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プロローグ - 第2巻:ダンジョンの影 Pt.1
第37章:痛みを伴う冷たさ
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アリニアは、ヴェイルの肩にそっとマントをかけ直した。
少しでも彼の体温を逃さぬよう、慎重に布を整える。
彼女の吐息は、白く、儚い雲となって冷たい空気に溶けていく。
空気は、すでに常識を超えるほどの寒さだった。
真っ白な雪が、静かに森を覆っていた。
それは、まるでヴェイルのマナが爆発した直後、ダンジョンそのものが凍りついたかのような光景だった。
「こんなの……普通じゃない……。このダンジョン、まるで彼に反応してるみたい……でも、どうして……?」
アリニアの呟きは、焚き火の小さな炎にかき消されそうなほど微かだった。
彼女は膝をつき、辛うじて集めた凍っていない枝を使って火を灯していた。
パチパチと静かに燃えるその音だけが、この静寂の空間に命を与えているようだった。
ヴェイルを見る。
短い呼吸、疲労に満ちた顔、動けば砕けそうな体。
彼女の胸を、名も知らぬ不安が満たしていく。
「……彼は、いったい何者なの……? どうして、こんな力を……。私には、何も……教えてくれなかったのに……」
今まで積み重ねてきた日々が、当たり前に思っていたことが、音もなく崩れ去っていく感覚。
ヴェイルの寝顔を見つめたあと、アリニアは視線をそらした。
胸の奥に差し込む距離感が、彼女を戸惑わせていた。
終わりのない空間――
闇だけが支配するその場所に、ヴェイルは横たわっていた。
彼の瞳は、どこまでも続く闇をただ見つめていた。
空気は重く、呼吸をすることさえ困難に感じる。
どこにも、光はなかった。
音も、感覚も、存在すら曖昧になるような、完全なる虚無。
「アリニア……アリニアが……俺を待ってる……。立たなきゃ……」
かすれるような声が、闇の中に消えていく。
想いは確かにそこにあるのに、体は動かなかった。
指を動かそうとする。腕を。だが、まるで全身が鎖で縛られているように、何一つ応えてくれなかった。
絶望と焦燥が、冷たい波となって彼を飲み込んでいく。
記憶が、断片的に蘇る。
ゆっくりと迫ってくるシルヴォイド。
必死に戦うアリニア。
――そして、その背中をただ見つめていた、自分。
「……またかよ……俺は、また……足手まといでしかないのか……。どうすれば……どうすれば、変われるんだ……」
その言葉に、虚無が反応するように揺らめいた。
暗闇が息を潜め、まるでヴェイルの心の奥を覗き込んでいるかのようだった。
思考すら奪ってくるこの空間に、彼はゆっくりと沈み込んでいく――
――そのとき。
かすかな光が、闇の中に浮かんだ。
ろうそくの炎のように頼りないが、確かにそこにある。
ゆらゆらと揺れるその光は、次第に温もりを帯び始める。
まるで、彼の凍りついた心に語りかけるかのように。
そして、そのぬくもりが、ゆっくりと彼の身体を包み込んでいく。
冷たさに蝕まれていた感覚が、少しずつ戻ってくる。
「……なんだ……このあたたかさは……」
それは、再び歩き出すための、わずかな灯だった。
まぶたの裏を突き破るような光が、次第に強さを増していく。
ヴェイルは思わず目を細めた。
心臓の鼓動が早まり、胸の奥で何かがざわめく。
ようやく目を開けると――
そこには、見覚えのある光景が広がっていた。
雪を纏った巨大な木々の枝が、頭上に広がっている。
淡く揺れる焚き火の光が、冷え切った空気をほんのりと温めていた。
アリニアが、すぐ傍らに座っていた。
静かに、炎を見つめながら何かを調理している。
その横顔は穏やかでありながら、どこか沈んだ影を宿していた。
周囲は、不思議なほど静かだった。
刺すような冷気の中にあって、それでもどこか安らぎすら感じさせる空気が流れていた。
「……ん……」
ヴェイルは目元をこすり、意識の霧を振り払おうとした。
体を起こそうとした瞬間――
「……ッ……!」
鋭い痛みが、全身を駆け抜ける。
筋肉が悲鳴を上げ、関節という関節が拒絶するように動きを拒んだ。
思わず、呻き声が漏れた。
その音に反応するように、アリニアが顔を上げた。
耳がぴくりと動き、目が彼を捉える。
