お喚びでしょうか、ご主人様

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闇の力

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 朝起きると、隣がほんわか暖かい。掛け布団をめくってみたら、ルルちゃんが丸まって眠っていた。すうすうと可愛らしい寝息を立てている。
 なんて……幸せな目覚めなんだろう。僕は今、猛烈に神に感謝している。

 ……この場合、悪魔に感謝するべきなのか?

 まあ、どちらでも些細なことだ。重要なのは、眠るルルちゃんがとてつもなく可愛らしいってこと。それだけ。

 はー。可愛いなあ。いつ帰ってきたんだろう。お帰りなさいって言ってあげたかったなあ。ふふふ。

 可愛い寝姿を見ていると、心が癒される。このままニヨニヨと見つめていたい気もするけど、悪戯もしたくなってくる。
 ほっぺプニプニしてそう。触りたい。水色の髪、柔らかそう。触りたい。身体中、撫で回したい。可愛い。たまらない。
 でもきっと、正解はこのまま寝顔を眺めていることだ。寝込みを襲うなんて紳士のやることではない。
 嘘。単に童貞歴の長すぎるチキンハートで何もできないだけ。
 少しでも動いたら起こしてしまいそうで、さっきから僕、微動だにしてないし。息をする回数すら抑えててちょっと息苦しくなってきた。

 髪を……触るくらいなら、いいかな。ち、ちょっとだけ……。

 そろり、と手を伸ばす。僕のヨコシマな気配を察してしまったのか、ルルちゃんがクゥゥと可愛い息を立てながらうっすらと目を開けた。
 僕はきっと、凄く気持ちの悪い顔をしていた。でもルルちゃんは僕を視認すると少しぼんやりしながら目をまたたかせ、こてんと首を傾げた。

「おはようござい、ます? ご主人様」

 あざと可愛すぎるうぅ!

「い、今の、も、もう一回やってくれる?」
「今の……ですか?」
「首傾げるやつ!」

 やってくれた。萌える。
 欲を言えば笑顔もほしいけど。だって相変わらず無表情なんだもん。
 まあ、そこがルルちゃんの魅力でもあるんだけど……。でへへ。
 あー。今、僕の魂重いよ。重くなってるよ、確実に。

「あの、ご主人様」
「え、え、何? ぼ、僕の顔、気持ち悪い?」
「いえ……顔ではなく。勃起してます」

 ああー。どんだけ堪え性がないんだ、僕の愚息はあぁ!
 そしてルルちゃんも相変わらず、事実だけを淡々と述べるスタイル。

「こ、これは、朝だから! 人間の男の生理現象なんだ。僕の意思などによるものではなくっ!」
「射精させましょうか?」

 僕の言い訳など気にしない様子で、ルルちゃんがスバリと言った。昨日の痛みを思い出して萎えた。さすがに昨日の今日では喉元過ぎはしなかったみたい。

「……これもヒトの生理現象ですか?」
「う、うん。そんな、感じかな……」

 まあ、せっかくショタでいてくれてるのに、無理させて元の姿に戻られても嫌だし。

「僕はルルちゃんにエッチなことをしてほしくて一緒にいてもらってるわけじゃない」

 してもらえたらいいと思ってはいるけど。

「ただ仲良く暮らしてくれれば、それでいいんだよ」
「仲良く暮らす……。それが、ご主人様の望みなのですね」
「うん」
「ですが、ささやかな幸せではダメなんです」
「あっ……。魂が重くならないから?」

 そうだよな。ルルちゃんだって、こんな茶番に何年もつきあいたくはないよな。本音は早く帰りたいと思ってるはずだ。悪魔の世界がどういうところかは知らないけれど。

「それもありますが……」
「まだ他に何かあるの?」
「私が貴方を幸せにしたい、というか」
「ル、ル、ルルちゃんっ!」

 思わず抱き締めたら、ルルちゃんが元のサイズに戻ってしまった。

「またこれかああ!」
「すみません。びっくりして」

 飛び退いた拍子にベッドから落ちてしたたか腰を打つ。魂が重くなるどころか、磨り減ってってる気がするぞ。くそ。

「大人の男に抱きつくとか、普通の男なら罰ゲームみたいなものなんだからね!?」
「存じております」

 力がなくなったわけではないらしく、すぐに小さくなってくれた。
 びっくりさせたくらいで戻るなんて、実はルルちゃんって落ちこぼれとかなんじゃ……。
 まあ、それでもいいけど。可愛いし。

