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第一章
太子の幽閉 その10
しおりを挟む胸元をくすぐるプティの吐息がこのうえなく心地よくて、夏の陽の歩みの遅さもニャムサンに焦燥を感じさせることは出来なかった。むしろ出発の合図と定めていた日没の鐘の音が響くのが、疎ましく感じられたぐらいだ。
離れたくはないが仕方がない。プティの身体をそっとずらして上体を起こすと、まどろみかけていたプティはいぶかし気な目をあげた。
「どうしたの?」
「もう帰らなくちゃ」
「すぐ真っ暗になるわ。泊っていけばいいのに」
手早く服を身に着けながら、ニャムサンはプティに笑いかけた。
「都の外があんなことになってるから、家来が心配するんだよ」
「そんなこと言って、他に約束しているひとがいるんじゃないの?」
すっかり身支度を整えたニャムサンは、横になっているプティの耳にうずくまるようにして唇を寄せた。
「これからは、こんな風に会うのはおまえだけだ。本当だよ」
いままで何度も、何人もの女に言った言葉だ。だけど今日は、生まれてはじめて本心から言うことが出来た。桃花色に染まったプティの頬に口づけると、後ろ髪を引かれる思いで部屋を出た。
霧のような雨にふわりと包まれる。この季節、昼は雲ひとつなく晴れていても、夜になるとどこからともなく雨雲がやって来た。激しい雷を伴ってくることも少なくない。あまり雨足が強くなることのないよう祈りながら、ナツォクのもとへ向かう。
安全なのはわかっている。が、念のため周囲にひとがいないか確認してから高楼に飛び込んだ。三階まで一気に駆けあがると、王の居室の前に黒い影が立っていた。一瞬ギュっと固くなった全身の筋肉が、その顔を見て一気に弛緩した。
「どうも、ご苦労さん」
ニャムサンが言うと、ゴーは無表情に一礼して扉を開いた。
ゴーは衛兵隊を意のままに操ることが出来る。そのゴーは、マシャンの命令でしか動かない。マシャンが命じればニャムサンはもちろん、ナツォクだって平気で殺すだろう。
湧きあがって来た恐怖を気取られぬよう、おどけて言った。
「兄弟、愛想笑いぐらいしやがれ」
部屋のなかから、家僕が着るような粗末な麻の単衣を身に着けたナツォクが飛び出して来る。ニャムサンが事前にゴーに渡していたタクの普段着だ。年の割に小柄なタクの着物は、あつらえたようにナツォクの身体にピッタリだった。
「よく似合ってるじゃないか」
ニャムサンがからかうと、ナツォクは照れたように微笑んだ。
「ゴーが着せてくれたんだ」
「あいつが?」
ゴーはナツォクに恭しく頭を下げながらニャムサンが聞いたことのない柔らかな声で告げた。
「王宮の入り口までお送りいたします。恐れながらお急ぎください」
「なんだよ。オレのときとはエライ違いじゃないか」
ニャムサンは左手でナツォクの右手を取った。
「なるべく下を向いてろ。絶対オレから離れるなよ」
ナツォクは唇を引き結んでうなずいた。
ゴーの先導で高楼を出た。暗闇のなか、雨は確実に強くなっている。ナツォクが風邪をひかないか心配だったが仕方がない。ふたりはしっかりと手をつないで、ゴーが手に持つ小さな灯りを追った。
人影はまったくない。衛兵たちは、これから起こることに備えてどこかに集合させているのだろう。ルコンはふたりが脱出した後のことを話してくれなかったが、だいたいの想像はついた。
首筋から背中に雨が流れ込んできて、ブルっと身体が震える。左手に伝わるナツォクの体温がこころ強かった。
「大丈夫か?」
暗闇にささやくと、ナツォクはギュッとニャムサンの手を握って応えた。
マルポ山の坂を下り、王宮の入り口の門に到着すると、2頭の馬が用意されていた。
「わたしがお送り出来るのはここまでです。警護の者をつけましょうか?」
