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第九夜
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次の日の朝、ぼくは意を決して親戚に電話を掛けた。電話線が生きていて助かった。
「光くん!? 無事なの!? 何度も電話したのよ!」
叔母さんはどうやらぼくたちが街へ母さんを探しに行っている間に何回か連絡をくれていたらしい。こんな非常時に頼るなんて煙たがられるんじゃないか、と想像していたぼくは意外な反応にほっと胸をなでおろした。
そうしてぼくたち兄妹は叔母さんのところへ厄介になることになった。
叔母さん夫婦はぼくたちを手厚く迎え入れてくれた。清潔な寝床に、あたたかな料理を用意して。
「よく来たね。つらかったね。怖かったね。よく頑張ったね。もう何も心配しなくていいよ」
ぼくたちの悲しみにも懸命に寄り添ってくれた。
それから少しの後、日本はぼくたちの犠牲をもって終戦を迎えた。戦争が終わったからと言って、失ったものが返ってくるわけでもない。この悲しみに終止符を打てるわけもない。それでもたくさんの命を礎にしてもたらされた新たな生活は平穏なものになるはず、だった。
程なくしてぼくと暁の体調に異変が見られるようになる。
高熱、謎の痣、出血。口内が腫れ上がり飲食もまともにできない。街のお医者さんが診てくれたが、これは……と言うきり何もしてくれなかった。
暁は震える手でぼくの手を握る。
「おにい、ちゃん、あきら、父さんと母さんのところにいけるのかな?」
強く暁の手を握り返す。
「いや、まだ父さんと母さんのとこへ行くには早いよ。暁にはまだまだやることがあるだろ」
暁は黒く濡れた瞳を細めるとぼくを見上げる。
「がんばれば、まだ、生きられる?」
「生きられるに決まってる。当たり前だろ」
震えて上ずる声を必死に隠すと、暁は悲しそうに眉を下げた。
「でもおにいちゃん、さ。すごくつらそうじゃん。ずっと、そ……う。あきらもそうかなって、おもっ……て」
暁はそう言うと咳き込みながら吐血した。暁の吐き出す鮮血が枕もとを赤く染める。それはどこかで見た花と同じ色だった。
暁の言葉、そして苦しそうに血を吐き出す姿がぼくの心を鋭く突き刺した。ぼくは暁を守らなくてはならない。暁が絶望するような姿なんて見せられない。暁、お前だけは絶対に生きていてくれ――。
ぼくはその日の晩、痛む体を引きずり家を出た。とにかく引きちぎれそうなほど体が痛む。頭は望遠が霞むようで、思考がまとまらない。行く当てがあるわけではないが、とにかく暁の前から姿を消さなくては、その一心で闇雲に歩いていると、真紅の百日紅が目に映った。
その瞬間、あの日暁のはしゃぐ声が聞こえた。
「おにいちゃん、このお花きれいだね」
まだここにやってきたばかりのころ、探検と称して暁と散歩をしていた時に見つけた百日紅だ。百日紅の赤と暁の丸くて赤い頬、どちらも真夏の盛りを彩るきらめくような赤だった。
「うん……。きれいだね」
ぼくは久しぶりに見た暁の満面の笑顔に胸がいっぱいになったんだった。
そして、この泉にたどり着いた。
水面には月の光が反射して美しいビロードの織物を敷いているようだ。けれど水中をじっと見やると底の知れない静かな闇がこちらを見つめ返していた。
ぼくはそっと泉に足を浸す。すると静かな闇がするするとぼくの足を這うのがわかった。ひやりと冷たい闇は高熱続きだったぼくの足の体温をみるみる奪っていく。ああ……と深呼吸する。
ぼくの人生はどんな人生だったろう?
父さん、ぼくは父さんみたいな優しくて愛情あふれる大人になりたかった。でも、もうそれは叶わないみたい。
母さん、ぼくは母さんみたいなしっかり者でいつも笑顔を絶やさない大人になりたかった。でも、もうそれは叶わないみたい。
暁、ぼくは暁にとっていつでもお前を守る頼れるお兄ちゃんでいたかった。それだけは、叶えられるかな?