その視線には、安堵と――戸惑いの色が入り混じっていた。
「やっと……目を覚ましたのね」
アリニアは静かに言った。
その声には、ほっとしたような温もりがあった。
ヴェイルはゆっくりと息を吸い込んだ。
雪に覆われた小さな空き地、凍りついた小川、そして純白の世界――
これは……夢なんかじゃない。
「……何が、起きたんだ……?」
かすれた声で問いかける。
アリニアはしばらく沈黙したまま、炎をじっと見つめていた。
やがて、その唇がわずかに動き、呟く。
「――本当のあなたは、誰なの……ちびオオカミ……?」
「……え?」
ヴェイルは目を見開いた。
その声、その言葉の響きに、何かが違うと感じた。
彼女の視線は彼を見ていなかった。
まるで――自分の心に問いかけるような、そんな瞳。
すぐに、彼女は首を振り、目をそらした。
「……なんでもないわ」
そう言ったが、彼にはわかっていた。
それは――「なんでもない」では済まされない空気だった。
額に手を当てる。
じんと痛む頭を押さえながら、必死に思い出そうとする。
シルヴォイド。
戦い。
アリニアの叫び――
そして、その先は――真っ白な、空白。
「……なにも、思い出せない……」
そう呟いた自分の声が、やけに遠く聞こえた。
身体を無理に起こそうとするたびに、全身から抗議のような痛みが走る。
それでも彼は問いを繰り返した。
「……何が、あったんだ……?」
再び尋ねたその声に、アリニアは迷いを滲ませながらも顔を上げた。
彼女の視線は一度森の奥へと泳ぎ、そして再び、ヴェイルに向けられる。
その瞳の奥に――確かな“恐れ”と、“確信”が宿っていた。
「全部……全部、あなたのせいよ、ちびオオカミ」
その言葉は、静かに――けれど鋭く、彼の胸を突いた。
ヴェイルの動きが止まる。
目を見開き、震える視線で周囲を見渡した。
木々の枝。
地面に積もった雪。
凍りついた空気に反射する、細やかな霜のきらめき――
彼は、首を振った。
信じられない、と言うように。
「……俺が? そんな……わけ、ない……」
かすれた言葉が、唇からこぼれた。
けれど、アリニアの瞳は、彼を真っ直ぐに見つめていた。
アリニアは静かにうなずいた。
その瞳は、彼らを取り囲む白い世界をじっと見つめている。
「そうよ……あなたは、覚えていないのね?」
低く、けれど揺るぎない声で、アリニアは確認するように言った。
ヴェイルはすぐに答えられなかった。
戸惑いが表情に浮かび、彼はゆっくりと震える手を見下ろした。
まるで、そこに何か――答えがあるかのように。
《本人ですら記憶にないってことは……こんな力、一体どれほど危険なの……?》
アリニアの胸に、不安が静かに渦巻く。
彼女は再び目を逸らし、炎の奥に視線を落とした。
焚き火の揺らめきが、彼女の瞳に淡く映る。
二人の間に、奇妙な沈黙が落ちる。
その静けさを破るように、アリニアが口を開いた。
「……どうやって、そんなことができたの? 水と風を融合させて、森全体を凍らせるなんて……そんなの、並大抵のマナ量じゃ無理よ。しかもあなた、普段は基本魔法を数回使っただけでヘトヘトになるのに」
その問いかけは、冷静さを保ちながらも――戸惑いに満ちていた。
ヴェイルは彼女の目を見つめ返す。
だが、そこに答えはなかった。
彼自身も理解していなかった。
「……僕も、わからない。そんな力があるなんて……自分でも知らなかった」
その声は、かすれ気味で、どこか遠くを見ているようだった。
彼は小さく頭を振る。
「……わかりたいよ、アリニア。僕自身も、何が起きたのか……知りたい」
彼の視線が、雪に覆われた地面に落ちる。
膝に添えた手は、怪我の痛みを忘れるほどに強く握りしめられていた。
「君が危険な目に遭ってるのを見て……悔しかった。何もできなかった自分が情けなかった。それで――突然、何もかもが真っ暗になって……その後は、何も覚えていないんだ」
ヴェイルの声は、低く、震えていた。
「動こうとした。でも、体が言うことを聞かなかった。まるで……誰かが僕を閉じ込めて、代わりに動いていたみたいに」
静かに、アリニアはその言葉を受け止めていた。
淡い青の瞳が、ゆらめく炎の中で揺れている。
その耳が、感情に反応するようにピクリと震えた。
ほんのりと頬が染まり、彼女は顔を背ける。
――それって、私のために……?
