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プロローグ - 第3巻:ダンジョンの影 Pt.2
第63章:心の唄
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アリニアは、氷の霧がまとわりつくハイドラに近づけないと悟ると、
即座に進路を変えて、ヴェイルのもとへと向かった。
彼の傍らにしゃがみ込み、
乱雑に巻かれた止血布を見て、そっと手を添える。
「痛いのは分かってる。でも、立たなきゃダメよ、ちびオオカミ。
傷のことは、後でどうとでもなる。」
その声は落ち着いていて――けれど、どこか優しかった。
ヴェイルは顔を上げ、涙に濡れた目でアリニアを見つめる。
その瞳に宿るのは、痛みと無力さ。
「……分かってる。でも……あいつ、マジで噛むとき遠慮しねえんだな……」
歯を食いしばりながら、冗談にも似た言葉を吐く。
アリニアは立ち上がり、視線を再びハイドラへと向ける。
あの巨体は動かないままだった。
だが、“第三の頭”の口からは小さな蒸気がふわりと漏れ出している。
それぞれの頭が、目線を交わし合うように微かに揺れ――
まるで、何かを“相談”しているかのようだった。
「私が引きつける。できるだけ長く持たせるから――
その間に、あんたがどうにかして近づいて。」
そう言い残して、アリニアはふらつく足を進める。
あの小瓶のおかげで、痛みは一時的に緩和されていた。
だが、限界は近い。
霧が少しずつ晴れていくのを見計らいながら、
彼女は低く身を構える。
……そのときだった。
“第三の頭”が静かに持ち上がる。
それに呼応するように、
“第一”と“第二”も、同時に天を仰いで伸び上がった。
そして、舞が始まる。
“第二の頭”が、しなやかに“第三”の周囲に巻きつく。
その動きは、まるで蛇が木に絡みつくように滑らかで――
無音のまま。
巻き終えた瞬間、今度は“第一の頭”が続く。
“第二”が作った螺旋の隙間に、正確に絡みながら、
三つの頭は――一つの“塔”へと変貌していった。
その頂点に立つのは、“第三の頭”。
その口がゆっくりと開かれる。
だが――叫びはない。
代わりに。
音が――鳴った。
一つの、澄んだ、持続する音。
それは、風に乗って漂い、やがて震えるような旋律へと変わっていく。
その“歌”に合わせるように、
三つの頭が舞うように波打ち、ゆるやかに揺れる。
ハイドラの鱗が、次々と開いていった。
皮膚の下から浮かび上がる節々が、打楽器のように音を立て、
霧を、リズムと共に――吐き出した。
白銀に輝く霧が舞い上がり、星のような黒点を散りばめながら、
戦場全体を包み込んでいく。
それはまるで、夜空を覆う銀の雪。
アリニアは足を止めず、突き進んだ。
ヴェイルが立ち上がるまで、少しでも時間を稼ぐために。
だが――その霧は、いつもと違った。
冷気は、感じない。
あの氷の扉の前で感じたのと、同じ“無温”の気配。
そして――
視界が、霞む。
思考が、鈍る。
「……なに、これ……? 何が……起きてる……の……?」
呟いた声は、風にかき消される。
気づけば、膝が崩れていた。
地面に手をつく。
けれど、体に力が入らない。
意識が――溶けていく。
ハイドラは、まだ歌っていた。
舞うように、ゆらゆらと揺れながら。
赤い目だけが、じっとこちらを見据えたまま。
その視線は、まるで“選別”でもしているかのようだった。
「……ずっと、隠してたのね……こんな技……」
アリニアは苦しげに言葉を紡ぐ。
「……ちびオオカミ……逃げなさい……早く……」
けれど、その声はあまりにか細く――
もう、彼には届かない。
ヴェイルの視線は、霧の向こうにいるアリニアに向けられていた。
彼女が何を言っているのかは分からない。
だが、明らかに――おかしい。
ふらつく彼女の姿。
手をついたまま立ち上がれない様子。
そして、あの霧。
「……ッ!」
彼は、地面を這いながら短剣を探す。
落としたはずだ――
このあたりに……!