「そんなにポンポコ戻るって、小さくなるのが本当に苦手なんだね。悪魔ってそういうの得意そうなのに」
「誰のせいだと……」
「え、僕のせい?」
「いえ。なんでもありません」

 ルルちゃんはこほんとひとつ咳払いをすると、ベッドから降りて僕に向き直った。

「それでは本日は何をいたしましょうか」
「な、何をって……。だ、だから別に僕はエッチなことは、なくても」
「いえ、そうではなく」

 違った。そういう意味じゃなかった。この勘違いは恥ずかしい。

「……1日、家でゴロゴロしてるとか。一緒にゲームやる?」
「それは私相手である必要はないでしょう。貴方は悪魔の力を手に入れたのですよ。願ってみたいことは、他にないのですか?」

 僕的にはルルちゃんが一緒に暮らしてくれるってだけで、望みが叶えられてるからなあ。
 お金は……あるけど、魂を抜かれる予定の僕に未来なんて、ないし。

「う、うーん。じ、じゃあ、過去には、遡れる?」
「申し訳ありません。時間軸を越えるのは難しいです」
「まあ、そうだよね。取ったはずの魂も戻る結果になったりするだろうし」

 できれば小学生からやり直したい。今と違う未来がいい。
 でもルルちゃんと会えなかったことになるのは、寂しいかも。

「じゃあ、せ、世界征服とか!」
「言ってみただけ、という感じですが」
「まあ別に、したくない……」

 本当に、部屋で一緒にゲームでもできるほうが、幸せなんだけど。なんか外出しなきゃいけない雰囲気だぞ。
 でも確かに、悪魔の力を借りれば世界が怖くなくなる……?

「そうだなあ。ぼ、僕を誰もが振り返る超美形にすることってできる? それで歩いたら、凄い気分いいかも!」

 モテすぎるのも色々大変なのかもしれないけど、一度くらい味わってみたい。

「かなり大勢の方の人生を狂わせることになりますが、構いませんか?」
「……ソコソコの、見た目で」
「難しいです」
「なんだよ! できないことだらけじゃん。むしろ何なら難しくないんだよ!」
「いえ。そうではなく」

 ルルちゃんが小さな手で僕の額を触る。

「ご主人様のお顔は元から整ってらっしゃいます。町を歩けば普通に声をかけられるレベルだと思いますので」
「ええっ。ぼ、僕、三十路童貞だよ? カッコイイとか、ないし……」

 でもルルちゃんから見てカッコイイなら嬉しい。単にルルちゃんの好みってことじゃないのかな。お互い一目惚れみたいな? これが運命か。

「かなり長い期間、外へ出ていないのでしょう?」
「う、うん、まあ、そう……」
「モテたいならば髪を整えてスーツを着て歩くだけで充分です」

 本当かな。小学生の時、酷い虐めにあって以来、引きこもってるからわかんないや。
 一度、出ようと決心したこともあるけど、結局僕の世界はこの広い家と窓から見える景色だけだ。

「それしたら、ルルちゃんから見ても、カッ……カッコイイかな?」
「はい」
「じゃあ、そ、それ、お願い……」
「服などは私が新調いたします」
「あ。でも、ルルちゃんが元の姿に戻っちゃうんじゃ!?」
「モテたいのに、私を連れて歩くのですか?」
「僕以外には見えないって言ってたし、ゆ、勇気が出ないから傍にいてほしい」

 僕、今凄いみっともない。悪魔だとはいえ、こんな小さなルルちゃんにすがったりしてさ。
 かっこよくしてもらう以前に、幻滅されそう。もう今更か。

「……構いませんが、ご主人様からも姿が見えないようにいたしますよ?」
「え? ど、どうして? それじゃ意味がないっていうか」
「私が見えれば、反応するでしょう? 何もないところを見たり、何かブツブツ言っていたりしたら、不審者扱いされます」
「あ、そうか……!」

 そんな当然のことに思い至らないとか、馬鹿すぎる。
 ルルちゃんがいないように振る舞うなんて、もし見えていたら僕にはできそうもない。見えていないとしても、いるかどうか不安になって、変にキョロキョロしてしまいそうなくらいなのに。

