天空の国

りゅ・りくらむ

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第一章

駱奉先

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 呂日将が厳祖江とともに長安に向けて発ったのは、それから三日後だった。
 一ヶ月以上の不摂生のせいで、立ち上がることもままならなかったのだ。ようやく馬に乗れるようになったが、駆けることが出来ない。いつもなら三日で足りる京師までの道程を、ゆっくりと進んだ。それでも愛馬の足取りは、久しぶりに主を乗せたことを喜んでいるように軽かった。
「お世話をおかけして申し訳ない」
 呂日将は厳祖江に抱えられながら宿の部屋に入るなり床に倒れ込む。
 まる一日馬に揺られた身体が激しく痛んで座っていることも出来ない。情けなさに涙が出そうだ。
「こちらこそ、将軍にご無理を強いて、申し訳ありません」
「将軍と呼ぶのはやめてください。部下たちはわたしの不甲斐なさに見切りをつけ、去ってしまった。いまのわたしは将校とも言えない」
「免官のお沙汰があったわけではないでしょう」
「戦後のどさくさに紛れてわたしのことなど忘れられているだろうが、そのうちあるでしょう。あれからお役目も放り出して引きこもっていた。もしかしたらそれ以上の罰を受けるかもしれない」
「しかし……」
「そのように呼ばれるのが恥ずかしくてならないのです。どうか祖江どのと同等のものとして接してくだされ」
「とんでもない」
 厳祖江は後退った。
「侍中さまにおつかえしているといっても門番や雑用をこなしているだけで、将軍と等しくお付き合いするどころか、まことであればこのように同室するのも恐れ多い者です」
 厳祖江は顔を赤らめたが、呂日将の心中に蔑む気持ちがわいてくることはなかった。
「わたしのほうからお願いするのです」
「そこまで仰せならば」
 ようやく厳祖江が承知すると、小群が口を出す。
「じゃあ、おれは日将さまとお呼びいたします。早速ですが日将さま、食事を持って来ますので、そこをどいてください」
「これこれ、調子に乗るな」
 厳祖江は慌てて叱る。呂日将は笑いながら、重い身体を引きずって、部屋の隅に退いた。

 長安の西の玄関口である開遠門に到着したのは、出発から五日後のことだった。
 京師に近づくにつれ、呂日将の身体は軽くなっていったが、反対に気分は重く沈んでいた。
 もしも知り合いに、まして馬璘に出会ってしまったら……。
 そんな呂日将のこころのうちを知らない厳祖江は、馬を降りるとひとごみを器用に避けながら、さっさと開遠門を入って行く。呂日将も下馬すると、うつむき加減でその背を追って京師に入った。
 アチラコチラに焼かれたり壊された家が目につくが人出は多く、ほんの数カ月前に異国に蹂躙されたばかりとは思えぬほど京師長安は賑わていた。小群が正月の楽しみを逃すのを恐れていたのもうなずける。厳祖江は勝手知ったるようすで、なるべく人どおりの少ない道を選んで進む。呂日将はひたすら厳祖江の馬の脚だけを見て歩いていた。
 宮城と皇城を囲む城壁にぶつかって南に進路を変えたところで、厳祖江がサッと坊の壁に寄って道を開けた。呂日将はうつむいたまま、同じように馬を引いて道の端に退く。
「これはこれは、呂将軍ではありませんか。お久しぶりですな」
 鈴の音のような声に呼ばれて、身体がビクリとはねた。顔をあげると、馬上から、宦官駱奉先が細い目をさらに針のように細めて見下ろしていた。
「なんでも、盩厔では吐蕃相手に大勝されたとか。それきりお噂をうかがっていなかったので、いかがされているものかと気にかけておりました」
『大勝』という言葉に身が縮んだ。確かに、一戦目の夜襲は成功したが、二戦目では完膚なきまでにたたきのめされて敗走したのだ。言葉なく頭を下げると、駱奉先は続けた。
「この国難をよいことに、またぞろ夷狄と結んで反乱を企てている者がおる。ご存じか」
「存じません。何者がそのようなことを?」
「朔方の僕固将軍に叛心ありと以前から上奏があったのですが、いよいよウイグルと結んで反旗を翻したのです。呂将軍は僕固将軍とご親交はござりましたか」
「いいえ、僕固将軍にはお会いしたこともありません」
「ふん。悪事というのは隠しているつもりでも、いつのまにやら口の端にのぼって露見するものですぞ。こころされよ」
 それはどういう意味だ。
 カッと頭に血が昇って、思わず駱奉先に顔を向けた。一瞬、探るように自分を見つめる瞳と視線が絡む。厳祖江がグイと袖を引いたので、無言でふたたび頭を下げた。

 駱奉先が去ると、小群が足元にペッと唾を吐いた。
「イヤなやつだな!」
 厳祖江も憤然としている。
「宦官とは武人を見ると嫌味を言わずにいられぬものらしい。お気にされますな」
 呂日将はうなずいたが、胸のなかに生じたザラリとした気味の悪さを拭い去ることは出来なかった。
 朔方節度使僕固懐恩と面識がないのは本当だ。しかしその功績は知っている。
 八年前、節度使安禄山が起こした反乱は、安慶緒、史思明、史朝義と引き継がれ、今年の正月にようやく治まった。それも北方で力をつけていたウイグルが反乱軍に味方していたらどうなっていたかわからない。ウイグルを説き伏せ唐側に引き入れたのが、ウイグルと同じ鉄勒チュルク出身の僕固懐恩だった。
「あの僕固将軍が謀反を起こすなど、ありうることだろうか」
 厳祖江は眉を下げる。
「貢献の大きさゆえに、宦官から恐れられているようです。讒言に追い詰められての挙兵ということもあるでしょう」
 呂日将はその理不尽さに、腹が立つよりも悲しくなった。
「僕固将軍の一族は、先の乱で四十人以上戦死したというではないか。そのような功臣の赤心よりも、宦官の言うことを帝はお信じになるというのか」
 厳祖江は、それに答えることはなかった。
「行きましょう。またイヤなやつが来るかもしれませんぞ」
 呂日将はうなずくと、馬を引いて歩き始めた。
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