だが、白い霧がすべてを覆い隠し、
視界はほとんどゼロ。
それでも、彼は分かっていた。
〈何かをしなきゃ。今、動かなきゃ。〉
そうでなければ――彼女が、やられる。
ヴェイルは膝をついたまま、
手探りで地面を這い、短剣を探し続けた。
その間も、ハイドラはゆっくりとアリニアへと歩を進めていた。
霧の中、その優雅ともいえる動きが、かえって恐ろしかった。
「アリニア、ボーッとしてるな! 動けッ!!」
必死の声が響く。
だが、アリニアの身体は思うように動かなかった。
眠気のような重さが全身を包み込み、
視界が滲み、意識が遠のいていく。
耳は垂れ、目は半開き。
今にも倒れそうなほど、体は限界だった。
ヴェイルだけは、霧の効果を受けていなかった。
それは――痛みのせいだった。
噛み千切られた腕の激痛が、
彼の意識を辛うじて保ち続けていた。
“第三の頭”はヴェイルに視線を向けた。
だが、地面に這いつくばっている彼を確認すると――
すぐに、アリニアへと目を戻す。
その目は冷たく、すでに“狩り”の決着をつける準備をしていた。
そして――
“第一”と“第二”の頭が、“第三”から離れる。
その直後、霧の放出が止まった。
それでも、“第三の頭”は歌をやめない。
それが意味するのは――
アリニアを抑えるための最低限の効果を維持したまま、
“他の頭”にとどめを刺させるということだった。
“第一の頭”が、口を大きく開き、
ゆっくりとアリニアに近づいていく。
距離はまだあるが、このままでは――間に合わない。
「どこだよ……落としたの、たしかこっちのはず……!」
焦りと苛立ちが声に滲む。
だが、ふと脳裏に浮かぶ記憶。
――あの時、ハイドラの攻撃で、霧が吹き飛んだ。
「……やれる。できる。ちょっとでいい……」
ヴェイルは自分に言い聞かせるように呟いた。
右手に、わずかに魔力を集中させ――
霧を軽くかき払うほどの微風を放つ。
すると、地面の上に小さな光。
短剣の刃が、光を反射して煌めいた。
「……いたッ!」
這いつくばったまま、すぐさま手を伸ばす。
何度も転びそうになりながら、ついに短剣を掴んだ。
手に伝わる冷たい金属の感触が、彼の心を再点火させる。
「……で、これを持って……俺は何すりゃいい?」
呆れたように言いながら、目だけは真剣だった。
だが――考えている時間はなかった。
アリニアは、もう危ない。
ハイドラは、すでに射程に入っていた。
「おい、こっちだクソ蛇ッ!!
お前の相手は、俺だよッ!!」
咆哮。
声が響いた瞬間、“第三の頭”がぴたりと動きを止めた。
その視線が、ヴェイルに向けられる。
立ち上がった彼は、左腕をだらりと垂らし、
右手の短剣を握る拳に、白く変色するほどの力を込めていた。
「アリニア……立て……頼む……今は、あんたの力がいる……!」
声は震えていた。
だが、その言葉は――届いた。
「……うん、分かってる……私……まだ、動ける……!」
ぐらつきながらも、アリニアが立ち上がる。
視界は揺れ、世界が回転して見える。
それでも――彼女は立った。
ヴェイルのもとへ、ふらつきながらも近づく。
その瞬間を――
ハイドラが見逃すはずがなかった。
“第一の頭”が突進。
だが。
アリニアは、転んだ。
踏み出した足が絡まり、バランスを崩して倒れ込む。
――それが、奇跡を呼んだ。
その転倒が、ハイドラの噛みつきを回避させたのだ。
「っ、今だッ!」
ヴェイルが走り、アリニアを抱きかかえるようにしてその場を離脱。
なんとか――その場から逃れた。
