ナナムの血

りゅ・りくらむ

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背信

その10

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 陣のなかにはちょっとした市が出来ていて、多くの商人が兵士たちに食べ物や日用品を提供している。彼らの多くは、自然と集まってきた商魂たくましい者たちだったが、ルコンの命令で強制的に霊州で徴集された振り売りたちも数人いた。兵士たちには銭を支給し、商人に不当な取引を強要したり強奪することを禁じているので、はじめはおびえていた彼らも安心して、いまではホクホク顔で商売に励んでいる。
 日が西に傾くと、ルコンとラナンはふたりだけで市のなかに入っていった。
 薄暮に漂う香ばしいかおりが、兵士たちを惹き寄せている。餅を焼くのは一軍を率いる将軍といっても不思議ではない堂々たる体躯と容貌の男だ。男は兵士たちを恐れるようすもなく、朗々と声を響かせた。
「わりこみはダメだ。いまいるやつの分はあるから、安心して並んでくれ」
 唐語がわかる者がそれを訳して伝えると、兵士たちは互いをうかがいながら、そろそろと列を作りはじめた。あとから来る者も行列が出来ているのを見ると、素直に最後尾につく。
「彼らの楽しみを奪ってしまってはかわいそうだな。終わるまで待ってやろう」
 ルコンがその場に腰を下ろしたので、ラナンも並んで地べたに座る。尚論の姿に気がついて驚いた顔をする者もいたが、ふたりがただ座っているだけなので、みな気まずげに目をそらした。
 男は手際よく焼きあがった餅を竹皮に包んで兵士たちに渡していく。そうしているうちにも次から次へと兵士が最後尾について、なかなか列が短くなることはなかった。
 その日最後のひとつを手渡すと、男は両手をあげて「ほい、今日はこれで終わり。また明日来てくれ。悪いな」と並んでいた兵士に頭を下げた。兵士たちが立ち去ると、ルコンとラナンは片付けを始めた男に近づいた。
「厳祖江どのですな」
 ルコンに唐語で呼びかけられて、中腰のまま振り仰いだ厳祖江は、眼球がこぼれ落ちるのではないかと心配になるほど目を見開いて、顔に似合わぬ間の抜けた声をあげた。
「馬重英将軍?」
 珍しく、ルコンが驚いた顔をした。
「なぜ、わたしを知っている」
 直立した厳祖江は、緊張の面持ちで言った。
「お会いしました。長安で」
「それは失礼した。もしや朝臣でらしたか」
 厳祖江は慌ただしく顔のまえで両手を振る。
「とんでもございません、わたしは苗侍中の家僕としてお取次ぎしただけですから、覚えてらっしゃらなくて当然です」
「ああ……思い出した」
 ルコンは微笑んだ。
「やけに立派な武人が案内してくれたので、さては名のある将軍かと侍中さまにうかがったところ、わたしの後輩だと笑われた。そうか、貴公だったのだな」
「さようにございます」
 大きな体を縮めて畏まる厳祖江に、ルコンは言った。
「仕事の後でお疲れのところ大変申し訳ないが、石稀学どののご友人である貴公に頼みたいことがあるのだ。本陣までご足労願おう」
 厳祖江はペコリと頭を下げると手早く商売道具をまとめ、ルコンとラナンの後に従った。
 歩きながら、ルコンはラナンに言った。
「わたしが苗侍中のお屋敷を訪れた話はしたことがあったかな」
「いいえ。兄がお迎えに上がったことは存じておりますが、ルコンどのがいらしたなど初耳です」
 十五年前、唐の京師を落としたとき、侍中だった苗晋卿は足を患っていたため避難できず京師の屋敷に留まっていた。自分たちで立てた新な帝に仕えさせようと彼を迎えに行ったのがスムジェだ。だが苗晋卿は寝たふりをして一言も口をきかなかったので、スムジェは手ぶらで帰って来た。
「無礼なじいさんだ。ルコンどのが乱暴なことはするななどと言わなければ、首だけ連れて来てやったのに」
 スムジェがぼやいていたのをラナンは覚えている。
「十八で唐に入ったわたしが、はじめてお仕えしたのが中書舎人でいらした苗晋卿さまだ。三十年も前のことだったからお忘れと思っていたら、しっかりと覚えていらした。呼び出されて、なぜ真っ先におまえが挨拶に来ないのかとお叱りを受けてしまったよ」
 ルコンは、振り向いて唐語で厳祖江に話しかけた。
「覚えておいでかな。われらに投降した涇州刺史の高暉どのとともに訪れた将軍がいたであろう」
「はい。シャン・チィスンジさまとおっしゃいましたか」
「シャン・ティ・スムジェだ。ここにいるのは彼の弟だよ」
「はあ……」
 厳祖江は困惑気味に表情を曇らせる。どうやら、スムジェはよい印象を与えなかったようだ。その顔が、次のルコンの一言で変わった。
「稀学どのの一番弟子、と言ったほうがいいかな?」
「あ、では、シャン・ゲルツェンさまではござりませんか。稀学どのから聞いています」
「わたしのことを?」
 厳祖江は嬉しそうにうなずいた。
「はい。自分はいずれ大宰相となられる方の師なのだと、いつも自慢しているのです」
 ラナンは顔が熱くなった。
「それは言い過ぎです」
「そうなってくれねば困る」
 ルコンが肩をたたいた。
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