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2杯目

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 憂鬱な朝、いつものように会社へ出勤する。パソコンと向かい合い画面とにらめっこしながらたくさんの書類の山を片付けていたが、書類が少なくなってきた頃、上司から追加の書類を渡される。

「これ、今日までだから。頼むよ」
「え、ですが」
「あ?」
「……いえ、なんでもありません」

 断ることも出来ず、仕方なく書類の山を再び片付ける。チラッと先輩方を見るとそそくさと休憩に逃げていた。俺は思わずキレそうになったが仕方なく仕事に集中した。あまりの書類ミスに頭を抱えながら1つずつ訂正していた。

「お疲れ様」
「あ、お疲れ様です」

 声をかけてきたのは女性の先輩で、今月限りで会社を辞める人だった。部長のお墨付きで、辞めるのも本社に移動となったからだった。

「……なんか用ですか」
「ごめんね。私だけ逃げるように」
「は?」

 いきなり謝ってきた先輩に思わず腹が立ってしまった。仕事を押し付けられている俺への当てつけに思えてしまった。

「ふざけんな。あんたのミスを俺がカバーしなきゃならんかったんすよ!」
「ご、ごめんって」
「……はぁ。お疲れす」

 俺は席を立ち上がりトイレに逃げる。とうとうストレスからか便器が真っ赤に染まる。

「うげえ……」

 現実から目をそらすようにトイレから出て、自分のデスクに戻るとさらに書類の山が出来ていた。

「な、なんですかこれ」
「トイレに行く時間に出来た仕事の分量だ。ちゃんとやれよ」
「……分かりました」

 上司が帰ってから1時間後、全ての仕事を終えて俺は逃げるように会社から出た。夜22時半を迎えていた。日比谷カフェに急いで向かった。

「あ、お待ちしておりました」
「え?」
「この時間帯、お客様がいらっしゃるかと思いましてオーナーがいつもの席をご用意しています」
「……あはは。ありがとうございます」

 常連扱いになっていることに照れる。いつものようにモカコーヒーを頼み、今日は頑張った自分へのご褒美としてティラミスを頼む。

 もちろん運んできてくれたのはオーナーだった。

「いらっしゃいませ。お待ちしてました。こちらコーヒーとティラミスですっ!」
「ありがとうございます。頂きます」
「……クマが凄い。ゆっくり寝れてますか?」
「え、えぇ。それなりには」
「ちゃんと体調管理してくださいね?」

 オーナーから優しい言葉を貰って、思わず涙が出てしまう。オーナーは見ていないふりをして店の奥へ駆け込んだ。少しの配慮が嬉しかった。

 苦味と甘みのバランスのとれたティラミスだった。

 日比谷カフェを出たのは翌朝になってしまっていた。朝の従業員さんたちに聞くとオーナーが寝かせておいていいとの事で起こさないで居てくれたようだった。

「ほんとすみません!!」
「いいんですよ。私たちはオーナーに従っただけですし」
「オーナーさん今日はおやすみですか?」
「はい。さすがに働き詰めで心配になって休みを取ってもらってます」
「そうですか。もしオーナーに会うことがあればお礼を」
「またご来店いただいた時にその言葉を直接オーナーへ」
「そう……ですね」

 俺は日比谷カフェから出て、急いで会社へ向かった。遅刻ギリギリの出勤になってしまい、上司はカンカンに怒っていた。その姿はゆでダコのようで思わず笑ってしまいそうになった。

 日比谷カフェのお陰で少しずつだが心に余裕が出来ていた。
 だがこの日は上司が怒りに怒って仕事が全て俺のところに振り分けられ朝帰りになってしまった。カフェに行く元気もなくシャワーを浴びて1時間眠りについて、また仕事へ向かった。

「おめぇは何度ミスすれば分かるんだコラァ!!!」
「ここのミスは1度目です。僕は分からない仕事を押し付けられているだけです」
「口答えか。いい度胸だな?」
「口答えではなく真実を言ってます」
「くそ生意気な……!!」

 俺は上司に理不尽に怒られ、とうとう我慢の限界とストレスの限界で倒れてしまった。

 目が覚めるとそこは病院だった。医師からは胃潰瘍だと診断された。トイレが真っ赤に染まったところから行くべきだったなと反省していた。

 お見舞いは当然誰も来ず、寂しい入院生活だったがその間も仕事は溜まりに溜まり続く。パソコンを開いて病院なのに仕事をしていた。あまりにもこのままでは自分が死ぬと思い、高い金を払い、辞職願の代行サービスで会社を辞めることに成功した。

 清々しい気持ちになりストレスも減ったのか痛みも少しずつ無くなっていた。入院生活が2週間ほど経ち、退院できることになった。すぐさま向かったのは日比谷カフェ。

「こ、こんにちは」
「いらっしゃいませ。おひとり様ですか?」
「はい」
「こちらへどうぞ」

 新人さんが席を案内してくれていた。前座っていた席ではなく遠く離れた席。そこに座ると新人さんはお冷を出してそそくさと消えていった。モカコーヒーを頼み、退院祝いと称してティラミスを頼む。よくよく時刻を見ると11時半でオーナーの居ない時間だった。

