ナナムの血

りゅ・りくらむ

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出胎

その18

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 いくさの直後、ルコンとゲルシクは軍務を引退し、ゲルシクの指名でツェンワが東方元帥を継ぎ、程なくトンツェンが南方元帥に任命された。職責が増せば会う機会が少なくなってしまうが、三人はその少ない機会に必ず酒を酌み交わし、親交を深めている。
 しかし、母はこの交流を喜ばなかった。
「シャン・トンツェンもシャン・ツェンワも将軍としてはご優秀のようですが、武辺一辺倒で教養がなく、いくさ以外のお仕事をおろそかにされているそうではありませんか。おまえが友人とするに好ましい方々とは思えません」
 母の居間で叱責されたラナンは抗弁した。
「母上、ふたりとも陛下の覚えめでたい、立派な尚論ですよ」
「そういう問題ではないと言っているのです。そのように逆らうのも、不良たちの影響なのでしょう。これからは必要以上に親しくしてはなりませぬ」
 ふたりに会ったこともないのに、なぜそんなことを言うのか。ラナンの心中が荒立つ。逆らう言葉を止めることは出来なかった。
「お言葉にございますが、わたしが誰とどのように交際するかはわたし自身が決めます。母上のお指図はいりません」
 母の眼が赤く染まる。
「おまえは変わってしまった。母に逆らうような悪い子ではなかったのに」
「母上、もうわたしは子どもではございません。事の是非くらいは自分で判断出来ます。尚論として、国のために役に立つ人間になりたい。そのためにも、彼らのような同年代の尚論と親しむことが悪いこととは思えません」
「わたくしの申すことが、国のためにならぬと言うのですね」
 母は崩れ落ちるように椅子に腰を下ろすと、袖で顔を覆ってうなだれた。
 ラナンは胸が痛くなった。母を悲しませるようなことをしたいわけではない。むしろ、ナナムの家長と誰からも認められる者となって、母のこれまでの苦労に報いたいと思っているのに。
「そうではございません、母上……」
 母に近づき、右手で、震える母の左肩にそっと手をかける。
「わたしは、自分で判断し、行動出来る、立派な家長になりたいのです」
 ゆっくりと、母の右手が近づいて、重ねられる。
 と思った瞬間、乱暴にラナンの手は振り払われた。まるで嫌な虫が止まっていたとでもいうように。
 涙にぬれてぎらつく瞳が、呆気にとられたラナンをにらむ。
 ラナンは無意識のうちに後退っていた。
「出ていきなさい」
「母上?」
「ひとりになりたいのです。出て行ってください」
 かすれた声でつぶやいた母に、ラナンは一礼すると部屋を出た。
 まるで自分を憎んでいるようだ、とふと思って、頭を振る。
 そんなわけがない。きっと、ラナンになにかが足りないから、母を満足させることが出来ないのだ。
 なにが足りないのか。
 外の世界にすっかり馴染んだこの頃のラナンの大きな悩みは、その一点だった。しかしいくら考えても、サッパリわからない。
 自分の部屋に帰ってほどなく、スムジェがやって来た。
「あまり大奥さまを悲しませるようなことをするな」
「ご心配をおかけして申し訳ございません」
 ムカつくような不快感が胸に広がる。母はひとりになりたいと言いながら、即座にスムジェに訴えたのだ。
「たったひとりの息子が心配でならない大奥さまのお気持ちも汲んでやれ」
「しかし、わたしの一挙手一投足に指図をされるのは困ります。わたしはいつもまでも母上の庇護が必要な子どもではないのです」
 スムジェは口元だけで笑んだ。
「もちろんだ。だが、あのように真正面から盾突くことはないだろう。大人になるとは、母に逆らうことではないぞ」
「はい、これからは気を付けます」
 ふと違和感を感じたが、ラナンは素直に頭を下げた。
「大奥さまはこれまで、すべてを犠牲にしておまえを守ってきたのだ。口うるさく感じることもあるだろうが、大切にしてやれ」
 スムジェはラナンの肩を叩くと部屋を出た。
 ひとりになると、ぐったりと疲れが出た。寝床に身を投げ出して横になる。そのまま天井を見つめながら、漠然と母の、そしてスムジェの言葉を反芻した。
 ふいに背筋に冷たいものが走って、ビクンと身体が跳ね起きた。
 あのように?
 スムジェは見ていたのだ。
 母の居間には隠れるところなどない。ならば、その隣の寝室に潜んでいたのか。
 たまたま、ご機嫌うかがいに部屋を訪れていたところにラナンが入って行ったのかもしれない。
 しかし、やましいことがないのなら、なぜ隠れていたのか。
 まして、ラナンでさえ入ることを遠慮する寝室になど。
 身体を丸め、膝を抱えて、目を閉じる。
 ラナンが触れることを拒否された母の肩を抱き寄せるスムジェの姿が、脳裏に浮かんだ。
 はじめから、寝室にいたのだ。
 母とふたりで。
 想像のなかでスムジェを振り仰いだ母の顔が、二年前に抱いた胡姫の微笑みと重なって、息苦しくなった。

 夏の訪れとともに、ラナンは親族のすすめに従って、母の遠縁の娘トゥクモを妻に迎えた。
 婚礼の日に、お互いはじめて顔を合わせた。平凡な顔立ちではあるが、物静かで優しげな娘だ。ラナンは好ましく感じた。
 その夜の閨でそっと抱くと、力なくラナンの腕のなかにおさまった柔らかな身体がかすかにふるえていた。
「わたしが怖いか?」
 髪をなで、額に口づけるようにして、出来るだけ優しく聞こえるよう声を落として語りかけると、白い顔をあげてラナンを真直ぐに見つめながら首を振る。その健気なしぐさが、たまらなく愛おしく思え、ラナンは微笑んだ。それでトゥクモの緊張も解けたのか。ようやく微笑みを返してくれた。
 守りたいと思う女が出来た。それが妻であったことに、ラナンは感謝した。
 ふたりではじめての夏を過し、冬が到来したとき、トゥクモが身ごもったことを知った。ラナンは浮き立つような気分で、母の部屋に向かった。
 孫が出来たと聞けば、きっと喜んでくれる。冷えたこころも溶けるだろう。
 母はあれから夏にも都に留まったまま、部屋に引きこもって過ごしていた。ひとに会うこともなくなった。スムジェだけは頻繁に出入りしているようだが、ラナンは知らぬふりをした。それで母が幸せになれるなら、むしろありがたいことだとすら思っていた。
 ラナンの報告に、母は強張った表情であらぬ方に目を向けたまま「そう」とひとこと答えただけだった。団扇をもてあそんでいる母に、ラナンは失望し、懇願した。
「母上、以前申し上げたことをまだお怒りですか? あれはわたしが悪うございました。お詫び申し上げますからもうお許しください。母上の孫が出来るのです。お喜びいただけませんか」
 最後のひとことが母に届く前に、母はスッと立ち上がって窓際に近づいた。
「孫など、いりません」
 まさかの言葉に、頭のなかが真っ白になる。
「それは、どのような……」
「おさがりなさい」
 その視線を窓の外の青い空に向けたまま、冷たい声で母は言った。ラナンはうなだれるように礼をすると、部屋を辞した。

 母は、そのひと月後に死んだ。
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