「悪いけど、あんたに頼るしかない。
あいつの注意を引いててくれ。
俺、たぶん……“やれる方法”が分かった気がする。」
呼吸を整えながら、ヴェイルがそう告げる。
アリニアはその言葉に少しだけ目を見開き――
「……できる。まだ……動ける。
でも、本当にいけるの? あんな化け物、まだ疲れすら見せてないのに……」
痛みに耐えながら、目を細める。
それでも――
彼女はヴェイルの言葉を、信じていた。
「……もう、こっちも長くは保たない。
これがダメなら、他に策なんてない。
……もう十分だろ、こんなところに時間かけすぎた。」
ヴェイルの呟きは、自分自身への言い聞かせだった。
アリニアは何も言わず、ヴェイルの肩を借りずに立ち上がる。
目に強い意志を宿しながら、ハイドラのほうへと向かっていった。
去り際、彼女は一度だけ振り返る。
その視線を受けて、“第三の頭”がゆっくりと動く。
アリニアを追い、冷たい目が再び彼女に集中する。
カチンッ――と、再び顎が鳴る。
“第一”と“第二”の頭が一斉に構えを取り、
アリニアの進行を阻むように迫る。
その頃、ヴェイルは膝を落とし、静かに目を閉じていた。
全神経を、右手に集中させる。
「……集めろ……全部、右手に……集中しろ……」
熱が走る。
腕が重くなる。
だが、それでいい。
「細く……もっと細く……鋭く、早く……一閃の刃を……」
彼の手に握られた短剣が、再び風をまとう。
緑の流れが空気を巻き込み、
細く尖った光の槍となってその姿を変える。
圧縮された空気が、針のように一点へと伸びていく――
「アリニア! こっちに向かせろ! 今だッ!!」
鋭い声が戦場を貫いた。
アリニアは一瞬だけ戸惑いながらも、すぐに走り出す。
なぜかは分からない。
だが、信じるしかなかった。
彼の声に、彼の意思に。
“第三の頭”が彼女を目で追う。
そして、すぐに気づく。
その先に――ヴェイルがいる。
「……二つ同時には見れねぇんだよ、クソ蛇が……
これで終わりだ。」
アリニアがヴェイルの横を通り過ぎるその瞬間、
彼は風を纏い、地面を蹴った。
一瞬で加速。
床を裂く勢いで、霧の中を一直線に――ハイドラの胴体へ。
“第三の頭”が叫ぶ。
“第一の頭”が地を這い、遮ろうと飛び出す。
鱗が開き、再び霧を撒き散らす――
だが、遅い。
刹那――
「――ッらああああああッ!!」
ヴェイルの一撃が、
青白く脈打つ光の中枢へと突き刺さった。
風の刃が鱗を裂き、
まるで粘土のように柔らかく、深く――深く。
彼の叫びと共に、短剣が完全に埋まるまで。
直後――
三つの頭が一斉に絶叫する。
その声が、空間を揺らし、耳を裂く。
ヴェイルも、アリニアも、鼓膜が震え、立っていられないほどの衝撃。
ハイドラの巨体が暴れ狂う。
全身を使い、あらゆるものを破壊しようと足掻く。
だが――ヴェイルは、離さない。
手を、刃を、その意志を――決して、離さない。
体内の青い光が、心臓のように激しく脈打つ。
そして――
ふと、全てが止まった。
音が、消えた。
光が、消えた。
三つの首が、ぐらりと揺れ――
崩れ落ちた。
赤い目は虚ろに光を失い、
残されたのは、ぽっかりと空いた黒い眼窩だけ。
その巨体が、重力に従って地へと沈む。
部屋全体が揺れ、石片が舞い、土埃が立ち込める。
視界は、灰色の霧に覆われた。
――ハイドラは、沈黙した。
完全に、動きを止めた。
アリニアは、身構えたまま動けずにいた。
見えない。
何も見えない。
霧の奥で、彼が――どうなったのか。
「ちびオオカミ……!