《どうして……どうして、私のことでそこまで……? そんなに深い関係でもないのに……私なんかのために……?》
心の奥に、柔らかな熱が広がっていく。
その温かさを打ち消すように、アリニアは息を吐いた。
体を起こし、背筋を伸ばして声を放つ。
「……とにかく、体を温めなさい。まだ進まなきゃならないんだから」
その声は、少しだけ強く。
けれど――そのすぐ後に。
「……ありがとう」
ほとんど聞き取れないほどの、微かなささやきが、唇から漏れた。
それは、確かに本心からの――感謝だった。
ヴェイルは、何も聞こえていないかのように、思考に沈んでいた。
けれど――
アリニアの声に滲んだその“本物の想い”は、ほんの一瞬、彼の表情をやわらげた。
だが、その笑みの奥。
彼女の瞳には、一瞬だけ鋭い光が宿った。
――何かがおかしい。
ここに来てから、ずっと胸に引っかかっていた疑問。
どうしてギルドは、こんな危険なダンジョンに彼女を送り込んだのか。
ここのレベルは明らかに常識外れだった。
偶然のはずがない。
彼女は黙ったまま、小さな鍋から湯気の立つ液体を二つのカップに注いだ。
そこから立ちのぼる香りは、ほんのりと甘く、どこか懐かしい。
キャラメルとバニラが混ざったようなその香りが、冷え切った空気の中で温かさを運んでくる。
アリニアは一つのカップをヴェイルに差し出した。
彼は少し戸惑いながらもそれを受け取り、眉をひそめた。
「……この匂い、あの“香りの部屋”にあった容器と同じじゃないか? 本当に飲めるのか……?」
怪訝そうに言うヴェイルに、アリニアは片眉を上げた。
そして――何も言わず、自分のカップに口をつけた。
ゆっくりと飲むその仕草は、まるでわざとらしいほどに満足げだった。
「冷たい状態で拾ったけど……熱に反応して、こうなるみたい。このダンジョンでは、“与えられたもの”をどう使うかを学ばなきゃいけないのよ」
淡々とした声だったが、その言葉には深い経験に裏打ちされた実感がこもっていた。
ヴェイルは一瞬、彼女の顔をじっと見つめ――そして、渋々一口飲んでみた。
「……意外と、悪くないな。甘いし……なんか、体の中がじんわり温まる」
彼は驚いたように呟いた。
全身に染み渡るようなその温もりが、消耗しきった体を少しずつ癒していく。
アリニアは、その反応をちらりと横目で見た。
唇の端に、ごくわずかな笑みが浮かぶ。
頭の片隅では、ギルドの不審な命令についての疑念が消えぬままだったが――
今だけは、目の前の静かなひとときを優先することにした。
二人は、言葉少なにそのカップを飲み干した。
炎の温もりと、飲み物の優しい甘さが、少しずつ心と身体の緊張をほどいていく。
アリニアは空になったカップを丁寧に片付けながら、ふとヴェイルに視線を送った。
「立てそう? ちびオオカミ」
その声は冷静だったが、その裏には確かな観察と気遣いが滲んでいた。
ヴェイルは小さく息を吐き、ゆっくりと足を動かしてみる。
脚の感覚はまだ鈍く、筋肉が悲鳴を上げたが――なんとか立ち上がることに成功する。
少しぐらつきながらも、彼は片眉を上げてニッと笑った。
「見た目よりは、頑丈だからさ」
アリニアはしばらく彼を見つめ――そして静かに頷いた。
その表情には、安堵と覚悟が混じっていた。
「よし。行くわよ。あと何階残ってるかわからないけど……これ以上、時間は無駄にできないから」
その声は、強く、確かだった。
二人はまた、前へと歩み出す。
雪の森を背にして――次なる試練へ。
アリニアが背中に荷を背負い直すのを、ヴェイルは黙って見送った。
彼は深く息を吸い、肩に残る疲労感を奥へと押し込む。
そして、その背中を追って歩き出した。
