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プロローグ - 第2巻:ダンジョンの影 Pt.1
第30章 試練その三──触れること
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階段を下りきった先――
そこには、すでに開かれた扉が待ち構えていた。
扉の向こうに広がるのは、終わりの見えない長い回廊。
アリニアとヴェイルは視線を交わし、無言のうちに頷いてから、その境界を越えた。
数メートル進んだところで、ふたりの足が自然と止まる。
五感のすべてが、異変を探ろうと働き始めていた。
その廊下は、広く、整然としており……妙に静かだった。
完璧なまでに積み上げられたベージュ色の煉瓦。
等間隔に設置された松明が、優しく安定した光を投げかけている。
だが、あまりにも整っている。
その均整さが、逆に不気味だった。
天井は異様なほど高く、まるで人間には不釣り合いな構造。
まるで、この空間はもっと大きな“何か”のために作られたかのような、圧迫感すら感じさせた。
床もまた、歪み一つない煉瓦敷き。
しかし、歩みを進めるうちに、ある“違和感”が姿を現す。
遠くに――床の一部が、盛り上がっていた。
無機質な均一さを破るように、いくつかの床板が不規則に突き出している。
そして廊下の最奥。
その理由は、すぐに理解できた。
そこに立っていたのは、巨大な石像だった。
光沢のある灰色の石で造られたその像は、無数のヒビを刻んでおり、まるで時を超えて立ち尽くす古びた鎧のよう。
その姿は人型ではあるが、あまりにも巨大で、異形。
手には――奇妙な形状の槍。
槍の先端は尖っておらず、代わりにトゲだらけの球体が取り付けられていた。
しかもその接合部には、まるで意味を持つような複雑な模様が刻まれている。
「こんな場所に……こんな目立つ像。飾りにしては、できすぎてる」
アリニアが警戒心を滲ませながらつぶやく。
ふたりは慎重に歩を進める。
目は常に周囲を探り、わずかな異変すら見逃さないように。
「今のところは、何も……でも、すごく嫌な感じがする」
ヴェイルが低くつぶやいた。
「とにかく進んで。足元の床板に注意して。ああなってるのは、絶対に意味がある」
アリニアの声は冷静だったが、その目は一瞬たりとも気を抜いていなかった。
彼らは問題なく、その突き出した床板へと到達する。
だが、あまりにも“何も起きない”という事実が、逆に不安を煽る。
その床板には、見たことのない不思議な文様――
ルーンのような記号が刻まれていた。
《……この模様。どこかで見たような……でも、思い出せない……》
ヴェイルは立ち止まり、困惑のまま床を見つめる。
そのとき、アリニアが壁に目を留めた。
同じ模様が、壁にも刻まれていたのだ。
それは、廊下全体をなぞるように連なっていた。
「偶然じゃない。これらは、床板か……あの像に関係してるはず」
アリニアが断言する。
彼女は一つの床板に膝をつき、文様を指先でなぞる。
感触を確かめるように、慎重に。
意味を、解読しようと――。
「気をつけて、アリニア……何か起動しちゃったら……」
ヴェイルが低く囁いた。
「わかってる、ちびオオカミ。少し黙ってて」
アリニアは静かに返す。
その声に張りつめた空気が混じり、周囲の沈黙をより重くした。
松明の炎が壁に影を揺らし、浮かび上がる紋様と隆起した床板が、不気味な静寂を強調していた。
「……この記号たち、つながってる気がする。たぶん……」
ヴェイルが呟きながら、像の方へ視線を移す。
その表情は、疑念から確信へと変わり始めていた。
「絶対、あの像と関係ある。床板も……全部、計算されてる」
決意をにじませた声。
アリニアは膝をついたまま、もう一つの床板に手を伸ばす。
指先に伝わる感触――微かな“違和感”。