ちびオオカミッ! どこなのよッ!!」
叫び声が、残響に飲まれる。
返事はない。
音も、気配も、何一つ――感じられない。
アリニアの目に、うっすらと涙が浮かぶ。
焦りと不安が胸を締めつける。
「お願い……返事してよ……どこかで……生きてて……」
霧の中、彼の姿を探しながら――
彼女の戦いは、まだ終わっていなかった。
ハイドラは倒れた。
だが、ダンジョンの終わりは――まだ、見えない。
まずは、彼を――見つけなければならなかった。
即座に進路を変えて、ヴェイルのもとへと向かった。
彼の傍らにしゃがみ込み、
乱雑に巻かれた止血布を見て、そっと手を添える。
「痛いのは分かってる。でも、立たなきゃダメよ、ちびオオカミ。
傷のことは、後でどうとでもなる。」
その声は落ち着いていて――けれど、どこか優しかった。
ヴェイルは顔を上げ、涙に濡れた目でアリニアを見つめる。
その瞳に宿るのは、痛みと無力さ。
「……分かってる。でも……あいつ、マジで噛むとき遠慮しねえんだな……」
歯を食いしばりながら、冗談にも似た言葉を吐く。
アリニアは立ち上がり、視線を再びハイドラへと向ける。
あの巨体は動かないままだった。
だが、“第三の頭”の口からは小さな蒸気がふわりと漏れ出している。
それぞれの頭が、目線を交わし合うように微かに揺れ――
まるで、何かを“相談”しているかのようだった。
「私が引きつける。できるだけ長く持たせるから――
その間に、あんたがどうにかして近づいて。」
そう言い残して、アリニアはふらつく足を進める。
あの小瓶のおかげで、痛みは一時的に緩和されていた。
だが、限界は近い。
霧が少しずつ晴れていくのを見計らいながら、
彼女は低く身を構える。
……そのときだった。
“第三の頭”が静かに持ち上がる。
それに呼応するように、
“第一”と“第二”も、同時に天を仰いで伸び上がった。
そして、舞が始まる。
“第二の頭”が、しなやかに“第三”の周囲に巻きつく。
その動きは、まるで蛇が木に絡みつくように滑らかで――
無音のまま。
巻き終えた瞬間、今度は“第一の頭”が続く。
“第二”が作った螺旋の隙間に、正確に絡みながら、
三つの頭は――一つの“塔”へと変貌していった。
その頂点に立つのは、“第三の頭”。
その口がゆっくりと開かれる。
だが――叫びはない。
代わりに。
音が――鳴った。
一つの、澄んだ、持続する音。
それは、風に乗って漂い、やがて震えるような旋律へと変わっていく。
その“歌”に合わせるように、
三つの頭が舞うように波打ち、ゆるやかに揺れる。
ハイドラの鱗が、次々と開いていった。
皮膚の下から浮かび上がる節々が、打楽器のように音を立て、
霧を、リズムと共に――吐き出した。
白銀に輝く霧が舞い上がり、星のような黒点を散りばめながら、
戦場全体を包み込んでいく。
それはまるで、夜空を覆う銀の雪。
アリニアは足を止めず、突き進んだ。
ヴェイルが立ち上がるまで、少しでも時間を稼ぐために。
だが――その霧は、いつもと違った。
冷気は、感じない。
あの氷の扉の前で感じたのと、同じ“無温”の気配。
そして――
視界が、霞む。
思考が、鈍る。
「……なに、これ……? 何が……起きてる……の……?」
呟いた声は、風にかき消される。
気づけば、膝が崩れていた。
地面に手をつく。
けれど、体に力が入らない。
意識が――溶けていく。
ハイドラは、まだ歌っていた。
舞うように、ゆらゆらと揺れながら。
赤い目だけが、じっとこちらを見据えたまま。
その視線は、まるで“選別”でもしているかのようだった。
「……ずっと、隠してたのね……こんな技……」
アリニアは苦しげに言葉を紡ぐ。
「……ちびオオカミ……逃げなさい……早く……」
けれど、その声はあまりにか細く――
もう、彼には届かない。
ヴェイルの視線は、霧の向こうにいるアリニアに向けられていた。
彼女が何を言っているのかは分からない。
だが、明らかに――おかしい。
ふらつく彼女の姿。
手をついたまま立ち上がれない様子。
そして、あの霧。
「……ッ!」
彼は、地面を這いながら短剣を探す。
落としたはずだ――
このあたりに……!