足元の草が、しっとりとした感触を取り戻しつつある。
白銀に染め上げられていた大地は、ヴェイルの魔力による凍結から少しずつ解放され、色彩を取り戻していた。
木々の合間を歩きながら、アリニアは周囲を見回した。
生気を取り戻す森の風景に、ふと口元をゆるめ――そして、からかうようにヴェイルへと視線を向けた。
「全部凍らせたわけじゃないみたいね」
その言葉は、冗談めいて軽やかだった。
ヴェイルは片眉を上げてから、わざとらしい不満顔を作った。
「次はもっと徹底的にやってみるよ」
乾いた口調で返すが、その声にはほんの少し笑みが混じっていた。
だが――
その軽口の余韻を断ち切るように、あの“光の球”が再び現れた。
ふわりと空中を舞い、二人の周囲を一周すると、ゆっくりと森の奥へと進み始める。
「また……あれか。……ついて来いってこと、なんだよな?」
ヴェイルは警戒心を滲ませつつ、小声で呟いた。
アリニアは黙ってそれを見つめる。
その目には、静かな集中が宿っていた。
《この場所……やっぱり普通じゃない。でも、あの光には“意志”がある。少なくとも、私たちを導こうとしてる……》
彼女は小さく頷くと、光の後を追い始めた。
ヴェイルも黙ってそれに続く。
歩を進めるごとに、森はますます“命”を取り戻していく。
花は色を取り戻し、小川は再び歌うようにせせらぎを響かせる。
ただ、その美しさとは裏腹に、二人の内に宿る緊張は完全には解けなかった。
しばらく進むと――
光の球は、ぽっかりと口を開けた洞窟の前でふわりと停止した。
そこだけ、明らかに“異質”だった。
色鮮やかな森とは対照的に、洞窟の入口は暗く、湿気を含んだ冷たい空気を吐き出している。
石の壁には苔がびっしりと生え、そこから水が滴り落ちていた。
壁に並ぶ小さな松明が、揺れる光を投げかけている。
その奥には、下へと続く螺旋階段。
どこまでも深く、光の届かない闇へと続いていた。
アリニアは入口の前で立ち止まり、腕を組んだ。
その視線は鋭く、洞窟の奥を見据えている。
「もう、戻れないのね」
低く呟いたその声には、覚悟が滲んでいた。
ヴェイルもまた、黙って闇を見つめた。
その奥に待ち受ける何かが、言い知れぬ不安を呼び起こす。
「……また、“知らない場所”への旅ってわけか」
その呟きは、覚悟とも諦めともつかない響きだった。
光の球は、二人の前でしばらく漂った後――
まるで「ここからは自分の出番ではない」とでも言うように、ふわりと舞い上がって、森の中へと消えていった。
アリニアとヴェイルは、最後に一度だけ目を合わせる。
そして、無言のまま、洞窟の中へと足を踏み入れた。
階段を下る彼らの足音だけが、静かに――深く、暗き底へと響いていった。
──それが、新たな“深層”への、始まりだった。
少しでも彼の体温を逃さぬよう、慎重に布を整える。
彼女の吐息は、白く、儚い雲となって冷たい空気に溶けていく。
空気は、すでに常識を超えるほどの寒さだった。
真っ白な雪が、静かに森を覆っていた。
それは、まるでヴェイルのマナが爆発した直後、ダンジョンそのものが凍りついたかのような光景だった。
「こんなの……普通じゃない……。このダンジョン、まるで彼に反応してるみたい……でも、どうして……?」
アリニアの呟きは、焚き火の小さな炎にかき消されそうなほど微かだった。
彼女は膝をつき、辛うじて集めた凍っていない枝を使って火を灯していた。
パチパチと静かに燃えるその音だけが、この静寂の空間に命を与えているようだった。
ヴェイルを見る。
短い呼吸、疲労に満ちた顔、動けば砕けそうな体。
彼女の胸を、名も知らぬ不安が満たしていく。