彼女は少しだけ顔を傾け、ヴェイルに視線を送る。
「これは……装飾じゃない。おそらく、順番通りに“起動”しなきゃいけない仕組み」
その言葉には確信と警戒が入り混じっていた。
「……もし順番を間違えたら?」
ヴェイルの問いには、緊張と警戒がにじんでいた。
アリニアの声は低く、そして冷ややかだった。
「たぶん、あの像が動き出す。……それも、好戦的にね」
彼女はゆっくりと立ち上がり、壁と床を見渡す。
細部まで観察しながら、視線の先ではヴェイルが像の持つ武器を凝視していた。
「だから、間違えない方がいいわね」
アリニアはそう言って、小さく笑った。
その笑みは軽やかだったが、その奥には鋭い集中が滲んでいた。
彼女の視線が、壁の左側に刻まれた最初の記号に止まる。
指先でその輪郭をなぞり――
次に、同じ模様が刻まれた右側の浮き出た床板に目を移す。
「本当に……合ってるのか?」
ヴェイルが疑わしげな声を出す。
アリニアは眉をひとつ上げ、からかうように応える。
「じゃあ、ちびオオカミ。あなたにもっといい案でもあるの?」
ヴェイルは唇を噛み、何も言えなかった。
彼女が正しい――そう思いながらも、心のどこかで最悪の事態を想像してしまう。
《……うまくいけばいい。でも、間違えたら……?》
その問いが、ヴェイルの胸の中を巡る。
その間に、アリニアは静かに足を持ち上げ――
記号の刻まれた床板の上に、慎重に乗せた。
力を入れすぎないよう、かといって軽すぎないように。
絶妙な圧をかける。
機械の作動音もなければ、振動もない。
ただ、沈黙。
「……どう? 何か起きた?」
ヴェイルが不安そうに尋ねる。
「……まだ、わからない」
アリニアの返答は、やや素っ気なく。
だがその目は、奥の像から一瞬たりとも離れていなかった。
「反応がないのは……成功の証拠なのか、それとも……失敗の前兆なのか……」
彼女の脳裏に、不吉な疑問が浮かぶ。
そして次の行動を決めるには――わずかな確信と、大きな賭けが必要だった。
ふたりの視線が、自然と像へと向かう。
だが――
それはまるで永遠に閉じ込められたかのように、微動だにしなかった。
アリニアは再び歩を進める。
壁に刻まれた記号を辿りながら、対応する床板をひとつずつ確認していく。
一歩、一歩。
彼女は慎重に足を運び、決して焦らないように注意した。
ヴェイルはそのすぐ後ろを追う。
だが、彼女が踏んだ床には決して触れないよう、細心の注意を払っていた。
「もう一度踏んだら……全部リセットされるかも。いや、それ以上に――何か起きるかも」
ヴェイルの小さな呟きが、緊張をさらに深める。
像は依然として沈黙したままだったが、それが逆に不安を煽ってくる。
空気が、重い。
一歩ごとに、胸が締めつけられていく。
永遠にも思えるほどの時間をかけ――
ようやく彼らは、部屋の最奥へとたどり着いた。
そこには――
巨大な扉が立ちはだかっていた。
その表面には、これまで見てきたものと同じ記号が、複雑な模様となって刻まれている。
「……ついた。やっと……」
ヴェイルが安堵の息を漏らす。
その瞬間、ふたり同時に深く呼吸を吐き出した。
アリニアがヴェイルに振り向き、にやりと笑う。
「ね? 思ったより簡単だったじゃない」
肩の力を抜いたような口調だった。
だが、ヴェイルはすぐには返事をしなかった。
目を細め、後ろの像をじっと見つめる。
「……簡単すぎる。なんで、動かなかったんだ?」
その声には疑念が込められていた。
明らかな異物――なのに、反応がない。
それが逆に、不気味だった。
「……ともかく、ここに長居は禁物だ」
ヴェイルの言葉に、アリニアも無言で頷く。
その瞳には、次なる試練を察した覚悟が宿っていた。
ふたりは巨大な扉の前に立つ。
その視線は、目の前の目的と――背後に鎮座する像の間を行き来していた。
アリニアは静かに手を伸ばし、冷たい取っ手に触れる。
そして――