「じゃあ、呼んだらすぐに、出てこられるところにいて」
「はい」

 ルルちゃんが頷いて、それから僕をじっと見た。
 さっきは額だったけど今度は両手で僕の頬を挟み込む。
 身長差はかなりあるけれど、僕が腰をついて倒れ込んだ体勢なので、立っているルルちゃんに顔を覗き込まれるような感じになる。
 相変わらず無表情で、何を考えているかわかりにくい。
 でも、何故かとても悲しそうな顔をしている気がした。
 ……哀れみの表情だとは、思いたくないな。

「今、何か魔法みたいなの、僕にかけてる?」
「っ……」

 ルルちゃんは突然声をかけられて驚いたのか弾かれるように僕から離れて、小さくハイと返事をした。
 もしかして、キスでもしてくれるところだったとか!?
 うわああ。凄く惜しいことをしてしまった! クソッ!
 悪魔の世界や取り決めがどんなものか僕はハッキリわからないわけだし、ルルちゃんは実は僕が好きで親切にしてくれてるパターンもありえるのか……?
 ハァハァ。なんかすっごく興奮してきた!

「若いな、と思いまして」
「わか……。今、凄くいい妄想してたのに、現実にかえさないで!」
「は、はあ……すみません」

 元は僕より背の高い青年だということを思い出してしまった。まあ、元の姿もそう歳くって見えないんだけど。

「では、目をつぶってスーツ姿をイメージしてみてください」

 ルルちゃんが近くに姿見を出現させた。
 うう。自分の姿を、あまり鏡で見たくないな。さっさと目をつぶろ。きっと凄い老けてるだろうし、髪もボサボサ、ダサイ眼鏡にだらしない上下のスウェット。

「今、術をかけてますからね! 変なイメージすると、その通りになってしまいますよ!」
「ええ? そもそも、服出して髪を整えるだけなら……適当にやってくれればいいのに、僕がイメージするの?」
「ご主人様の力を借りるほうが、私の負担が少なくて済むのです」

 力ねえ。悪魔を喚び出せたくらいだし、実は僕には何かしら力が……いやいや、三十路の中二病はさすがにイタすぎる。
 とりあえず、イメージしてみればいいんだろう。
 ……イメージ。最近のファッションとか言われたら困るけど、スーツ姿くらいなら、なんとか。
 どのくらいイメージしていればいいのかなと考えて1分か2分程度で、ルルちゃんが僕の背中を軽く押した。

「できました」
「え。も、もう?」

 鏡を見せられて、反射的に身構えてしまった。

「これが……僕」

 鏡に映る見慣れない姿に、ギョッとして腰を抜かしそうになった。
 あ、ああ……。これ、僕かあ。
 いつも、意識的に自分の姿が鏡やガラスに映らないようにしていた。見ないようにしていた。ただでさえ今日はいつもと違う姿だったから、マジで誰だコレ状態。なんだこの薄い眼鏡は。それに、オールバックって。ピシッとしたスーツを着るとだるだるの身体もしまってみえるな。
 だけど……イケメンかどうかはわからない。だって鏡の中の僕には、顔がなかったから。
 いや。ないわけじゃない。あるんだと思う。でも認識できない。
 確かそんな病気があったような……。気がする、けど。よくわからない。それにルルちゃんの顔はわかる。家の前を歩く小学生の顔は確かによく見えないけど、それは距離的なものだと思うし。

「どうでしょうか」
「そ、そうだね。いいんじゃないかな」

 眼鏡をただしながら、鏡に手のひらをつく。なんだかナルシストみたい。

「僕、カッコいいかな?」
「はい……」

 恥ずかしそうに俯くルルちゃん。可愛い……。
 自分の顔が認識できないのは見たくないと強く思ったからルルちゃんの術でそうなっちゃったのかも。それか精神的なものか。なんにせよ、不都合はない。ここ数年鏡なんて見ていなかったんだから。ルルちゃんがカッコいいと言ってくれるなら、それが今の僕のすべてだ。

「じゃあ、行こうか」
「はい。姿を消していますので、何かあればお喚びください」

 そうだった。モテたいって願ったから、今から町に行くんだった。
 よく考えると、軽々しくハードルが高いことを口にしてしまった……。
 外へ出るのなんて、何十年ぶりってレベルなのに。ルルちゃんがいることで、気が大きくなってた。なんて馬鹿な願いごとをしたんだろう。