「……彼は、いったい何者なの……? どうして、こんな力を……。私には、何も……教えてくれなかったのに……」
今まで積み重ねてきた日々が、当たり前に思っていたことが、音もなく崩れ去っていく感覚。
ヴェイルの寝顔を見つめたあと、アリニアは視線をそらした。
胸の奥に差し込む距離感が、彼女を戸惑わせていた。
終わりのない空間――
闇だけが支配するその場所に、ヴェイルは横たわっていた。
彼の瞳は、どこまでも続く闇をただ見つめていた。
空気は重く、呼吸をすることさえ困難に感じる。
どこにも、光はなかった。
音も、感覚も、存在すら曖昧になるような、完全なる虚無。
「アリニア……アリニアが……俺を待ってる……。立たなきゃ……」
かすれるような声が、闇の中に消えていく。
想いは確かにそこにあるのに、体は動かなかった。
指を動かそうとする。腕を。だが、まるで全身が鎖で縛られているように、何一つ応えてくれなかった。
絶望と焦燥が、冷たい波となって彼を飲み込んでいく。
記憶が、断片的に蘇る。
ゆっくりと迫ってくるシルヴォイド。
必死に戦うアリニア。
――そして、その背中をただ見つめていた、自分。
「……またかよ……俺は、また……足手まといでしかないのか……。どうすれば……どうすれば、変われるんだ……」
その言葉に、虚無が反応するように揺らめいた。
暗闇が息を潜め、まるでヴェイルの心の奥を覗き込んでいるかのようだった。
思考すら奪ってくるこの空間に、彼はゆっくりと沈み込んでいく――
――そのとき。
かすかな光が、闇の中に浮かんだ。
ろうそくの炎のように頼りないが、確かにそこにある。
ゆらゆらと揺れるその光は、次第に温もりを帯び始める。
まるで、彼の凍りついた心に語りかけるかのように。
そして、そのぬくもりが、ゆっくりと彼の身体を包み込んでいく。
冷たさに蝕まれていた感覚が、少しずつ戻ってくる。
「……なんだ……このあたたかさは……」
それは、再び歩き出すための、わずかな灯だった。
まぶたの裏を突き破るような光が、次第に強さを増していく。
ヴェイルは思わず目を細めた。
心臓の鼓動が早まり、胸の奥で何かがざわめく。
ようやく目を開けると――
そこには、見覚えのある光景が広がっていた。
雪を纏った巨大な木々の枝が、頭上に広がっている。
淡く揺れる焚き火の光が、冷え切った空気をほんのりと温めていた。
アリニアが、すぐ傍らに座っていた。
静かに、炎を見つめながら何かを調理している。
その横顔は穏やかでありながら、どこか沈んだ影を宿していた。
周囲は、不思議なほど静かだった。
刺すような冷気の中にあって、それでもどこか安らぎすら感じさせる空気が流れていた。
「……ん……」
ヴェイルは目元をこすり、意識の霧を振り払おうとした。
体を起こそうとした瞬間――
「……ッ……!」
鋭い痛みが、全身を駆け抜ける。
筋肉が悲鳴を上げ、関節という関節が拒絶するように動きを拒んだ。
思わず、呻き声が漏れた。
その音に反応するように、アリニアが顔を上げた。
耳がぴくりと動き、目が彼を捉える。
その視線には、安堵と――戸惑いの色が入り混じっていた。
「やっと……目を覚ましたのね」
アリニアは静かに言った。
その声には、ほっとしたような温もりがあった。
ヴェイルはゆっくりと息を吸い込んだ。
雪に覆われた小さな空き地、凍りついた小川、そして純白の世界――
これは……夢なんかじゃない。
「……何が、起きたんだ……?」
かすれた声で問いかける。
アリニアはしばらく沈黙したまま、炎をじっと見つめていた。
やがて、その唇がわずかに動き、呟く。
「――本当のあなたは、誰なの……ちびオオカミ……?」
「……え?」
ヴェイルは目を見開いた。