「……やっぱり、そう簡単にはいかないわよね」
取っ手は動かない。
まるで石のように固く、びくともしない。
苛立ちを隠しきれず、アリニアが小さく毒づいた。
「ちびオオカミ。最初の扉を開けたときみたいに、やってみて」
焦りを抑えつつ、どこか頼るような口調だった。
ヴェイルは無言で頷き、扉に手をかける。
力を込めるが――
……動かない。
もう一度。
さらに力を込めて押す。
それでも、扉は一切の反応を見せなかった。
「……どうして……開かない?」
困惑を隠せないまま、ヴェイルは一歩後ろへ下がる。
「だめだ。びくともしない」
静かな語調だったが、その表情には焦りが滲んでいた。
アリニアは扉の上部に目をやる。
そこにも、複雑な模様――見慣れた記号が無数に彫られていた。
だが、そこから導き出される答えは――まだ、ない。
「……順番、間違ってなかったはず。なのに……なぜ開かないのよ」
アリニアの声には、苛立ちが混じっていた。
彼女はくるりと振り返る。
心臓がわずかに早鐘を打つ――像が動いていたのではないかという不安に、胸がざわめいた。
だが――
石像は、変わらず沈黙の中にあった。
ただそこに存在するだけの“何か”。
まるで、すべてを見下ろす守護者のように。
「……やっぱり、関係してる。でなきゃ、ここにある理由がない」
アリニアは警戒を保ったまま、静かに像へと近づく。
土台部分をはじめ、像の周囲を細かく調べていく。
だが――
どこにも、仕掛けや異常は見当たらなかった。
ただの、時間に削られた無骨な石。
一方その頃――
ヴェイルは壁に刻まれた彫刻に目を向けていた。
そこに描かれていたのは、これまでのルーンとは異なる“絵”。
模様ではなく――“物語”のような、何かの記録。
「これは……ランダムじゃない。意味がある」
小さく呟きながら、アリニアを呼ぶ。
「これ、見てくれ。何かのヒントに見えないか?」
彼女はヴェイルの隣に立ち、壁画を見つめる。
その視線は鋭く、読み取ろうと集中していたが――
やがて、首を振る。
「……指示っぽいけど、意味までは分からない。言語でも、魔術式でもないし……」
肩をすくめながらも、その視線には確かな焦りが滲んでいた。
ふたりは無言のまま視線を交わす。
そこにあるのは、同じ“行き詰まり”という苛立ち。
「……この扉をどうやって開ければ……。上の記号、壁の模様……何か、見落としてる……!」
アリニアが低く唸るように呟き、立ち上がる。
「……最初に戻ってみよう。何か、取りこぼしたかも」
彼女の決意に、ヴェイルは黙って頷いた。
ふたりは足元に注意を払いながら、再び来た道を引き返す。
だが――
始点に戻っても、何も変わっていなかった。
記号も、床板も――沈黙のまま。
まるで最初から、何も起きていなかったかのように。
アリニアはその場に座り込み、額に手を当てた。
「……何が間違ってたの? 順番は合ってた。全部、慎重にやったのに……」
その声には、苛立ちだけでなく、疲労と迷いが入り混じっていた。
ヴェイルは、黙って隣に立っていた。
視線は廊下を遠く見つめ、どこかに突破口があるはずだと信じていた。
「……絶対、何かある。ここで終わるはずがない」
その言葉は、自分自身に言い聞かせるようでもあった。
そのとき――
壁に刻まれた絵の中に、ヴェイルの目が引き寄せられる。
そこに描かれていたのは、ひとつの“姿”。
浮き出た床板に片足を乗せた人物――
その床の周囲からは、細い線が広がり――
すべては像へと収束していた。
「……変だな。なんでこんな細部を強調してる?」
ヴェイルの視線は、壁画の一部に釘付けだった。
「アリニアも床を踏んだけど、何も起きなかったのに……」
そう呟きながら、彼は指でその絵を指し示す。
「ここ、見てみろ。お前はどう思う?」
アリニアは近づき、身をかがめて彫刻を見つめる。
視線が止まったのは――描かれた“足”。
