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第二章
京師長安 その1
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「まるで小刀で水を突き刺すようなものでござったな。唐に骨のある武将は呂日将しかおらぬのか」
ルコンとゲルシクは涇州刺史高暉の案内で、長安城の中ほどにある興化坊に向かっている。その道中、ゲルシクはなぜか敵の不甲斐なさに憤っていた。
「抵抗もせずに逃げ出した郭子儀という男もたいしたことはござらんな。それどころか自ら進んで恭順の意を示す者まで出る始末だ。どいつもこいつも腰抜けのヘナチョコだ」
言葉が通じないとわかっているから、高暉の耳もはばかることなくゲルシクは唐将をくさす。
さすがに長安の周辺は守りを固めているだろう、というルコンの予想は幸いにも外れた。唐主は東に逃亡し、郭子儀は南方に落ちた。王族や貴族たちは襄州や荊州にまで逃げ散ったという。ルコンとゲルシクの長安入城を阻むものはなにもなかった。
「それにしても京師とは息苦しい街ではないか。こんな大げさな壁をいっぱい造っても、唐主も禁軍も逃げ去ってしまっては、なんの役にも立たないというのに」
延々と続く分厚い坊墻をにらみながら、ゲルシクは今度は長安の街並みに毒づく。
「そのうえ道はどこまでもまっすぐときている。どこがどこやらまったくわからん。ひとりで放り出されたら迷子になってしまいますぞ」
「慣れれば道などすぐに覚えますよ」
ルコンが言うと、ゲルシクは眉を下げて情けない顔をする。
「慣れるほど長くいたくないな。この蒸し暑さも我慢ならん。儂はもう帰りたくて仕方がないのです」
世界に冠たる花の都長安は、長年の内乱ですっかり荒れ果てていた。それでも若いトンツェンとツェンワは、主のいなくなった貴族の館から豪華な調度品を分捕って来たり、東市あたりの妓楼で女を並べて酒を飲んだりして大喜びしている。しかし、いくさもなく退屈な行程にうんざりして里心がつき始めていたゲルシクは、そんな気分にはなれないようだ。出発前は京師での略奪を楽しみにしていたくせに、いざ入京すると文句ばかり言っていた。
「そう長くはおりません。月の変わらぬうちに、撤退いたしましょう。まあ、あと十数日ほどの我慢です」
「そんなにおらねばならぬのか」
「陛下の御命令をお忘れ召されるな。われらは略奪するためだけに来たのではございませんぞ」
『われらを軽んじて神聖な会盟での誓いを踏みにじった唐主を引きずり下ろし、新たな唐主をわれらの手で即位させる』
それがツェンポの命令だ。その、新しい唐主とする男のもとに、ふたりは向かっていた。
興化坊のなかで最も大きな邸宅の一室。その男、章懷太子李賢の孫にして邠王李守礼の長子、先のツェンポ・ティデ・ツクツェンの第二王妃であった金城公主の兄、広武王李承宏は、ゲルシクとルコンに引見した。拝跪するふたりの頭上に、李承宏の声が降ってきた。
「待ちくたびれたぞ。誠にわたしが帝となることがかなうのか」
許されて顔をあげたルコンは唐語で応えた。
「広武王さまは、まことであれば帝となられるはずだった章懷太子の御令孫。お血筋は決していまの帝に劣るものではございませぬ」
「それはそうだ」
うなずいた李承宏だが、なにかを思いついたように眉根を寄せ厳しい表情になると、ルコンをにらんだ。
「ひとつ確認しておきたいことがある」
こんなうまい話しに懸念を生じないわけがない。ルコンは用意していたいくつかの説得の言葉を思い浮かべながら言った。
「なんなりと仰せ下さい」
「わたしの銭はびた一文使わせんぞ」
一番の心配事がそれか。ルコンは苦笑いを隠すために再び顔を伏せた。
「その必要はございません。まだ宮城には財宝がたっぷりとございます」
「そうか、財宝が。ならば一日も早く即位の儀を執り行うのじゃ」
わずかに顔をあげて上目遣いで盗み見ると、李承宏はうっとりとした顔で夢想に耽っていた。