その声、その言葉の響きに、何かが違うと感じた。
彼女の視線は彼を見ていなかった。
まるで――自分の心に問いかけるような、そんな瞳。
すぐに、彼女は首を振り、目をそらした。
「……なんでもないわ」
そう言ったが、彼にはわかっていた。
それは――「なんでもない」では済まされない空気だった。
額に手を当てる。
じんと痛む頭を押さえながら、必死に思い出そうとする。
シルヴォイド。
戦い。
アリニアの叫び――
そして、その先は――真っ白な、空白。
「……なにも、思い出せない……」
そう呟いた自分の声が、やけに遠く聞こえた。
身体を無理に起こそうとするたびに、全身から抗議のような痛みが走る。
それでも彼は問いを繰り返した。
「……何が、あったんだ……?」
再び尋ねたその声に、アリニアは迷いを滲ませながらも顔を上げた。
彼女の視線は一度森の奥へと泳ぎ、そして再び、ヴェイルに向けられる。
その瞳の奥に――確かな“恐れ”と、“確信”が宿っていた。
「全部……全部、あなたのせいよ、ちびオオカミ」
その言葉は、静かに――けれど鋭く、彼の胸を突いた。
ヴェイルの動きが止まる。
目を見開き、震える視線で周囲を見渡した。
木々の枝。
地面に積もった雪。
凍りついた空気に反射する、細やかな霜のきらめき――
彼は、首を振った。
信じられない、と言うように。
「……俺が? そんな……わけ、ない……」
かすれた言葉が、唇からこぼれた。
けれど、アリニアの瞳は、彼を真っ直ぐに見つめていた。
アリニアは静かにうなずいた。
その瞳は、彼らを取り囲む白い世界をじっと見つめている。
「そうよ……あなたは、覚えていないのね?」
低く、けれど揺るぎない声で、アリニアは確認するように言った。
ヴェイルはすぐに答えられなかった。
戸惑いが表情に浮かび、彼はゆっくりと震える手を見下ろした。
まるで、そこに何か――答えがあるかのように。
《本人ですら記憶にないってことは……こんな力、一体どれほど危険なの……?》
アリニアの胸に、不安が静かに渦巻く。
彼女は再び目を逸らし、炎の奥に視線を落とした。
焚き火の揺らめきが、彼女の瞳に淡く映る。
二人の間に、奇妙な沈黙が落ちる。
その静けさを破るように、アリニアが口を開いた。
「……どうやって、そんなことができたの? 水と風を融合させて、森全体を凍らせるなんて……そんなの、並大抵のマナ量じゃ無理よ。しかもあなた、普段は基本魔法を数回使っただけでヘトヘトになるのに」
その問いかけは、冷静さを保ちながらも――戸惑いに満ちていた。
ヴェイルは彼女の目を見つめ返す。
だが、そこに答えはなかった。
彼自身も理解していなかった。
「……僕も、わからない。そんな力があるなんて……自分でも知らなかった」
その声は、かすれ気味で、どこか遠くを見ているようだった。
彼は小さく頭を振る。
「……わかりたいよ、アリニア。僕自身も、何が起きたのか……知りたい」
彼の視線が、雪に覆われた地面に落ちる。
膝に添えた手は、怪我の痛みを忘れるほどに強く握りしめられていた。
「君が危険な目に遭ってるのを見て……悔しかった。何もできなかった自分が情けなかった。それで――突然、何もかもが真っ暗になって……その後は、何も覚えていないんだ」
ヴェイルの声は、低く、震えていた。
「動こうとした。でも、体が言うことを聞かなかった。まるで……誰かが僕を閉じ込めて、代わりに動いていたみたいに」
静かに、アリニアはその言葉を受け止めていた。
淡い青の瞳が、ゆらめく炎の中で揺れている。
その耳が、感情に反応するようにピクリと震えた。
ほんのりと頬が染まり、彼女は顔を背ける。
――それって、私のために……?