――裸足の足が、床板に直接乗っている。
眉をわずかにひそめ、彼女は考え込む。
「裸足……それが鍵かもしれない。でも、どうして?」
呟きながら立ち上がり、腕を組んで床を見つめる。
「……直接触れなきゃ、反応しない? でも……手で触っても、何も起きなかったのに」
疑念と共に浮かぶ仮説。
ヴェイルはしばらく無言だった。
彼女の推察を飲み込み、脳裏で慎重に組み立てていく。
「直接接触と重さ……それが条件なら、今まで反応がなかったのも納得はできる。……でも、単純すぎるな」
そう言いながら、彼は肩をすくめた。
そして、迷いを断ち切るように――
彼は腰を屈め、ゆっくりとブーツを脱ぎ始める。
その動きに、アリニアが静かに問いかけた。
「……ちびオオカミ、本気でやるの? もしそれで何か変なのが起動したら――取り返しがつかないかも」
その声は冷静で、だがわずかな緊張を含んでいた。
ヴェイルはゆっくりと頷いた。
「この迷宮、全部が歪んでる。なら……鍵も、そういうもんさ」
どこか達観したような口ぶりだった。
アリニアは溜息をつき、腕を組み直す。
像に視線を送ると、それは今も沈黙を保ったままだった。
「……わかった。でも、外れだったらその石の化け物を起こすことになる」
あくまで現実的に、淡々と。
そして――
ヴェイルは、裸足のまま床板の上に足を乗せた。
――カチッ。
乾いた音が、静寂を裂く。
次の瞬間――
床板から淡い光が浮かび上がった。
それは生き物のように広がり、床を這い、壁を這い――
まるで“命”が吹き込まれたかのように、空間全体に伝播していく。
ヴェイルは立ち上がり、周囲を見渡す。
アリニアの視線は、像から決して外れなかった。
「……もしこれが正解なら、なんで……こんなに胸騒ぎがするのよ」
その言葉のすぐ後――
ゴウン……ゴウン……。
低く響く、石の内部からのような重々しい振動。
機構が目を覚ましたような音。
光の筋は震えながら、像へと集まっていく。
壁から、床から――まるで脈打つ血管のように。
そして――
像が、わずかに――動いた。
そこには、すでに開かれた扉が待ち構えていた。
扉の向こうに広がるのは、終わりの見えない長い回廊。
アリニアとヴェイルは視線を交わし、無言のうちに頷いてから、その境界を越えた。
数メートル進んだところで、ふたりの足が自然と止まる。
五感のすべてが、異変を探ろうと働き始めていた。
その廊下は、広く、整然としており……妙に静かだった。
完璧なまでに積み上げられたベージュ色の煉瓦。
等間隔に設置された松明が、優しく安定した光を投げかけている。
だが、あまりにも整っている。
その均整さが、逆に不気味だった。
天井は異様なほど高く、まるで人間には不釣り合いな構造。
まるで、この空間はもっと大きな“何か”のために作られたかのような、圧迫感すら感じさせた。
床もまた、歪み一つない煉瓦敷き。
しかし、歩みを進めるうちに、ある“違和感”が姿を現す。
遠くに――床の一部が、盛り上がっていた。
無機質な均一さを破るように、いくつかの床板が不規則に突き出している。
そして廊下の最奥。
その理由は、すぐに理解できた。
そこに立っていたのは、巨大な石像だった。
光沢のある灰色の石で造られたその像は、無数のヒビを刻んでおり、まるで時を超えて立ち尽くす古びた鎧のよう。
その姿は人型ではあるが、あまりにも巨大で、異形。
手には――奇妙な形状の槍。
槍の先端は尖っておらず、代わりにトゲだらけの球体が取り付けられていた。
しかもその接合部には、まるで意味を持つような複雑な模様が刻まれている。
「こんな場所に……こんな目立つ像。飾りにしては、できすぎてる」
アリニアが警戒心を滲ませながらつぶやく。
ふたりは慎重に歩を進める。
目は常に周囲を探り、わずかな異変すら見逃さないように。
「今のところは、何も……でも、すごく嫌な感じがする」
