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本編
36-2
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「ありがとう。お礼にわたくしが焼いておいたクッキーを……と、言いたいところだけど、それは確かできないのよね?」
「そ。ボクが魔法で移動できるのは、あくまでこの世界の中のものだけだから」
丸太の上にのぼり、リボンを直したアイリスが、空を見上げて鼻先をひくつかせる。
「あと四半刻くらいで『ネア』が来る。薬の準備は大丈夫?」
「ええ。貴方のおかげでいい花茶ができたもの」
「あれくらい、僕だってできる」
なぜかむくれた顔でポットをマシェリに渡すと、グレンはテーブルに残っていた赤い花を一本掴んだ。
「ようは、風魔法で花の水気を飛ばせばいいんでしょ? 簡単だ」
「そうだけど、魔力の加減が結構難しいんだよ。僕は昔リリアの手伝いでしょっちゅうやってたから慣れてるけどさ」
「殿下、風魔法は得意分野なんですか? あまり魔力が強いと、花が塵になってしまうんじゃありません?」
魔王の雷光をはじき返すほどの魔力を秘めた皇子様である。そこは最重要確認事項だとマシェリは思った。
「安心して。得意中の得意だから」
にっこりと天使の笑みを浮かべるグレンの声が、世界の終わりを告げる七番めのラッパの音に聞こえた。
青くなったマシェリがグレンを止めようと伸ばした手の上で、ぽん、と赤い煙が弾ける。
ーー花が、木っ端微塵に砕け散った?
唖然とするマシェリの手のひらの上に落ちてきたのは、からからに乾燥しきった赤い花だった。色や形はもとの姿をとどめたまま、水分だけが綺麗さっぱり抜けている。薔薇によく似た香りも、消えずにちゃんと残っていた。
「素敵……! 殿下は風魔法の天才ですわ」
「嬉しいな。実は昔から水魔法よりこっちのほうが得意なんだ。僕を夫にすると洗濯物を干す手間が省ける」
「馬鹿なの? 皇太子妃が洗濯とかしないでしょ、普通。てか、いちゃついてる場合じゃないから。そのお茶、薬代わりにするんだったらさっさと準備しないと『ネア』が来ちゃうよ」
丸太の上で振り返ったアイリスが、ため息まじりに言う。
「……そろそろ時間だ」
その呟きが合図だったように、風が急に強く吹いた。動きのなかった雲が徐々にその形を崩し、暗かった満月の光が輝きを増してくると、グレンの首元に翡翠色の鱗があらわれはじめ、瞳も蒼く変化した。
ーーまるで、止まっていた時が急に動きだしたかのように。
「城のほうが何だか騒がしくなってきましたわ」
「たぶんパーティーが終わったんだ。宮殿から出てきた客たちが、それぞれ馬車で帰りはじめたんだよ」
「えらいな……みんな。寄り道せずに帰るなんて」
小声で言ったアイリスの背中に、どんよりとした哀愁が漂う。
マシェリは毛並みのいい黒猫の頭にそっと触れ、優しく撫でた。
「……何だよ。気持ち悪いな」
「貴方は自分の主をもっと尊敬すべきですわ。寄り道も幼女趣味も、人助けになる事があるんですもの」
「そうだな。僕にとっては正に命の恩人だし、できるだけ近いうちに魔王城へお礼参りにーー」
「何それ、ちっとも感謝してるふうに見えないんだけど! っていうか魔王様のことバカにしてるだろ、ふたりとも!」
大きな声で叫んだ口を、アイリスがぱっと前足で押さえる。
マシェリとグレンは素早くあたりを見回してみた。ーー湖も森も何も変わった様子はなく、空に雷雲が出てくる気配もない。
「……本当に、ここにはいないんですのね。魔王様」
「ああ。アイリスの言ったことは、どうやら嘘ではなかったらしい」