守銭奴という世評に違わず、どうやら財産以外こころに掛かることはないらしい。
ルコンとゲルシクは涇州刺史高暉の案内で、長安城の中ほどにある興化坊に向かっている。その道中、ゲルシクはなぜか敵の不甲斐なさに憤っていた。
「抵抗もせずに逃げ出した郭子儀という男もたいしたことはござらんな。それどころか自ら進んで恭順の意を示す者まで出る始末だ。どいつもこいつも腰抜けのヘナチョコだ」
言葉が通じないとわかっているから、高暉の耳もはばかることなくゲルシクは唐将をくさす。
さすがに長安の周辺は守りを固めているだろう、というルコンの予想は幸いにも外れた。唐主は東に逃亡し、郭子儀は南方に落ちた。王族や貴族たちは襄州や荊州にまで逃げ散ったという。ルコンとゲルシクの長安入城を阻むものはなにもなかった。
「それにしても京師とは息苦しい街ではないか。こんな大げさな壁をいっぱい造っても、唐主も禁軍も逃げ去ってしまっては、なんの役にも立たないというのに」
延々と続く分厚い坊墻をにらみながら、ゲルシクは今度は長安の街並みに毒づく。
「そのうえ道はどこまでもまっすぐときている。どこがどこやらまったくわからん。ひとりで放り出されたら迷子になってしまいますぞ」
「慣れれば道などすぐに覚えますよ」
ルコンが言うと、ゲルシクは眉を下げて情けない顔をする。
「慣れるほど長くいたくないな。この蒸し暑さも我慢ならん。儂はもう帰りたくて仕方がないのです」
世界に冠たる花の都長安は、長年の内乱ですっかり荒れ果てていた。それでも若いトンツェンとツェンワは、主のいなくなった貴族の館から豪華な調度品を分捕って来たり、東市あたりの妓楼で女を並べて酒を飲んだりして大喜びしている。しかし、いくさもなく退屈な行程にうんざりして里心がつき始めていたゲルシクは、そんな気分にはなれないようだ。出発前は京師での略奪を楽しみにしていたくせに、いざ入京すると文句ばかり言っていた。
「そう長くはおりません。月の変わらぬうちに、撤退いたしましょう。まあ、あと十数日ほどの我慢です」
「そんなにおらねばならぬのか」
「陛下の御命令をお忘れ召されるな。われらは略奪するためだけに来たのではございませんぞ」
『われらを軽んじて神聖な会盟での誓いを踏みにじった唐主を引きずり下ろし、新たな唐主をわれらの手で即位させる』
それがツェンポの命令だ。その、新しい唐主とする男のもとに、ふたりは向かっていた。
興化坊のなかで最も大きな邸宅の一室。その男、章懷太子李賢の孫にして邠王李守礼の長子、先のツェンポ・ティデ・ツクツェンの第二王妃であった金城公主の兄、広武王李承宏は、ゲルシクとルコンに引見した。拝跪するふたりの頭上に、李承宏の声が降ってきた。
「待ちくたびれたぞ。誠にわたしが帝となることがかなうのか」
許されて顔をあげたルコンは唐語で応えた。
「広武王さまは、まことであれば帝となられるはずだった章懷太子の御令孫。お血筋は決していまの帝に劣るものではございませぬ」
「それはそうだ」
うなずいた李承宏だが、なにかを思いついたように眉根を寄せ厳しい表情になると、ルコンをにらんだ。
「ひとつ確認しておきたいことがある」
こんなうまい話しに懸念を生じないわけがない。ルコンは用意していたいくつかの説得の言葉を思い浮かべながら言った。
「なんなりと仰せ下さい」
「わたしの銭はびた一文使わせんぞ」
一番の心配事がそれか。ルコンは苦笑いを隠すために再び顔を伏せた。
「その必要はございません。まだ宮城には財宝がたっぷりとございます」
「そうか、財宝が。ならば一日も早く即位の儀を執り行うのじゃ」
わずかに顔をあげて上目遣いで盗み見ると、李承宏はうっとりとした顔で夢想に耽っていた。
守銭奴という世評に違わず、どうやら財産以外こころに掛かることはないらしい。
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