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第三章
ニャムサンの受難 その3
しおりを挟む白昼堂々、ティゴルは名門貴族の屋敷が建ち並ぶ閑静な通りを歩いて行く。目指すはマルポ山の麓。ナナム本家。その門の近くに、大きな白楊があるはずだ。
ティゴルの記憶に違わず、白楊の大木はマシャンの屋敷の前に立っていた。葉は落ちているが、幹の陰になるところに手頃な枝が生えている。わき目も振らずここまで歩いてきたティゴルは、はじめて周りをうかがった。ひとの気配がないのを確認して、白楊をするすると登る。狙っていた枝に腰をかけ、待った。
ティゴルが衛兵隊長だったころのマシャンは決まった時間に出仕し、決まった時間に致仕していた。そして途中寄り道をすることなく、まっすぐ帰宅する。そのつまらない生活は、摂政になったいまも変わっていないようだ。予想を違わず、太陽が大分西に傾いた頃、マルポ山の方向から騎馬の一行が姿を見せた。
ティゴルは弓に矢をつがえて、幹の陰から観察した。家来たちに囲まれたマシャンの顔を確認すると、狙いをつけて、彼が射程距離に入るのを待つ。ティゴルの目には、もうマシャンしか見えていなかった。マシャンの端正な顔が苦痛で歪む様が脳裏に浮かぶ。高揚感で全身が熱くなった。
どうせ捕まって殺されるのなら、マシャンの断末魔を見届けてやろう。
ティゴルが微笑みながら弦から指を離そうとした、そのとき、マシャンの前を男が横切った。その顔にカッと頭に血が昇り、身体が震える。
ゴーだ。
気がつくと、弦が指から離れていた。
「しまった!」
矢が、ティゴルの予想していた軌道と、かなりずれて飛んでいくのがわかった。
「クソッ!」
ティゴルは木から飛び降り、後ろを見ずに駆けだした。
馬蹄の音が背後に迫る。目の前の十字路、どちらに逃げるか一瞬迷った、そのとき。身を切るような殺気を感じて、ティゴルはとっさに横に飛んだ。左頬のすぐわきを、光るものが走った。ティゴルは転がって、道路わきの塀に背中を打ちつける。うめきながら立ち上がると、十字路で馬上のゴーがティゴルを見下ろしていた。背後からバラバラと乱れた足音がする。マシャンの家来たちだろう。だが、それを確かめる余裕はティゴルにはなかった。
ゴーはティゴルの背後を目で制すると馬を降りる。抜き身を手にしたまま静かに言った。
「もう、逃げ場はありませんよ」
その冷静さがしゃくにさわってならない。
「マシャンの犬め」
ゴーの表情は変わらなかった。ゴーの腕前は知っている。空手のティゴルに勝ち目はない。でも。ほんのわずかな希望が、ゴーの背後にある。最初の一撃を躱すことが出来れば……。
ティゴルの思惑を読んだように、ゴーはもう一度、ゆっくりと言った。
「もう、逃げ場は、ありません」
どうにか、ゴーの動揺を誘えないだろうか。必死で思考をめぐらして、ふと、思い出す。
「まてよ。オレはおんなたらしを、ニャムサンの身柄を預かっている。縛って閉じ込めているんだ。ここでオレを殺したら、あいつは洞窟のなかで野垂れ死んじまうぜ」
わずかに目を細めたゴーは低い声で言った。
「それは、好都合」
意外な反応に身体を固くして身構えるティゴルに、ゴーはゆっくりと歩み寄って来る。右手の剣がなければ、散策でもしているような軽い足取りだ。キラリと刀身が陽を反射して、ティゴルの目を打つ。ゴーがささやいた。
「ならば、あなたにはここで死んでいただかねば」
「なんだと?」
見開いた目の前に、スッと切っ先が突きつけられた。
と、次の瞬間、あらぬ方向に剣が降られた。キンと高い音を立てて、なにかが跳ね返る。ゴーがティゴルに背中を見せた。
「馬だ!」
甲高い声が聞こえて、ティゴルは考えるより先に走った。十字路に、ゴーの馬がたたずんでいる。
「止まれ!」
はじめて、ゴーが声を荒らげた。
背を襲う剣のうなりに、思わず振り返ったとき、丸い影がゴーに突進して来た。切っ先が鼻先を掠める。ゴーが身を翻して影を避けた。
「早く乗れ」
太った男が、ゴーとティゴルの間に立ちはだかって言った。ティゴルは無我夢中で馬によじ登る。太った男は、目線でゴーを制しながら、その体躯に似合わぬ身軽さでティゴルの後ろに飛び乗った。
馬が走り出す。
駆け寄るマシャンの家来たちと、鬼のような形相でにらむゴーの姿が、みるみる遠ざかって行った。
太った男は人通りの多い下町まで来ると、馬を止めて降りた。
「さあ、降りてくれ」
低い声に促されて、ティゴルが降りると、太った男は馬の尻をたたく。馬は元来た道を走り去っていった。