ヴェイルが低くつぶやいた。
「とにかく進んで。足元の床板に注意して。ああなってるのは、絶対に意味がある」
アリニアの声は冷静だったが、その目は一瞬たりとも気を抜いていなかった。
彼らは問題なく、その突き出した床板へと到達する。
だが、あまりにも“何も起きない”という事実が、逆に不安を煽る。
その床板には、見たことのない不思議な文様――
ルーンのような記号が刻まれていた。
《……この模様。どこかで見たような……でも、思い出せない……》
ヴェイルは立ち止まり、困惑のまま床を見つめる。
そのとき、アリニアが壁に目を留めた。
同じ模様が、壁にも刻まれていたのだ。
それは、廊下全体をなぞるように連なっていた。
「偶然じゃない。これらは、床板か……あの像に関係してるはず」
アリニアが断言する。
彼女は一つの床板に膝をつき、文様を指先でなぞる。
感触を確かめるように、慎重に。
意味を、解読しようと――。
「気をつけて、アリニア……何か起動しちゃったら……」
ヴェイルが低く囁いた。
「わかってる、ちびオオカミ。少し黙ってて」
アリニアは静かに返す。
その声に張りつめた空気が混じり、周囲の沈黙をより重くした。
松明の炎が壁に影を揺らし、浮かび上がる紋様と隆起した床板が、不気味な静寂を強調していた。
「……この記号たち、つながってる気がする。たぶん……」
ヴェイルが呟きながら、像の方へ視線を移す。
その表情は、疑念から確信へと変わり始めていた。
「絶対、あの像と関係ある。床板も……全部、計算されてる」
決意をにじませた声。
アリニアは膝をついたまま、もう一つの床板に手を伸ばす。
指先に伝わる感触――微かな“違和感”。
彼女は少しだけ顔を傾け、ヴェイルに視線を送る。
「これは……装飾じゃない。おそらく、順番通りに“起動”しなきゃいけない仕組み」
その言葉には確信と警戒が入り混じっていた。
「……もし順番を間違えたら?」
ヴェイルの問いには、緊張と警戒がにじんでいた。
アリニアの声は低く、そして冷ややかだった。
「たぶん、あの像が動き出す。……それも、好戦的にね」
彼女はゆっくりと立ち上がり、壁と床を見渡す。
細部まで観察しながら、視線の先ではヴェイルが像の持つ武器を凝視していた。
「だから、間違えない方がいいわね」
アリニアはそう言って、小さく笑った。
その笑みは軽やかだったが、その奥には鋭い集中が滲んでいた。
彼女の視線が、壁の左側に刻まれた最初の記号に止まる。
指先でその輪郭をなぞり――
次に、同じ模様が刻まれた右側の浮き出た床板に目を移す。
「本当に……合ってるのか?」
ヴェイルが疑わしげな声を出す。
アリニアは眉をひとつ上げ、からかうように応える。
「じゃあ、ちびオオカミ。あなたにもっといい案でもあるの?」
ヴェイルは唇を噛み、何も言えなかった。
彼女が正しい――そう思いながらも、心のどこかで最悪の事態を想像してしまう。
《……うまくいけばいい。でも、間違えたら……?》
その問いが、ヴェイルの胸の中を巡る。
その間に、アリニアは静かに足を持ち上げ――
記号の刻まれた床板の上に、慎重に乗せた。
力を入れすぎないよう、かといって軽すぎないように。
絶妙な圧をかける。
機械の作動音もなければ、振動もない。
ただ、沈黙。
「……どう? 何か起きた?」
ヴェイルが不安そうに尋ねる。
「……まだ、わからない」
アリニアの返答は、やや素っ気なく。
だがその目は、奥の像から一瞬たりとも離れていなかった。
「反応がないのは……成功の証拠なのか、それとも……失敗の前兆なのか……」
彼女の脳裏に、不吉な疑問が浮かぶ。
そして次の行動を決めるには――わずかな確信と、大きな賭けが必要だった。
ふたりの視線が、自然と像へと向かう。
だが――
それはまるで永遠に閉じ込められたかのように、微動だにしなかった。
アリニアは再び歩を進める。