 久しぶりにオーナーに会いたかったな。そう思っていた。飲み終えて、ティラミスも食べ終わりお店を出ようとした時だった。

「お兄さん?!」
「お、オーナーさん?」
「間に合ったあ。いつも深夜帯に働いてくれてる従業員さんがね、今日お昼入ってて、教えてくれたのっ!」
「こ、こんにちは」
「挨拶はさておき、どうして来てくれなかったの。寂しかったよ!」
「……入院してて。あはは」
「大丈夫なの?!」
「し、仕事もやめたし」
「……そっか。仕事探し中だとまた来れなくなる期間増えちゃうね」
「……オーナーさん」
「でもね、ずっと来るの待ってるから。ゆっくり来てくださいね!」
「え、えぇ。ありがとうございます」

 オーナーは少しうるうると涙を浮かべていた。俺はそれが誰かと重なっていた。昔、遊んだことのある誰かに。だが思い出せ無かった。

「お兄さん。体調治してね」
「ありがとうございます」

 お代を払いモヤモヤとした頭の中をスッキリさせる為に久しぶりの家に帰り、寝に着いた。

 ☆☆☆

 翌朝から俺は仕事探しに翻弄した。前のような会社に捕まらないよう、念入りに全ての条件や詳細を隈なく調べていたが、そんなことをしていると全ての会社が怪しく思えてしまい、見つかるものも見つからなくなってしまっていた。

「あぁ、もう無理……!」

 サラダと白米を食べながら、何も考えないようにしていた。仕事探しはどんな航海よりも難しいんだなと感じていた。

 来る日も来る日も仕事を探す日々。そんな時だった。

「これいいな」

 見つけた求人はジムインストラクターの仕事だった。未経験者求むとの事で、挑戦してみようと応募をかけると夜、応募した求人から電話が来る。

「はい。もしもし」
「中宮裕二様のご携帯でお間違いないでしょうか」
「はい」
「私、キリミヤスポーツジム採用担当の中鼻優子と申します。ご応募大変ありがとうございます。つきまして、面接日程を組ませていただきたく連絡を致しました」

 事は淡々と進み、俺は面接日程を決めて、その日までゆっくり過ごそうと決めた。

 面接日が訪れた。

「お待ちしておりました。本日面接を担当させていただきます。中鼻隆二と言います」
「あ、中鼻ってご苗字」
「気づかれましたか。ユウジさんのお電話にかけさせていただいたユウコは私の妹でして」
「そうなんですね。ご兄妹でやってらっしゃるなんて凄い……」
「あはは。では面接を」

 面接時間は30分とかからなかった。そしてその日に採用が伝えられた。

「明後日からよろしくお願いします!」
「こちらこそ。あなたのスポーツへの熱意が伝わりました。柔道をやってらっしゃったのなら少しは身体の事にも詳しいでしょうし」
「あはは。本当にありがとうございます。よろしくお願いします」

 深く礼をして、俺は採用された喜びで日比谷カフェに向かっていた。席に案内されいつものメニューを頼もうとすると、店員はにこやかな笑みで言った。

「オーナーとモカコーヒーですね」
「お、オーナーさんは別に大丈夫ですよ?!」
「冗談です。お待ちしておりました。ただ今お持ちいたしますね」
「ありがとうございます」

 店員は冗談交じりに去っていった。と思いきややはりモカコーヒーを持ってきたのはオーナーだった。

「オーナーさんこんにちは」
「いらっしゃいませ。お待ちしてました。モカコーヒーと、こちらサービスで豆菓子です」
「ありがとうございます」
「お兄さん。お仕事探しはどうですか?」
「仕事決まりました。それもこれも日比谷カフェのおかげです」
「え?」
「このカフェにきてから頭がスッキリして、やるべき事を見つけれるんです」
「嬉しいお言葉です」

 すると通路を挟んだ隣のソファ席にいた男性が俺の肩を叩きながら言った。

「お兄さん分かるよ、俺もオーナーのおかげで人生やり直し出来たからな!」
「そうなんですか」
「ここのカフェは特別だ」

 男性は晴れやかな顔で言っていた。日比谷カフェはお客に紳士に対応する良いお店なんだなと改めて再認識する。

 オーナーは顔を真っ赤に染めた。その顔がやはり誰かと重なる。

「お兄さん?」
「あ、いや。思い出せないんだけど、昔の誰かにオーナーさんが似てるなって」
「……そうですか。思い出せるといいですね」
「う、うん」
「あ、ようやく、はいじゃなくて、うんに変わった!」
「あはは」
「砕けた口調嬉しいっ!!」

 オーナーは大喜びだった。この些細なことで喜ぶのも、思い出せない誰かにそっくりだった。
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