「あぶなかったな」
男はのんびりとした口調で話しかけてくる。
「おまえ、誰だ。なんでオレを助けてくれた」
ティゴルはマジマジと太った男を見る。その顔にも声にも、覚えはない。
「馬のことを教えてくれたのは誰だ。声が違った」
「まあ、そうせかすなよ」
太った男は大きくのびをする。
「ここで兄者を待とう。詳しい話はその後だ」
男の長閑な調子に、ティゴルも緊張を解いた。
「もうひとりは兄弟か」
「そうだ、オレたちは双子なんだ。あんまり似てないけどな」
到着した双子の兄を見て、ティゴルはあきれた。似ていないといっても、これほど似ていない兄弟などいるものなのか。長身でやせっぽっちの双子の兄は、せかせかとした口調で言った。
「オレはニマだ。弟はダワ。あんたは?」
ティゴルは少し考えて、偽名を告げた。
「オレはテサルだ」
「そうか。よろしくな、テサル」
ふたりはまったく疑うことなく、ティゴルの肩をたたいて笑う。
「とりあえず都を出ようぜ。追っ手がかかるかもしれない」
三人は連れだって都の外へ向かって歩いた。
「それにしてもあんた、たったひとりでマシャンをやっつけるつもりだったんだな。すごいよ」
ダワが首を振りながら感心したように言う。
「オレたちもあいつを殺してやろうとして付け狙っていたんだけど、なかなかその機会がなかった。だからあんたを助けたんだ。同じかたきを持つ仲間だからな」
「あんたたちもマシャンに恨みがあるのか」
ニマはせわしなく首を縦に振った。
「マシャンはオレたちの親父を殺したんだ。親父は銀細工の職人だった。腕が良かったから、貴族のお得意がいっぱいいたよ。特に前大相のレン・ケサン・ドンツァプは親父の作るものを気に入ってくれて、いっぱい注文してくれた」
ドンツァプの名を聞いて、ティゴルは背中がひやりとした。
「でも、親父は別に政治がどうとかなんて知ったこっちゃないから、マシャンに含むところなんか全然なかったんだ。それなのに、大得意がいなくなって残念だというようなことをちょっと漏らしたのを密告されて、逮捕されちまった」
「それで、親父さんは牢屋で殺されたのか?」
ダワが沈んだ声で答えた。
「多分、拷問されてな。そうやって死んだヤツが沢山いるって噂だ」
「ひどいな。だからかたきを取ろうとしていたのか」
ニマがうなずきながら早口で言う。
「でもあいつはいつも家来に囲まれているだろ。なかなか手出しができなかった。あんた勇気あるな」
ふたりに尊敬のまなざしで見られて、ティゴルはだんだんいい気分になってきた。
「ところで、テサルはマシャンになにをされたんだ?」
「親戚を殺されたんだ。オレの就職の世話をしてくれた恩人だった」
「そうか。あいつはそうやって無実の人間を殺しまくって、自分は王さまの叔父だって威張ってるんだ。許せないぜ」
早口のニマに対して、ダワはのんきな口調で言った。
「なあ、オレたちと協力し合わないか。三人なら、絶対あいつをやっつけられるよ」
「ああ、そうだな。ところで、あんたたち泊るところはあるのか?」
ティゴルが訊くと、双子は顔を見合わせる。ニマが答えた。
「一か所に留まると目をつけられるから、いつも空き家を探して潜り込んでるよ。見つからなければ野宿だな」
「だったら、とりあえず今夜はオレのところに来ないか?」
「そりゃ助かる」
ニマが飛びつくように言う。ティゴルはニヤついた。
「お楽しみが待ってるんだ。マシャンに瓜ふたつの顔をした、マシャンの甥さ。代わりにいたぶってやろうぜ」
双子は目を丸くしてティゴルを見つめたまま、口を閉ざした。
「どうした?」
「だって、マシャンの甥って……偉いんだろ?」
「偉くなんかあるものか。どうしようもないバカガキだぜ」
ダワがゆっくりと言った。
「ガキだって尚論じゃないのか? どうやって捕まえたんだ」
ティゴルは鼻で笑った。
「その尚論さまが、都の外をひとりでブラブラ出歩いてやがったんだ。伯父貴にも言えない女のところに行くつもりだったんだろ」
双子は顔を見合わせる。
「へえ、すごいな。でも、なんでそいつがマシャンの甥だってわかったんだ? 知り合いなのか?」
「え? そりゃ、あいつにソックリだから、ピンと来たんだ」
ティゴルがしどろもどろになると、ダワがぼそりと言った。
「なんだっていいよ。テサルの言うとおり、いい気晴らしになるぜ」
ニマが微笑む。
「ああ、そうだな。案内してくれよ」
ティゴルは意気揚々とふたりの先に立って歩き出した。
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