壁に刻まれた記号を辿りながら、対応する床板をひとつずつ確認していく。
一歩、一歩。
彼女は慎重に足を運び、決して焦らないように注意した。
ヴェイルはそのすぐ後ろを追う。
だが、彼女が踏んだ床には決して触れないよう、細心の注意を払っていた。
「もう一度踏んだら……全部リセットされるかも。いや、それ以上に――何か起きるかも」
ヴェイルの小さな呟きが、緊張をさらに深める。
像は依然として沈黙したままだったが、それが逆に不安を煽ってくる。
空気が、重い。
一歩ごとに、胸が締めつけられていく。
永遠にも思えるほどの時間をかけ――
ようやく彼らは、部屋の最奥へとたどり着いた。
そこには――
巨大な扉が立ちはだかっていた。
その表面には、これまで見てきたものと同じ記号が、複雑な模様となって刻まれている。
「……ついた。やっと……」
ヴェイルが安堵の息を漏らす。
その瞬間、ふたり同時に深く呼吸を吐き出した。
アリニアがヴェイルに振り向き、にやりと笑う。
「ね? 思ったより簡単だったじゃない」
肩の力を抜いたような口調だった。
だが、ヴェイルはすぐには返事をしなかった。
目を細め、後ろの像をじっと見つめる。
「……簡単すぎる。なんで、動かなかったんだ?」
その声には疑念が込められていた。
明らかな異物――なのに、反応がない。
それが逆に、不気味だった。
「……ともかく、ここに長居は禁物だ」
ヴェイルの言葉に、アリニアも無言で頷く。
その瞳には、次なる試練を察した覚悟が宿っていた。
ふたりは巨大な扉の前に立つ。
その視線は、目の前の目的と――背後に鎮座する像の間を行き来していた。
アリニアは静かに手を伸ばし、冷たい取っ手に触れる。
そして――
「……やっぱり、そう簡単にはいかないわよね」
取っ手は動かない。
まるで石のように固く、びくともしない。
苛立ちを隠しきれず、アリニアが小さく毒づいた。
「ちびオオカミ。最初の扉を開けたときみたいに、やってみて」
焦りを抑えつつ、どこか頼るような口調だった。
ヴェイルは無言で頷き、扉に手をかける。
力を込めるが――
……動かない。
もう一度。
さらに力を込めて押す。
それでも、扉は一切の反応を見せなかった。
「……どうして……開かない?」
困惑を隠せないまま、ヴェイルは一歩後ろへ下がる。
「だめだ。びくともしない」
静かな語調だったが、その表情には焦りが滲んでいた。
アリニアは扉の上部に目をやる。
そこにも、複雑な模様――見慣れた記号が無数に彫られていた。
だが、そこから導き出される答えは――まだ、ない。
「……順番、間違ってなかったはず。なのに……なぜ開かないのよ」
アリニアの声には、苛立ちが混じっていた。
彼女はくるりと振り返る。
心臓がわずかに早鐘を打つ――像が動いていたのではないかという不安に、胸がざわめいた。
だが――
石像は、変わらず沈黙の中にあった。
ただそこに存在するだけの“何か”。
まるで、すべてを見下ろす守護者のように。
「……やっぱり、関係してる。でなきゃ、ここにある理由がない」
アリニアは警戒を保ったまま、静かに像へと近づく。
土台部分をはじめ、像の周囲を細かく調べていく。
だが――
どこにも、仕掛けや異常は見当たらなかった。
ただの、時間に削られた無骨な石。
一方その頃――
ヴェイルは壁に刻まれた彫刻に目を向けていた。
そこに描かれていたのは、これまでのルーンとは異なる“絵”。
模様ではなく――“物語”のような、何かの記録。
「これは……ランダムじゃない。意味がある」
小さく呟きながら、アリニアを呼ぶ。
「これ、見てくれ。何かのヒントに見えないか?」
彼女はヴェイルの隣に立ち、壁画を見つめる。
その視線は鋭く、読み取ろうと集中していたが――
やがて、首を振る。
「……指示っぽいけど、意味までは分からない。言語でも、魔術式でもないし……」
肩をすくめながらも、その視線には確かな焦りが滲んでいた。