「ご主人様……?」
「本当に僕、カッコいいかな? 誰にも馬鹿にされないかな?」
「はい」

 ルルちゃんはふわりと浮き上がって僕の頬にキスをくれた。

「自信のつく、おまじないです」
「ル、ル、ルルちゃんッ……!」

 外出せずに部屋でイチャイチャしたくなってきた!
 でも、せっかくルルちゃんが僕のために服を出してくれて、おまじないまでしてくれたんだ。ここはモテモテな日常を堪能するべき。

「あっ! も、モテても僕はルルちゃん一筋だからね!? ただ、どんな感じか味わってみたいだけで!」
「…………では、存分にお楽しみください」

 そう言ってルルちゃんは姿を消した。スルーされてしまった。
 嬉しいとか、私もですとか、言ってくれる姿は想像できないといえばできないけど、もうちょっとこう、何か……。はあ。
 とりあえず、行くか。
 階段を降りる足取りも重い。ルルちゃんも、玄関まではついてきてくれてもいいのにさあ。いてくれたらいてくれたで、後ろ髪引かれる感じに名残惜しくて足が動かないかもしれないけど。
 トントンという階段を降りる音が、死刑台を昇る足音のような気さえしてくる。こんな気持ちになってまで、外出する意味なんてあるのか。僕はそうまでしてモテたいのか。……世間を見返してやりたいとは、少し思うかもしれない。
 長い時間をかけて、ようやく玄関へついた。このドアを開ければ、青い空と白い雲、開放された空間が僕を待っている。
 ドアノブにかけた手が、震えた。
 大丈夫。大丈夫だ。親戚連中はいつの日からか来なくなったし。……あれ、いつから、だっけ……。ま、いいか。
 僕はゆっくりとドアを開けた。

「あ……」

 普通に、外だ。ただしそこには、青い空も白い雲もなかった。

「雨……」

 まるで僕の心を映したように見事な雨模様。土砂降りではないけど、出掛けるのが少し躊躇われるくらいの降り方。

「傘、あったかな」

 ぽつりと呟くと玄関先に見覚えのない黒い傘。こんなの持ってたっけ。ルルちゃんが出してくれたのかなあ。
 雨だからやっぱり外出やめようかなーって言い出すのを、先回りして阻まれた気分。
 一歩、足を踏み出す。そこで固まった。目眩がする。震えが爪先から頭まで痺れるように襲ってくる。
 なんで外に出るなんて言っちゃったんだろ。なんで、あんな願い事したんだろ。
 これで歩けるわけがない……。ルルちゃんが、家にいるだけじゃダメだって、言うから……。僕も、悪魔と出会ったばかりでテンションが上がってたから……。
 そうだ。ルルちゃん。ルルちゃんにカッコ悪い姿は見せられないぞ。
 それに僕が怖いのは他人の視線であって、外じゃあない。見渡す限り誰もいないし、何より傘で顔が隠れる。今なら濡れた空気の中、湿った地面を踏みしめることができるはず。
 僕は唇をきゅっと引き結んで、もう一歩を踏み出した。

「う、うん。だい、じょうぶ。大丈夫」

 聞こえないくらいの声で、自分に言い聞かせるように呟く。ルルちゃんには聞こえているかもしれないけど。
 ルルちゃん……どのあたりにいるんだろう。僕の傍にいてくれてるのかな。
 …………思ったより、平気かも。一度歩いてしまえば、案外思いきれるものだな。 
 凄く時が経っているはずなのに、家並みはあまり変わっていない気がする。
 駅までの道も覚えてる。確かこの先に赤いポスト。曲がり角にはタバコ屋さんがあって、近くに駄菓子屋さん。
 雨のせいか誰にもあわない。静かで、まるでこの世界に僕だけしかいないような気分になる。正月、うっかり外に出た、子どもの時みたい。雨の他に少し霧もかかっていて……。
 でも、さすがに駅まで行けば人もいるだろう。それはそれで気が重いけど。って、これからモテに行くのに何を考えているんだかな。ハハッ。
 半ばやけ気味な想いを抱えながら駅へつくと、予想に反して人は誰もいなかった。

「……なんだ、あれ」

 そう。人は。人でないものなら、いた。何度も目を擦る。
 影みたいなもやみたいな物体がうぞうぞと蠢いている。電車が通っているのも見えるけど、無人というかまるで化物駅だ。
 じりじりと後ずさって、一息ついてから路地裏へダッシュした。

 なんだ。なんだあれ! ゲームかよ! サイレントビルの世界かよ! そりゃビルも黙るよ!

