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20 Lucky Lips
Lucky Lips 8
ゆっくりとした足どりで、彼はわたしの方へ歩いてくる。
ふたりの距離が、しだいに縮まっていく。
だけど川島君は、わたしまであと数歩の所で、立ち止まった。
「弥生さん。久しぶり」
感情を顔に出さず、川島君は口を開いた。
『弥生さん』
もうずいぶん聞いていなかった、その呼びかけ。
今のふたりが他人であることを、暗に語っている。
この人から、そんな呼ばれ方をしたくなかった。
「川島君…」
わたしも話しかけたいんだけど、いったいなにを言えばいいのかわからなくて、彼の名前以上は言葉が続かなかった。
しばらくふたりはそうして、少し距離をおいたまま、黙って立ちすくんでいた。
立ち止まったわたしたちの回りを、たくさんの人が通り過ぎていく。
それは抗うことのできない、時の流れ。
だけど、わたしと川島君のあいだだけは、時を刻むことを止めているかのようだった。
やがて、意を決したように、川島君はわたしをまっすぐ見つめ、口を開いた。
「ひとつだけ、訊きたいことがある。12月はじめの初雪が降った日。ぼくはいつか、いっしょに海を見たリゾートホテルに行った。弥生さんは来たか?」
「…」
「9月に約束しただろ。
『12月になって、雪が降ったら、そのリゾートホテルに行こう』って。
弥生さんはもう忘れてたか?」
「…」
「…」
川島君はわたしの返事を待っていた。
再び、時が止まる。
答えたいけど、まるで吹雪のなかに立ちすくんでいるかのように、唇が凍りつく。
川島君と別れたあの日から、彼への想いは無理矢理凍らせてしまって、もう二度と溶かすことはないと思っていた。
確かにあの日、わたしは約束の海へ行った。
だけど、川島君には会えなかった。
海に降る雪は虚しく、わたしが想像していたみたいに、綺麗じゃなかった。
あの日、川島君も近くに来てくれていたっていうのに、結局ふたりは出会えなかった。
ほんの少しのずれが、大きなすれ違いを生む。
海に降る雪も、ほんの少し、降る場所がずれていれば、地上で降り積もることができたのに、はるばる空から降りてきた意味もなく、虚しく波間に散ってしまう。
運命なんて、そんなもの。
わたしと川島君とのあいだにできた『ずれ』は、もう二度と繕うことはできないと、思っていた。
「吹っ切ることができたよ」
ため息のように、川島君はつぶやいた。
「え?」
「…恋人同士の約束って、確かに虚しいな」
「…」
「その時まで、心のどこかでぼくはまた、君と運命の再会ができると思っていた」
「…」
「未練。だったんだな。あの雪の降る日に、一日中、君が来るのを待っていたなんて」
「…」
「ぼくが知ってる弥生さんなら、きっと来てくれると思っていた。でも、君は来なかった」
「…」
「それで思い知ったよ。もう、終わったんだって」
「…」
どんなに固く契ってみても、別れてしまえば、そんなものはみんな、なかったことになってしまう」
「…」
「春、卒業したらすぐ、ぼくは東京に行くよ」
「…」
「星川先生のところで、正式に雇ってもらえることになった。東京で、カメラマンになるよ」
「…」
「ぼくももう、未練も執着も捨てて、東京で頑張るから。弥生さんも小説家目指して、頑張れよ。
道は違ってしまったけど、ずっと応援してるから」
「…」
「じゃ…」
「…」
「さようなら」
川島君の唇が、小さく五つの言葉を形づくり、彼はクルリと背中を向けた。
すがりつきたいほど、愛おしい背中。
だんだん遠ざかる。
なのに、わたしはやっぱり、立ちすくんで声が出ないままだった。
『さつき… いいの?』
不意に、みっこの声が聞こえたような気がした。
つづく
ふたりの距離が、しだいに縮まっていく。
だけど川島君は、わたしまであと数歩の所で、立ち止まった。
「弥生さん。久しぶり」
感情を顔に出さず、川島君は口を開いた。
『弥生さん』
もうずいぶん聞いていなかった、その呼びかけ。
今のふたりが他人であることを、暗に語っている。
この人から、そんな呼ばれ方をしたくなかった。
「川島君…」
わたしも話しかけたいんだけど、いったいなにを言えばいいのかわからなくて、彼の名前以上は言葉が続かなかった。
しばらくふたりはそうして、少し距離をおいたまま、黙って立ちすくんでいた。
立ち止まったわたしたちの回りを、たくさんの人が通り過ぎていく。
それは抗うことのできない、時の流れ。
だけど、わたしと川島君のあいだだけは、時を刻むことを止めているかのようだった。
やがて、意を決したように、川島君はわたしをまっすぐ見つめ、口を開いた。
「ひとつだけ、訊きたいことがある。12月はじめの初雪が降った日。ぼくはいつか、いっしょに海を見たリゾートホテルに行った。弥生さんは来たか?」
「…」
「9月に約束しただろ。
『12月になって、雪が降ったら、そのリゾートホテルに行こう』って。
弥生さんはもう忘れてたか?」
「…」
「…」
川島君はわたしの返事を待っていた。
再び、時が止まる。
答えたいけど、まるで吹雪のなかに立ちすくんでいるかのように、唇が凍りつく。
川島君と別れたあの日から、彼への想いは無理矢理凍らせてしまって、もう二度と溶かすことはないと思っていた。
確かにあの日、わたしは約束の海へ行った。
だけど、川島君には会えなかった。
海に降る雪は虚しく、わたしが想像していたみたいに、綺麗じゃなかった。
あの日、川島君も近くに来てくれていたっていうのに、結局ふたりは出会えなかった。
ほんの少しのずれが、大きなすれ違いを生む。
海に降る雪も、ほんの少し、降る場所がずれていれば、地上で降り積もることができたのに、はるばる空から降りてきた意味もなく、虚しく波間に散ってしまう。
運命なんて、そんなもの。
わたしと川島君とのあいだにできた『ずれ』は、もう二度と繕うことはできないと、思っていた。
「吹っ切ることができたよ」
ため息のように、川島君はつぶやいた。
「え?」
「…恋人同士の約束って、確かに虚しいな」
「…」
「その時まで、心のどこかでぼくはまた、君と運命の再会ができると思っていた」
「…」
「未練。だったんだな。あの雪の降る日に、一日中、君が来るのを待っていたなんて」
「…」
「ぼくが知ってる弥生さんなら、きっと来てくれると思っていた。でも、君は来なかった」
「…」
「それで思い知ったよ。もう、終わったんだって」
「…」
どんなに固く契ってみても、別れてしまえば、そんなものはみんな、なかったことになってしまう」
「…」
「春、卒業したらすぐ、ぼくは東京に行くよ」
「…」
「星川先生のところで、正式に雇ってもらえることになった。東京で、カメラマンになるよ」
「…」
「ぼくももう、未練も執着も捨てて、東京で頑張るから。弥生さんも小説家目指して、頑張れよ。
道は違ってしまったけど、ずっと応援してるから」
「…」
「じゃ…」
「…」
「さようなら」
川島君の唇が、小さく五つの言葉を形づくり、彼はクルリと背中を向けた。
すがりつきたいほど、愛おしい背中。
だんだん遠ざかる。
なのに、わたしはやっぱり、立ちすくんで声が出ないままだった。
『さつき… いいの?』
不意に、みっこの声が聞こえたような気がした。
つづく
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