ふたりは無言のまま視線を交わす。
そこにあるのは、同じ“行き詰まり”という苛立ち。
「……この扉をどうやって開ければ……。上の記号、壁の模様……何か、見落としてる……!」
アリニアが低く唸るように呟き、立ち上がる。
「……最初に戻ってみよう。何か、取りこぼしたかも」
彼女の決意に、ヴェイルは黙って頷いた。
ふたりは足元に注意を払いながら、再び来た道を引き返す。
だが――
始点に戻っても、何も変わっていなかった。
記号も、床板も――沈黙のまま。
まるで最初から、何も起きていなかったかのように。
アリニアはその場に座り込み、額に手を当てた。
「……何が間違ってたの? 順番は合ってた。全部、慎重にやったのに……」
その声には、苛立ちだけでなく、疲労と迷いが入り混じっていた。
ヴェイルは、黙って隣に立っていた。
視線は廊下を遠く見つめ、どこかに突破口があるはずだと信じていた。
「……絶対、何かある。ここで終わるはずがない」
その言葉は、自分自身に言い聞かせるようでもあった。
そのとき――
壁に刻まれた絵の中に、ヴェイルの目が引き寄せられる。
そこに描かれていたのは、ひとつの“姿”。
浮き出た床板に片足を乗せた人物――
その床の周囲からは、細い線が広がり――
すべては像へと収束していた。
「……変だな。なんでこんな細部を強調してる?」
ヴェイルの視線は、壁画の一部に釘付けだった。
「アリニアも床を踏んだけど、何も起きなかったのに……」
そう呟きながら、彼は指でその絵を指し示す。
「ここ、見てみろ。お前はどう思う?」
アリニアは近づき、身をかがめて彫刻を見つめる。
視線が止まったのは――描かれた“足”。
――裸足の足が、床板に直接乗っている。
眉をわずかにひそめ、彼女は考え込む。
「裸足……それが鍵かもしれない。でも、どうして?」
呟きながら立ち上がり、腕を組んで床を見つめる。
「……直接触れなきゃ、反応しない? でも……手で触っても、何も起きなかったのに」
疑念と共に浮かぶ仮説。
ヴェイルはしばらく無言だった。
彼女の推察を飲み込み、脳裏で慎重に組み立てていく。
「直接接触と重さ……それが条件なら、今まで反応がなかったのも納得はできる。……でも、単純すぎるな」
そう言いながら、彼は肩をすくめた。
そして、迷いを断ち切るように――
彼は腰を屈め、ゆっくりとブーツを脱ぎ始める。
その動きに、アリニアが静かに問いかけた。
「……ちびオオカミ、本気でやるの? もしそれで何か変なのが起動したら――取り返しがつかないかも」
その声は冷静で、だがわずかな緊張を含んでいた。
ヴェイルはゆっくりと頷いた。
「この迷宮、全部が歪んでる。なら……鍵も、そういうもんさ」
どこか達観したような口ぶりだった。
アリニアは溜息をつき、腕を組み直す。
像に視線を送ると、それは今も沈黙を保ったままだった。
「……わかった。でも、外れだったらその石の化け物を起こすことになる」
あくまで現実的に、淡々と。
そして――
ヴェイルは、裸足のまま床板の上に足を乗せた。
――カチッ。
乾いた音が、静寂を裂く。
次の瞬間――
床板から淡い光が浮かび上がった。
それは生き物のように広がり、床を這い、壁を這い――
まるで“命”が吹き込まれたかのように、空間全体に伝播していく。
ヴェイルは立ち上がり、周囲を見渡す。
アリニアの視線は、像から決して外れなかった。
「……もしこれが正解なら、なんで……こんなに胸騒ぎがするのよ」
その言葉のすぐ後――
ゴウン……ゴウン……。
低く響く、石の内部からのような重々しい振動。
機構が目を覚ましたような音。
光の筋は震えながら、像へと集まっていく。
壁から、床から――まるで脈打つ血管のように。
そして――
像が、わずかに――動いた。
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