「ルル! ルルちゃん!? ちょっと!!」
「お喚びでしょうか、ご主人様」
「喚んだ! 喚んだよ! 喚びまくりだよ!」

 ルルちゃん、なんでこんなに落ち着いてるの? 傍にいたんじゃないの? まさか見えないの? 悪魔なのに?

「あの化物みたいなの何!? いつの間にか日本は悪魔に支配されてたりするわけ!?」
「化物……?」

 ルルちゃんが眉をひそめて駅のほうを見た。

「人間しかおりませんが」
「あれが人間だっていうのか!?」

 じゃあ、もしかしてああ見えているのは、僕が……大人の人間をああいう存在だと認識しているから化物に見える、とか? 確かに僕は、自分の顔も上手く認識できなかったけど。
 でもルルちゃんは、大きい姿でも人型に見えるし。それに窓から小学生ウォッチングをしている時、普通に通勤してる社会人もいた……。
 昨日今日でこんな化物天国になるのも考えにくいから、やっぱりルルちゃんのかけた術のせいか。

「人間が今の僕には実体のない影のようなモヤモヤに見えるんだよ。だからもう帰りたい」
「襲ってきたりはしないから、大丈夫だと思いますよ」
「いや、そ、そういう問題じゃなくてさ。あんなのにモテても不気味なだけで嬉しくもなんともないんだけど」

 ルルちゃんが、今気付いた。みたいな顔をした。
 いや、そこはもっと早く気づこうよ。……とはいえ、ルルちゃんには普通の人間に見えているのなら仕方ない話か。

「ですが、せっかく外出したのですから、外の空気だけでも吸いませんか?」
「そのほうが、僕の魂が重くなるっていうの? ほ、本当に、化物みたいなんだよ。あ、あんなのがうじゃうじゃいる中を歩きまわって幸せだと思えるはずないだろ!」

 確かに解放感はあるかもしれないけど、怖すぎる。落ち着かないにもほどがある。
 稀にホラーゲームをすることもあるけど現実での恐怖は比較にならない。

「声でもかけられたら気絶できる自信がある! そ、そうだな、せめてルルちゃんが傍にいてくれたら……」
「この小さな姿で寄り添っていたら、警察は襲ってくるかもしれませんね」
「だよねー! よしっ、帰ろ?」

 ルルちゃんは何かを訴えるように、うるうるとした瞳で僕を見上げている。

「……あ、あのね。本当に無理だから。僕は、お、臆病なんだよ」

 正直、あの中に飛び込んだ瞬間、もやが僕を取り囲んでくるような気がする。そんな想像をするだけで、オシッコちびりそうになるし足は産まれたての小鹿みたいにガクガクだ。

「なら……この姿で私が隣を歩くのはどうですか?」

 ルルちゃんが青年の姿になる。がっかりしたけど、安心もした。
 きちんと人型に見えるし、何より守ってもらえそう感はショタの時より断然ある。

 そうして僕は、ルルに手を引かれるまま渋谷行きの電車へと。
 黒いモヤは座ったり動いたり、つり皮を掴んで……いるのかはわからないけど、立っていたりする。
 ……目的地が近づくにつれ、少しずつ乗客が増えていく。目眩がした。
 身体が当たりそうになる密度になったあたりで、もう限界。

「ごめん、無理!」
「あっ」

 乗客と入れ違いにホームへ降り立つ。
 いや、そもそもこれは本当に人なのか。
 気持ち悪い。頭がぐらぐらする。椅子……椅子に。

「大丈夫ですか?」
「大丈夫、じゃない」

 椅子に倒れるようにもたれて、手のひらで視界を覆うと少し落ちついた。
 化物みたいな奴らが怖いせいだ。僕は自分にそう言い訳していたけれど、実際には奴らが人の形をしていないからこそ、ここまで来ることができたのかもしれない。奴らには目がないし。
 だって引きこもりの僕が一番怖いのは……人の、視線だから。

「帰ろう。やっぱり帰ろう。力で僕を、一瞬にして家へ連れ帰ったりできない?」
「……できない、こともないですが……。今は、無理そうです」
「どうして」
「朝からかなり力を消費していますので……」
「そんな……」