グレンは、風に流れていく夜空の雲を、蒼く光る瞳で見上げた。
「まさか、魔界の王の代役をするはめになるとはな」
「そ。ボクが魔法で移動できるのは、あくまでこの世界の中のものだけだから」
丸太の上にのぼり、リボンを直したアイリスが、空を見上げて鼻先をひくつかせる。
「あと四半刻くらいで『ネア』が来る。薬の準備は大丈夫?」
「ええ。貴方のおかげでいい花茶ができたもの」
「あれくらい、僕だってできる」
なぜかむくれた顔でポットをマシェリに渡すと、グレンはテーブルに残っていた赤い花を一本掴んだ。
「ようは、風魔法で花の水気を飛ばせばいいんでしょ? 簡単だ」
「そうだけど、魔力の加減が結構難しいんだよ。僕は昔リリアの手伝いでしょっちゅうやってたから慣れてるけどさ」
「殿下、風魔法は得意分野なんですか? あまり魔力が強いと、花が塵になってしまうんじゃありません?」
魔王の雷光をはじき返すほどの魔力を秘めた皇子様である。そこは最重要確認事項だとマシェリは思った。
「安心して。得意中の得意だから」
にっこりと天使の笑みを浮かべるグレンの声が、世界の終わりを告げる七番めのラッパの音に聞こえた。
青くなったマシェリがグレンを止めようと伸ばした手の上で、ぽん、と赤い煙が弾ける。
ーー花が、木っ端微塵に砕け散った?
唖然とするマシェリの手のひらの上に落ちてきたのは、からからに乾燥しきった赤い花だった。色や形はもとの姿をとどめたまま、水分だけが綺麗さっぱり抜けている。薔薇によく似た香りも、消えずにちゃんと残っていた。
「素敵……! 殿下は風魔法の天才ですわ」
「嬉しいな。実は昔から水魔法よりこっちのほうが得意なんだ。僕を夫にすると洗濯物を干す手間が省ける」
「馬鹿なの? 皇太子妃が洗濯とかしないでしょ、普通。てか、いちゃついてる場合じゃないから。そのお茶、薬代わりにするんだったらさっさと準備しないと『ネア』が来ちゃうよ」
丸太の上で振り返ったアイリスが、ため息まじりに言う。
「……そろそろ時間だ」
その呟きが合図だったように、風が急に強く吹いた。動きのなかった雲が徐々にその形を崩し、暗かった満月の光が輝きを増してくると、グレンの首元に翡翠色の鱗があらわれはじめ、瞳も蒼く変化した。
ーーまるで、止まっていた時が急に動きだしたかのように。
「城のほうが何だか騒がしくなってきましたわ」
「たぶんパーティーが終わったんだ。宮殿から出てきた客たちが、それぞれ馬車で帰りはじめたんだよ」
「えらいな……みんな。寄り道せずに帰るなんて」
小声で言ったアイリスの背中に、どんよりとした哀愁が漂う。
マシェリは毛並みのいい黒猫の頭にそっと触れ、優しく撫でた。
「……何だよ。気持ち悪いな」
「貴方は自分の主をもっと尊敬すべきですわ。寄り道も幼女趣味も、人助けになる事があるんですもの」
「そうだな。僕にとっては正に命の恩人だし、できるだけ近いうちに魔王城へお礼参りにーー」
「何それ、ちっとも感謝してるふうに見えないんだけど! っていうか魔王様のことバカにしてるだろ、ふたりとも!」
大きな声で叫んだ口を、アイリスがぱっと前足で押さえる。
マシェリとグレンは素早くあたりを見回してみた。ーー湖も森も何も変わった様子はなく、空に雷雲が出てくる気配もない。
「……本当に、ここにはいないんですのね。魔王様」
「ああ。アイリスの言ったことは、どうやら嘘ではなかったらしい」
グレンは、風に流れていく夜空の雲を、蒼く光る瞳で見上げた。
「まさか、魔界の王の代役をするはめになるとはな」
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