つうっ……と生温い何かが鼻の下から口にかけて流れる。ぬるっとして鉄臭いそれはとても不快だったが、もはや拭うために腕を動かすことも億劫だ。鉄臭い何かはあごを伝うと白いシャツをじわりと染めた。さっき見た百日紅と同じ色だ。
ぼくの体は何かが壊れていてもう元通りにはならないのだろう。でもよかった。明日からは暁にもこんな壊れた姿を見せることはない。お前はこんな風にはならない、大丈夫だよ。
そのままぼくはとぷん、と静かに泉へ沈んだ。冷たい闇が体中にまとわりついてくる。ふと上を見上げると、月光が水面に揺らいでいた。
今夜は月が出ていてよかった。ぼくの最期を照らしてくれてありがとう。
――さようなら、暁。お前は生きて。
「光くん!? 無事なの!? 何度も電話したのよ!」
叔母さんはどうやらぼくたちが街へ母さんを探しに行っている間に何回か連絡をくれていたらしい。こんな非常時に頼るなんて煙たがられるんじゃないか、と想像していたぼくは意外な反応にほっと胸をなでおろした。
そうしてぼくたち兄妹は叔母さんのところへ厄介になることになった。
叔母さん夫婦はぼくたちを手厚く迎え入れてくれた。清潔な寝床に、あたたかな料理を用意して。
「よく来たね。つらかったね。怖かったね。よく頑張ったね。もう何も心配しなくていいよ」
ぼくたちの悲しみにも懸命に寄り添ってくれた。
それから少しの後、日本はぼくたちの犠牲をもって終戦を迎えた。戦争が終わったからと言って、失ったものが返ってくるわけでもない。この悲しみに終止符を打てるわけもない。それでもたくさんの命を礎にしてもたらされた新たな生活は平穏なものになるはず、だった。
程なくしてぼくと暁の体調に異変が見られるようになる。
高熱、謎の痣、出血。口内が腫れ上がり飲食もまともにできない。街のお医者さんが診てくれたが、これは……と言うきり何もしてくれなかった。
暁は震える手でぼくの手を握る。
「おにい、ちゃん、あきら、父さんと母さんのところにいけるのかな?」
強く暁の手を握り返す。
「いや、まだ父さんと母さんのとこへ行くには早いよ。暁にはまだまだやることがあるだろ」
暁は黒く濡れた瞳を細めるとぼくを見上げる。
「がんばれば、まだ、生きられる?」
「生きられるに決まってる。当たり前だろ」
震えて上ずる声を必死に隠すと、暁は悲しそうに眉を下げた。
「でもおにいちゃん、さ。すごくつらそうじゃん。ずっと、そ……う。あきらもそうかなって、おもっ……て」
暁はそう言うと咳き込みながら吐血した。暁の吐き出す鮮血が枕もとを赤く染める。それはどこかで見た花と同じ色だった。
暁の言葉、そして苦しそうに血を吐き出す姿がぼくの心を鋭く突き刺した。ぼくは暁を守らなくてはならない。暁が絶望するような姿なんて見せられない。暁、お前だけは絶対に生きていてくれ――。
ぼくはその日の晩、痛む体を引きずり家を出た。とにかく引きちぎれそうなほど体が痛む。頭は望遠が霞むようで、思考がまとまらない。行く当てがあるわけではないが、とにかく暁の前から姿を消さなくては、その一心で闇雲に歩いていると、真紅の百日紅が目に映った。
その瞬間、あの日暁のはしゃぐ声が聞こえた。
「おにいちゃん、このお花きれいだね」
まだここにやってきたばかりのころ、探検と称して暁と散歩をしていた時に見つけた百日紅だ。百日紅の赤と暁の丸くて赤い頬、どちらも真夏の盛りを彩るきらめくような赤だった。
「うん……。きれいだね」
ぼくは久しぶりに見た暁の満面の笑顔に胸がいっぱいになったんだった。
そして、この泉にたどり着いた。
水面には月の光が反射して美しいビロードの織物を敷いているようだ。けれど水中をじっと見やると底の知れない静かな闇がこちらを見つめ返していた。
ぼくはそっと泉に足を浸す。すると静かな闇がするするとぼくの足を這うのがわかった。ひやりと冷たい闇は高熱続きだったぼくの足の体温をみるみる奪っていく。ああ……と深呼吸する。
ぼくの人生はどんな人生だったろう?
父さん、ぼくは父さんみたいな優しくて愛情あふれる大人になりたかった。でも、もうそれは叶わないみたい。
母さん、ぼくは母さんみたいなしっかり者でいつも笑顔を絶やさない大人になりたかった。でも、もうそれは叶わないみたい。
暁、ぼくは暁にとっていつでもお前を守る頼れるお兄ちゃんでいたかった。それだけは、叶えられるかな?
つうっ……と生温い何かが鼻の下から口にかけて流れる。ぬるっとして鉄臭いそれはとても不快だったが、もはや拭うために腕を動かすことも億劫だ。鉄臭い何かはあごを伝うと白いシャツをじわりと染めた。さっき見た百日紅と同じ色だ。
ぼくの体は何かが壊れていてもう元通りにはならないのだろう。でもよかった。明日からは暁にもこんな壊れた姿を見せることはない。お前はこんな風にはならない、大丈夫だよ。
そのままぼくはとぷん、と静かに泉へ沈んだ。冷たい闇が体中にまとわりついてくる。ふと上を見上げると、月光が水面に揺らいでいた。
今夜は月が出ていてよかった。ぼくの最期を照らしてくれてありがとう。
――さようなら、暁。お前は生きて。
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