 早くあの部屋に戻りたい。なんで僕は、モテたいなんて思ったんだ。大人にモテたところで嬉しくないのに。小学生に囲まれたい。
 実はこのモヤモヤモンスター、中身は小学生だったりしないかな。修学旅行とかで。ちょっと設定に無理がありすぎるか。
 視界を遮る手のひらを外したところで、状況は変わらない。僕が自分の足で、立って戻らなければならない。いつまでもこうしているわけにはいかない。
 僕は。僕は、家へ帰るんだ。引きこもるために!
 決心して起き上がると、状況が変わらないどころか一変していた。

「ひ、ひえ……!」

 黒いモヤモヤが集まってきていた。ルルを中心に少しだけ間をあけて、まるでこちらを覗き込むように。
 ルルが美人だから? でも、なんか……僕を、見ているような気がする。
 あ、もしかして具合悪そうにしてたせい!?
 ダメだ。怖い。怖い……!

「ご主人様?」
「る、ルルっ……!」

 モヤが近づいて、ルルの後ろからすり抜けて……僕に体当たりをかましてきた。
 椅子から崩れ落ちる僕と、目を見開くルル。
 すべてがスローモーションのようだった。

「な、何……? 何!?」

 他のモヤも次々に僕へ近づいてくる。

「ご主人様、すみません!」

 ルルが僕を抱えて駆け出した。お姫様抱っこで。

「攻撃してこないって言ったじゃん! 攻撃してこないって!」

 僕には人間の姿に見えないから、実際に何があったのかわわからない。あの体当たりモヤは僕のほうに転んできただけなのかもしれない。そして周りはそんな僕とよろけた人を心配して寄ってきたとか。
 でも僕にしてみれば、あれはどう考えても攻撃だった。
 てか、逃げる僕たちを追いかけてきてるし! これはもう明らかに敵意があるだろ!? むしろ殺意!?
 こ、こ、こ、怖い! 人の視線が怖いとか言ってる場合じゃない。普通に怖い。ホラーすぎる。
 走り続けて屋根のないホームに出たけど、幸い雨は止んでいて視界も明るい。
 改札通らないで、このまま柵を飛び越えて行けば逃げ切れる?

「想像以上にご主人様の闇が……力が、強かったみたいですね」
「何!? 闇の力!? だから三十路の中二病とかマジ勘弁して!!」
「ちゅうに……? それより、飛びます。舌を噛まないように気をつけて」
「っ」

 反射的に歯を食いしばる。空を飛ぶみたいなのを想像したのに、見事な跳躍だった。負荷がかかる勢いで、柵を飛び越えるどころか高いビルの屋上までひとっとび。遊園地の絶叫マシンも顔負け。オシッコちびらなくて良かった。

「空を飛んだ気分はどうでした?」
「こんなの、飛ぶって言わないし! 最悪だよ!」
「ですが、これであの方々は追ってこられません」
「やっぱり大人は怖い……子供がいい」
「ご主人様……」

 そういえば僕、その大人に抱っこされっぱなしじゃん!

「お、降ろしてよ」
「申し訳ありません」

 ルルが僕をそっと床に降ろしてくれる。重量を感じさせないような動作に、改めてルルが人間じゃないことを実感させられる。
 いや、もうさっきのジャンプで人外認定充分なんだけど、必死すぎてそれどころじゃなかったからな。

「僕が、襲ってきそうだって思ったから、現実になったの?」
「ええ、まあ……そうなります」
「でもさ、モンスターみたいなんだよ!? 襲ってきそうって思うの普通でしょ!?」
「はい」

 確かに……人が怖い、のは、普通ではないのかもしれないけど。
 冷静に受け答えをするルルに、合わせるように僕も落ち着いてくる。

「ここで少し休めば、家まで空を飛んで帰れるようになる?」

 ビルは多分五階建てくらい。上から地上を見下ろすと、モヤモヤした影たちが飴に群がる蟻のように群がってきていた。今度こそチビるかと思った。

「ル、ルルルルルルルー!」
「何度も喚ばれなくても聞こえております」
「一回しか呼んでないよ! 下、し、下見て!」
「これは……壮絶ですね」
「ど、どうしよう……」
「戦いますか?」
「ルルが?」
「ご主人様が」
「無茶ぶりすぎる!」
「こういうゲームはお嫌いでしたか?」
「き、嫌いというか……。少しはやるけど、苦手、っていうか……。い、いや、そもそも現実で化物退治とか僕には無理だから!」