《どうして……どうして、私のことでそこまで……? そんなに深い関係でもないのに……私なんかのために……?》
心の奥に、柔らかな熱が広がっていく。
その温かさを打ち消すように、アリニアは息を吐いた。
体を起こし、背筋を伸ばして声を放つ。
「……とにかく、体を温めなさい。まだ進まなきゃならないんだから」
その声は、少しだけ強く。
けれど――そのすぐ後に。
「……ありがとう」
ほとんど聞き取れないほどの、微かなささやきが、唇から漏れた。
それは、確かに本心からの――感謝だった。
ヴェイルは、何も聞こえていないかのように、思考に沈んでいた。
けれど――
アリニアの声に滲んだその“本物の想い”は、ほんの一瞬、彼の表情をやわらげた。
だが、その笑みの奥。
彼女の瞳には、一瞬だけ鋭い光が宿った。
――何かがおかしい。
ここに来てから、ずっと胸に引っかかっていた疑問。
どうしてギルドは、こんな危険なダンジョンに彼女を送り込んだのか。
ここのレベルは明らかに常識外れだった。
偶然のはずがない。
彼女は黙ったまま、小さな鍋から湯気の立つ液体を二つのカップに注いだ。
そこから立ちのぼる香りは、ほんのりと甘く、どこか懐かしい。
キャラメルとバニラが混ざったようなその香りが、冷え切った空気の中で温かさを運んでくる。
アリニアは一つのカップをヴェイルに差し出した。
彼は少し戸惑いながらもそれを受け取り、眉をひそめた。
「……この匂い、あの“香りの部屋”にあった容器と同じじゃないか? 本当に飲めるのか……?」
怪訝そうに言うヴェイルに、アリニアは片眉を上げた。
そして――何も言わず、自分のカップに口をつけた。
ゆっくりと飲むその仕草は、まるでわざとらしいほどに満足げだった。
「冷たい状態で拾ったけど……熱に反応して、こうなるみたい。このダンジョンでは、“与えられたもの”をどう使うかを学ばなきゃいけないのよ」
淡々とした声だったが、その言葉には深い経験に裏打ちされた実感がこもっていた。
ヴェイルは一瞬、彼女の顔をじっと見つめ――そして、渋々一口飲んでみた。
「……意外と、悪くないな。甘いし……なんか、体の中がじんわり温まる」
彼は驚いたように呟いた。
全身に染み渡るようなその温もりが、消耗しきった体を少しずつ癒していく。
アリニアは、その反応をちらりと横目で見た。
唇の端に、ごくわずかな笑みが浮かぶ。
頭の片隅では、ギルドの不審な命令についての疑念が消えぬままだったが――
今だけは、目の前の静かなひとときを優先することにした。
二人は、言葉少なにそのカップを飲み干した。
炎の温もりと、飲み物の優しい甘さが、少しずつ心と身体の緊張をほどいていく。
アリニアは空になったカップを丁寧に片付けながら、ふとヴェイルに視線を送った。
「立てそう? ちびオオカミ」
その声は冷静だったが、その裏には確かな観察と気遣いが滲んでいた。
ヴェイルは小さく息を吐き、ゆっくりと足を動かしてみる。
脚の感覚はまだ鈍く、筋肉が悲鳴を上げたが――なんとか立ち上がることに成功する。
少しぐらつきながらも、彼は片眉を上げてニッと笑った。
「見た目よりは、頑丈だからさ」
アリニアはしばらく彼を見つめ――そして静かに頷いた。
その表情には、安堵と覚悟が混じっていた。