だが、白い霧がすべてを覆い隠し、
視界はほとんどゼロ。
それでも、彼は分かっていた。
〈何かをしなきゃ。今、動かなきゃ。〉
そうでなければ――彼女が、やられる。
ヴェイルは膝をついたまま、
手探りで地面を這い、短剣を探し続けた。
その間も、ハイドラはゆっくりとアリニアへと歩を進めていた。
霧の中、その優雅ともいえる動きが、かえって恐ろしかった。
「アリニア、ボーッとしてるな! 動けッ!!」
必死の声が響く。
だが、アリニアの身体は思うように動かなかった。
眠気のような重さが全身を包み込み、
視界が滲み、意識が遠のいていく。
耳は垂れ、目は半開き。
今にも倒れそうなほど、体は限界だった。
ヴェイルだけは、霧の効果を受けていなかった。
それは――痛みのせいだった。
噛み千切られた腕の激痛が、
彼の意識を辛うじて保ち続けていた。
“第三の頭”はヴェイルに視線を向けた。
だが、地面に這いつくばっている彼を確認すると――
すぐに、アリニアへと目を戻す。
その目は冷たく、すでに“狩り”の決着をつける準備をしていた。
そして――
“第一”と“第二”の頭が、“第三”から離れる。
その直後、霧の放出が止まった。
それでも、“第三の頭”は歌をやめない。
それが意味するのは――
アリニアを抑えるための最低限の効果を維持したまま、
“他の頭”にとどめを刺させるということだった。
“第一の頭”が、口を大きく開き、
ゆっくりとアリニアに近づいていく。
距離はまだあるが、このままでは――間に合わない。
「どこだよ……落としたの、たしかこっちのはず……!」
焦りと苛立ちが声に滲む。
だが、ふと脳裏に浮かぶ記憶。
――あの時、ハイドラの攻撃で、霧が吹き飛んだ。
「……やれる。できる。ちょっとでいい……」
ヴェイルは自分に言い聞かせるように呟いた。
右手に、わずかに魔力を集中させ――
霧を軽くかき払うほどの微風を放つ。
すると、地面の上に小さな光。
短剣の刃が、光を反射して煌めいた。
「……いたッ!」
這いつくばったまま、すぐさま手を伸ばす。
何度も転びそうになりながら、ついに短剣を掴んだ。
手に伝わる冷たい金属の感触が、彼の心を再点火させる。
「……で、これを持って……俺は何すりゃいい?」
呆れたように言いながら、目だけは真剣だった。
だが――考えている時間はなかった。
アリニアは、もう危ない。
ハイドラは、すでに射程に入っていた。
「おい、こっちだクソ蛇ッ!!
お前の相手は、俺だよッ!!」
咆哮。
声が響いた瞬間、“第三の頭”がぴたりと動きを止めた。
その視線が、ヴェイルに向けられる。
立ち上がった彼は、左腕をだらりと垂らし、
右手の短剣を握る拳に、白く変色するほどの力を込めていた。
「アリニア……立て……頼む……今は、あんたの力がいる……!」
声は震えていた。
だが、その言葉は――届いた。
「……うん、分かってる……私……まだ、動ける……!」
ぐらつきながらも、アリニアが立ち上がる。
視界は揺れ、世界が回転して見える。
それでも――彼女は立った。
ヴェイルのもとへ、ふらつきながらも近づく。
その瞬間を――
ハイドラが見逃すはずがなかった。
“第一の頭”が突進。
だが。
アリニアは、転んだ。
踏み出した足が絡まり、バランスを崩して倒れ込む。
――それが、奇跡を呼んだ。
その転倒が、ハイドラの噛みつきを回避させたのだ。
「っ、今だッ!」
ヴェイルが走り、アリニアを抱きかかえるようにしてその場を離脱。
なんとか――その場から逃れた。
「悪いけど、あんたに頼るしかない。
あいつの注意を引いててくれ。
俺、たぶん……“やれる方法”が分かった気がする。」
呼吸を整えながら、ヴェイルがそう告げる。
アリニアはその言葉に少しだけ目を見開き――
「……できる。まだ……動ける。
でも、本当にいけるの? あんな化け物、まだ疲れすら見せてないのに……」
痛みに耐えながら、目を細める。
それでも――
彼女はヴェイルの言葉を、信じていた。
「……もう、こっちも長くは保たない。
これがダメなら、他に策なんてない。
……もう十分だろ、こんなところに時間かけすぎた。」
ヴェイルの呟きは、自分自身への言い聞かせだった。
アリニアは何も言わず、ヴェイルの肩を借りずに立ち上がる。
目に強い意志を宿しながら、ハイドラのほうへと向かっていった。
去り際、彼女は一度だけ振り返る。