 戦うなんて選択肢出さないでほしい。大体、あれ人間なんだろ? 正当防衛になるかもしんないけど、その前に確実に負ける。ここは逃げ一択。
 ……まさか、逃げるすべがないとか? 力が足りなくなってて、僕を抱えては飛べないのかも……。さっきもジャンプだったし。

「ル、ルル……。僕ね、空を飛べるようになりたい。できる?」
「はい」
「できるの!?」

 子供の頃なら誰でも一度くらいは超能力やら魔法やらで空を飛んでみたいと思うことがあるだろう。
 かくいう僕も、飛ばないじゅうたんに乗りながらめちゃくちゃな呪文を唱えたものだ。
 こんな夢のような体験ができるなら、もっと早くお願いしておけばよかった!
 でも、本当に飛べるのかな……。ショタと暮らしたいと願ってみればパワー切れですぐ成人しちゃうし、モテたいと願ってみればモンスターが襲ってくるし。
 ちらりと下界に視線をやると、あの黒い塊がビルを這いずり登ってくるのが見えた。
 こここ、怖いぃい! 空を飛ぶのはなんとしても成功してもらわなきゃ困るぞ。落下するのも嫌だし。

「はい。飛べるようになりましたよ」
「え、もう!?」

 今何かしたのか? モーションも呪文もなくそんなこと言われても。何も変わったところがないように見えるけど……。念じてみればいいのか?
 浮かべー。浮かべー。浮かべー。浮か…………これ僕、馬鹿みたいじゃね?

「飛べない」
「初めの一回はきちんとしたイメージが、身体に必要かもしれません」

 なんか、凄い嫌な予感が。

「ここから飛び降りてみてください」
「やっぱりかああ! ダメ、死んじゃう!」
「大丈夫です。私を信じてください」

 信じられなさすぎる。

「できるできないは別として、普通怖いでしょ……。ショック死する」

 魂と引き換えに悪魔を喚んだ奴が何を言ってるんだと思われるかもしれないけど、それはそれ、これはこれ、だ。僕はチキンなんだぞ、相当に。いざとなったらルルがお姫様抱っこで助けてくれるとしても紐なしバンジーは勘弁願いたい。むしろ紐があっても無理。

「これから空を飛ぼうというのに何が怖いのでしょうか」

 悪魔にはわからない感覚なのか、ルルは相変わらず無表情のまま首を傾げる。
 その時、屋上の扉がガコガコッと恐ろしい音を立てた。

「ヒッ……!」
「どうやら中からも来たようですね」
「き、来ちゃったの……」

 なんとかして扉を開けようとしているのか、何度も何度も軋む。
 やばいコレ、心臓縮む。対峙する前に死んじゃうんじゃないか、僕。
 今もう魂の重さ紙以下だよね!

「申し訳ありません、ご主人様」
「えっ、何?」

 答えた途端、僕の身体は浮いた。
 それは空を飛んだからじゃなく、ルルが僕の膝裏をすくいあげ、姫抱きにしたからで。
 ……そのまま、放り投げれた。屋上から。

「うわ、わあああ!」

 お、おち、おちる! てか落ちてる。現在進行形で落下してる! 凄いスピードで。空気の抵抗が凄くて顔が痛い息ができない走馬灯も見えない。
 一瞬か、永遠か。まだ何も望みを叶えてもらってないのに。ルルちゃんと満足するまで暮らしてないのに。ここで死んじゃうのかな。
 目を開けると、ちんまい姿のルルちゃんがいた。
 ああ、ついにお迎えが……。天使の羽が舞い散るようだ。悪魔だけど。

「天にも昇る気持ち、ですか?」
「えっ」

 僕の恐怖心が見せた幻だったのか、目の前にいるのは大きいルル。
 なのに、どうして天使の羽が舞って……? って、えええ、僕の背中から生えてる!? でっかい翼が! 空を飛びたいとは言ったけどこれは予想外。

「ほら、飛べたでしょう」
「う、うん。飛んでる……」

 自分の羽で飛んでるって感覚はないけど。背中に自動操縦装置でもついてるみたいな感じ……。
 地上は遥か遠く下。本当に浮いてるんだ。凄い。

「しかし貴方に天使の羽だなんて、皮肉ですね」
「それ、心が穢れてるって言いたいわけ?」
「……失礼しました」

 確かにショタコンでロリコンで悪魔なんて呼び出しちゃう三十路童貞だけどさ。
 ……ある意味清い身体だからなのか?