「いらないよ。そっちだって人手が必要なんだろ」
迷ったように一瞬の間をおいて、ゴーは「わかりました」とうなずいて、2通の書状を差し出した。
「こちらはレン・マシャンとレン・タクラからです。シャン・ゲルシクとレン・ティサンにお渡しください」
書状を懐の奥にねじこんで灯りを受け取ったニャムサンは、馬に乗ると「じゃ、あとよろしく」とゴーに軽く別れを告げた。
※ ※ ※
タクがトンツェンとツェンワを案内したのは、仕事を求めて流れ着いた者たちが勝手に河原の石を積み上げて造った家の並ぶ界隈の、なかでも目に見えて粗末な小屋だった。トンツェンは「嘘だろ」と唸っていた。
この界隈の持たざる者は、家財を山のように積んで逃げ出そうとする商人たちと違って、迫りくる戦火から自身のいのちを守る気もないようだ。子どもの泣き声や酔っ払いの放歌、夫婦ゲンカと思われる男女の諍いが、あたり一面にかしましく響いている。
「こんなところに太子をお迎えするっていうのか?」
ペコペコと頭を下げてひたすら詫びるタクをかばうように、ツェンワは「ひと目も雨もしのげるんだから、ありがたいですよ」と言った。
ところが雨が降り出すと、あちらこちらの石の隙間から雨水が垂れて来た。そのうえ戸口を塞ぐ扉代わりの流木の隙間から冷たく湿った風が遠慮なく吹き込むのだ。
「ちっとも雨は防げてねぇだろうが。せめて布を張って雨漏りを防ぐとか出来なかったのかよ」
身震いしながらにらむと、タクは身を縮めた。ツェンワは呆れた顔をした。
「タクに当たったってしょうがないでしょう。トンツェンはこんなふうにすぐ怒るから来ないで欲しかったんじゃないですか?」
「なんでオレは怒ってツェンワは大丈夫ってわかってるんだよ」
「トンツェンと違ってひとを見る目があるんでしょう」
ツェンワはケタケタと笑った。
雨が降り始めて3刻も経ったころ、濡れた足音が近づいてポクポクポクと戸口の流木が続けて3回、少し時間をおいて1回たたかれた。ホッとした表情を見せながらタクが駆け寄って流木を脇に寄せる。ボタボタと雫を垂らしながらのっそりと入って来たニャムサンは、なかを見回すと不機嫌な声で言った。
「なんでシャン・トンツェンもいるんだ」
「ついでにおまえも守ってやるんだからありがたく思え」
トンツェンがふんぞり返って言うと、ニャムサンは「別にオレは守ってくれなくても大丈夫だよ」とブツブツこぼしながら外に向かって手招きした。
質素な身なりをした小柄な少年が入って来る。「ナツォクだよ」とニャムサンが言ったので、トンツェンとツェンワは慌てて拝跪した。
「シャン・トンツェンとシャン・ツェンワのおふたりですね」
「はっ」
ふたりとも太子から声をかけられるのははじめてだ。感激にこころを震わせながら、次の言葉を待っていると、ニャムサンの声が頭上から降って来た。
「ああ、めんどくさい。そんなのはあっちについてからしてよ。とっとと出発しようぜ」
「おまえなぁ」
トンツェンが思わず頭をあげて睨むと、太子はもう背中を見せているニャムサンの腕にしがみつきながらニコニコと笑んで言った。
「お迎えありがとうございます。早くシャン・ゲルシクとレン・ティサンにもお会いしてお礼を言いたい。おふたりとも、よろしくお願いいたします」
「はっ。いのちをかけてお守りいたします」
もう一度頭を伏せて、顔をあげると、ニャムサンと太子は外に出ていた。ふたりは慌てて立ちあがり、あとを追う。
「あの野郎、いつかご自慢のお顔をボコボコにしてやる」
ささやくと、ツェンワは鼻で笑って肩をすくめた。
マシャンの屋敷に報告に行くというタクを残して、一行はゲルシクの本陣へ向かった。
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