その視線を受けて、“第三の頭”がゆっくりと動く。
アリニアを追い、冷たい目が再び彼女に集中する。
カチンッ――と、再び顎が鳴る。
“第一”と“第二”の頭が一斉に構えを取り、
アリニアの進行を阻むように迫る。
その頃、ヴェイルは膝を落とし、静かに目を閉じていた。
全神経を、右手に集中させる。
「……集めろ……全部、右手に……集中しろ……」
熱が走る。
腕が重くなる。
だが、それでいい。
「細く……もっと細く……鋭く、早く……一閃の刃を……」
彼の手に握られた短剣が、再び風をまとう。
緑の流れが空気を巻き込み、
細く尖った光の槍となってその姿を変える。
圧縮された空気が、針のように一点へと伸びていく――
「アリニア! こっちに向かせろ! 今だッ!!」
鋭い声が戦場を貫いた。
アリニアは一瞬だけ戸惑いながらも、すぐに走り出す。
なぜかは分からない。
だが、信じるしかなかった。
彼の声に、彼の意思に。
“第三の頭”が彼女を目で追う。
そして、すぐに気づく。
その先に――ヴェイルがいる。
「……二つ同時には見れねぇんだよ、クソ蛇が……
これで終わりだ。」
アリニアがヴェイルの横を通り過ぎるその瞬間、
彼は風を纏い、地面を蹴った。
一瞬で加速。
床を裂く勢いで、霧の中を一直線に――ハイドラの胴体へ。
“第三の頭”が叫ぶ。
“第一の頭”が地を這い、遮ろうと飛び出す。
鱗が開き、再び霧を撒き散らす――
だが、遅い。
刹那――
「――ッらああああああッ!!」
ヴェイルの一撃が、
青白く脈打つ光の中枢へと突き刺さった。
風の刃が鱗を裂き、
まるで粘土のように柔らかく、深く――深く。
彼の叫びと共に、短剣が完全に埋まるまで。
直後――
三つの頭が一斉に絶叫する。
その声が、空間を揺らし、耳を裂く。
ヴェイルも、アリニアも、鼓膜が震え、立っていられないほどの衝撃。
ハイドラの巨体が暴れ狂う。
全身を使い、あらゆるものを破壊しようと足掻く。
だが――ヴェイルは、離さない。
手を、刃を、その意志を――決して、離さない。
体内の青い光が、心臓のように激しく脈打つ。
そして――
ふと、全てが止まった。
音が、消えた。
光が、消えた。
三つの首が、ぐらりと揺れ――
崩れ落ちた。
赤い目は虚ろに光を失い、
残されたのは、ぽっかりと空いた黒い眼窩だけ。
その巨体が、重力に従って地へと沈む。
部屋全体が揺れ、石片が舞い、土埃が立ち込める。
視界は、灰色の霧に覆われた。
――ハイドラは、沈黙した。
完全に、動きを止めた。
アリニアは、身構えたまま動けずにいた。
見えない。
何も見えない。
霧の奥で、彼が――どうなったのか。
「ちびオオカミ……!
ちびオオカミッ! どこなのよッ!!」
叫び声が、残響に飲まれる。
返事はない。
音も、気配も、何一つ――感じられない。
アリニアの目に、うっすらと涙が浮かぶ。
焦りと不安が胸を締めつける。
「お願い……返事してよ……どこかで……生きてて……」
霧の中、彼の姿を探しながら――
彼女の戦いは、まだ終わっていなかった。
ハイドラは倒れた。
だが、ダンジョンの終わりは――まだ、見えない。
まずは、彼を――見つけなければならなかった。
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「ちょ、待て待て待て! 俺は陰キャだぞ!? 勇者じゃないんだぞ!?」
――かくして、ゲームライフを愛する陰キャ高校生の異世界行きが始まる。
ステゴロお姫様ギャンブラー─賭博大好きスラムのプリンセスは魔法学園でも暴れ回るようです─
アタラクシア
ファンタジー
あらゆる国から忘れられたスラム『ガラングラム』。そこに人々から『姫』と呼ばれて愛される『シャーロット・アクレミス』という美少女がいた。
類い稀なる美貌。優しき声色。人々はシャーロットだけでも普通にするため、なけなしの金を貯めて最高峰の魔法学園『グリモワール学園』へと入学させる。
しかし──彼女の正体は死線をこよなく愛する救いようのないほどのギャンブル狂い。扱う能力は賭けに勝てば最強、外せば無能という大博打であった。
絶望的な戦況ほど、彼女の拳と心臓は高鳴っていく。期待を背負ったお姫様ギャンブラーによる、計算不能の学園蹂躙劇が幕を開ける!
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