上はかかりそうな広さ。さすが五つの公国を支配下におく、帝国の皇城内である。父が言っていた『町がすっぽり収まるサイズ』という比喩表現は、どうやら大袈裟ではなかったらしい。

(ランプの油がどれだけあっても足りなそうだわ)

 苦笑まじりに呟きながら、マシェリはルドルフとともに宮殿へと向かって行った。




「詫びの品が林檎とはな」

 本日、皇帝陛下のご機嫌は麗しい。
 大公からの捧げものである赤髪の女を、それは興味深げな顔で、ジロジロと眺め回してくる。

(随分と無遠慮なのね)

 マシェリは喉まで出かかった言葉を何とか飲み込んだ。――何しろ、まだ水脈は開放されていないのだから。

 水脈の開閉にはフランジア帝国の国宝が使われる。
 水竜の左眼から作り出されたという水の魔石、『蒼竜石』。この蒼竜石にはいくつかの使用条件があり、中でも満月の夜である事は必須らしい。次の満月は一週間後。もしここで皇帝の機嫌を損ね、延期などされようものなら、水脈の開放はそこから更に一か月も先になってしまう。
 マシェリは努めて平静な表情を装いながら、玉座の前で一人跪き、皇帝の尊大な態度に耐えていた。

 やたらと広い謁見の間の壁際には、紺色の衣を着た大臣六人と神官が佇み、扉の前には騎士のルドルフを含む護衛が数人控えている。
 ――それと、皇帝のすぐ側にもう一人。

「ビビアン。グレンはまだ来ぬのか?」

(あの人、もしかして側近かしら)

 一応見ておかなくちゃ。顔を伏せたまま、ちらりと視線だけ向けたマシェリが、一瞬ぎょっとして息を呑む。――顔が真っ黒だったのだ。炭でも塗り付けたかのように。
 白いフェイスベールで口と鼻を覆っているのは、それを僅かでも隠すためだろうか。しかし手袋をしているところを見ると、黒いのは顔だけではないのかもしれない。
 銀色の短髪、瞳は薄いグリーン。年齢は不明だが、背筋をピンと伸ばして立つ、その様子からどことなく年若な印象を受ける。

「殿下は来ません。会う必要はないと仰ってました」

 
しおりを挟む

処理中です...