「よし。行くわよ。あと何階残ってるかわからないけど……これ以上、時間は無駄にできないから」
その声は、強く、確かだった。
二人はまた、前へと歩み出す。
雪の森を背にして――次なる試練へ。
アリニアが背中に荷を背負い直すのを、ヴェイルは黙って見送った。
彼は深く息を吸い、肩に残る疲労感を奥へと押し込む。
そして、その背中を追って歩き出した。
足元の草が、しっとりとした感触を取り戻しつつある。
白銀に染め上げられていた大地は、ヴェイルの魔力による凍結から少しずつ解放され、色彩を取り戻していた。
木々の合間を歩きながら、アリニアは周囲を見回した。
生気を取り戻す森の風景に、ふと口元をゆるめ――そして、からかうようにヴェイルへと視線を向けた。
「全部凍らせたわけじゃないみたいね」
その言葉は、冗談めいて軽やかだった。
ヴェイルは片眉を上げてから、わざとらしい不満顔を作った。
「次はもっと徹底的にやってみるよ」
乾いた口調で返すが、その声にはほんの少し笑みが混じっていた。
だが――
その軽口の余韻を断ち切るように、あの“光の球”が再び現れた。
ふわりと空中を舞い、二人の周囲を一周すると、ゆっくりと森の奥へと進み始める。
「また……あれか。……ついて来いってこと、なんだよな?」
ヴェイルは警戒心を滲ませつつ、小声で呟いた。
アリニアは黙ってそれを見つめる。
その目には、静かな集中が宿っていた。
《この場所……やっぱり普通じゃない。でも、あの光には“意志”がある。少なくとも、私たちを導こうとしてる……》
彼女は小さく頷くと、光の後を追い始めた。
ヴェイルも黙ってそれに続く。
歩を進めるごとに、森はますます“命”を取り戻していく。
花は色を取り戻し、小川は再び歌うようにせせらぎを響かせる。
ただ、その美しさとは裏腹に、二人の内に宿る緊張は完全には解けなかった。
しばらく進むと――
光の球は、ぽっかりと口を開けた洞窟の前でふわりと停止した。
そこだけ、明らかに“異質”だった。
色鮮やかな森とは対照的に、洞窟の入口は暗く、湿気を含んだ冷たい空気を吐き出している。
石の壁には苔がびっしりと生え、そこから水が滴り落ちていた。
壁に並ぶ小さな松明が、揺れる光を投げかけている。
その奥には、下へと続く螺旋階段。
どこまでも深く、光の届かない闇へと続いていた。
アリニアは入口の前で立ち止まり、腕を組んだ。
その視線は鋭く、洞窟の奥を見据えている。
「もう、戻れないのね」
低く呟いたその声には、覚悟が滲んでいた。
ヴェイルもまた、黙って闇を見つめた。
その奥に待ち受ける何かが、言い知れぬ不安を呼び起こす。
「……また、“知らない場所”への旅ってわけか」
その呟きは、覚悟とも諦めともつかない響きだった。
光の球は、二人の前でしばらく漂った後――
まるで「ここからは自分の出番ではない」とでも言うように、ふわりと舞い上がって、森の中へと消えていった。
アリニアとヴェイルは、最後に一度だけ目を合わせる。
そして、無言のまま、洞窟の中へと足を踏み入れた。
階段を下る彼らの足音だけが、静かに――深く、暗き底へと響いていった。
──それが、新たな“深層”への、始まりだった。
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