「これ、しばらくしたら落下したりしない?」
「命に関わりますのでおそらく大丈夫でしょう。私も傍にいますし」
「そうだね」

 悪魔の羽を生やしたルルと、天使の羽が生えた僕が隣合わせて飛ぶ様は、人工衛星なんかに捉えられたらどうなるんだろ。僕ひとりに見えるのかな。
 しかしこれは、気持ちいい。僕本当に天使みたいじゃない? 今日はオタクっぽくない外見にしてきてるし!

「じゃあ今日は気が済むまで空を飛びたい」

 怖かった心が安らいでいく。何しろ僕は今、空を飛んでいるんだ。自分の羽で。
 それに空なら人の視線もない。解放感だ。

「楽しいですか?」
「楽しいよ!」
「それは良かった」

 棒読みっぽくて、相変わらずどう思ってんのか読めないな……。
 まあいいや。せっかくだから楽しもう。何せ空を飛んでるんだ。行きたい方向に進めるし、凄い。
 今なら言える。人がゴミのようだ。いや、人は見当たらなかったよな、化け物しか。
 上から唾を垂らしたら、雨だって勘違いするかも。化け物どもに制裁を! ふはははは!

「先程まで怯えていたのに、今はずいぶんと楽しそうですね」
「だって楽しいもん! 人間にとってはさー、一度は夢に見る願いだよ。空を飛ぶって」

 なんで飛べてるかわからないから、普通なら急に落ちそうで怖いと思うのもしれない。でも僕の適応力が高いのか、一度飛べたら飛べるのが当たり前って感じになってる。そりゃもちろん、広い空の世界に感動はするんだけどさ。

「……ん?」

 あれ、なんだろう。少し遠くのほうに、黒いブラックホールみたいなものがある。
 さっきの変な怪物ではないみたいだけど……。

「ルル、あれ何? 近づいても平気かな」

 平和な空の秘密を暴けるような気がして、僕は黒い歪みにスイスイと近づく。
 ……いや。引き寄せられてないか、これ。まさかマジでブラックホールなんじゃ。

「わ、わわわ」
「近づいたらいけません!」

 ルルが僕の身体を引き寄せる。空の上でも姫抱きかよ!

「あれは時空の歪みです」
「ゲームみたい」
「下手に近寄ると魂ごと消滅しますよ」

 それはヤバイ。まだルルちゃんと満足いくまで暮らしきってないのに。
 でも、ルルがこんなに真剣な……というか、切迫したような表情してるの初めて見るかも。ある意味いつでも真顔なんだけど、それとはまた違う。
 見たこと……ない? でも、あるような気も……。

「もう帰りましょう。少ししたら、離しますから」
「どうしてルルは平気なの?」
「悪魔なので負の力には強いのです」

 僕を抱えたまま、ルルはゆっくりと移動していく。
 ゲームや漫画だったら姫ポジションだな、僕。絵面を想像すると厳しいけど。我に返れば三十路童貞だしな……。
 成人男性なんて、一番嫌いな存在なのに、なんだか懐かしい。父親を思い出すにはルルの見た目は若すぎるのに、どうしてそう思うんだろう。
 そもそも空を飛びながら姫抱きされるシチュエーションが懐かしいってなんだよ。ありえないだろ。そして、何故かドキドキしちゃってるのも死ぬほどありえないだろぉぉ!

「……ご主人様、どうされましたか?」
「へっ?」
「なんかぼんやりとしてらっしゃいますし、顔も赤い。疲れが出たのでしょうか」

 額にそっと、冷たい手のひらがあてられる。
 なっ、どっ……どうし、マジで? 瞬間湯沸し器みたいに体温が上がっ……。

「えっと、そ、そうだ。僕たち、一度会ったことない?」

 って、何、ナンパの定番台詞みたいなこと言っちゃってるんだ! 馬鹿馬鹿!
 そう思ったのにルルはすぐに否定をせず、僕をジッと見て……。

「頭でも打ちましたか? そのせいで熱が出たのでしょうか」

 辛辣な言葉を心配そうに吐いた。
 なんだ。やっぱり気のせいか。そうだよな。小さな頃に会ってた記憶もないし、忘れたい記憶だって全部全部覚えてるんだから。
 これで抜け落ちた空白の記憶でもあれば、万一があったかもしれないけど。
 じゃあ、この懐かしいようなきゅんと切なくなるような感覚って。

 …………今は、考えないようにしよう。
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