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36 キスマーク
しおりを挟む和樹は部屋に入ると、陸にどちらのベッドがいいかを尋ねてきた。
「僕はどちらでもいいので……」
そうは言われても、年下に譲らないわけにはいかない。
こうして少しの問答の後、陸が窓側、和樹が扉側のベッドを使うという話になった。
和樹は一度外へ出ると盥にお湯を入れ、手ぬぐいとともに戻ってきてくれた。
手ぬぐいは二つあったので、一つは陸に使わせてくれるようだ。
「悪いな……、なんか」
普段こういったところに泊まらないのでシステムがよくわからなかった。和樹は苦笑しつつ、手ぬぐいを絞って陸に渡してくれた。
「いえ……。まだ陸さんはこっちに来て半年も経っていないんですから当たり前ですよ!」
「なるほど……。こっちでは和樹君が先輩なんだな」
くすくすと笑い合いながら体を拭っていく。そこで、気がついてしまった。
和樹の体にこれでもかとキスマークがつけられている。
ぽかん、と口を開けていると、和樹も陸の体を見て頬を赤らめた。そういえば、自分の体も他人のことは言えなかった。
赤面して顔を見返し、お互いに察したようでバッと和樹は視線をそらした。
「……ラブラブなんですね」
「……和樹君こそ。もしかして、俺がラットを引き起こさせたせいか?」
そうだとしたら非常にバツが悪い。和樹はローブで体を覆って目隠しを作り、その中で体を拭き始めた。
「確かに、きっかけはそうなんですけど、フェルディはずっと僕のことを好きだったみたいで……。それで、告白されて、恋人同士になりました」
ほわほわと、彼の周囲に幸せなオーラが漂っているような気がした。
確かにフェルディはずっと片思いをしていたようなので、これ幸いと手を出したのだろう。
「和樹君のほうは、フェルディのことを好きだったのか?」
そうでないなら押し切られただけの可能性がある。
和樹はコクリと頷いた。
「僕の方はまだ心が追いついていないかもなんですが、それでもフェルディに応えたいと思っています」
「……そっか」
和樹が納得しているのであればよかった、と陸は胸を撫で下ろす。そしてふと気になったことを聞いてみた。
「和樹君は、帰る気はないのか? 優勝したら何でも願いを叶えてもらえるんだろう?」
体を拭き終えたようで和樹は手ぬぐいを再び湯に浸す。陸も同様に綺麗になったので寝る時用のローブに着替えた。
「はい……、でも、僕はもうあちらの世界には親はいないので」
そう言えば和樹は、元の世界で一家の無理心中につきあわされそうになったところでこちらの世界に来たと言っていた。
「そっか……」
何と言っていいかわからず眉尻を下げる。彼は元気そうに返してきた。
「こっちの世界でフェルディに拾ってもらって、僕は救われたんです。だから、僕は彼がレースに出るというなら力になりたいと思っています」
もぞもぞとローブを着ながら告げてくる。すっきりとした顔に迷いはなかった。
「陸さんは、あちらの世界に戻りたいんですよね?」
確認するかのように聞いてくる。
「ああ……。俺はあっちに祖父がいるから……。一人にしておけないんだ」
和樹は納得したように頷いた。
「そういえば、陸さんもご両親は早くになくなられていますもんね」
「うん……。その分じいちゃんが育ててくれた。だから……」
久しぶりに章介の話題を口にした。
故郷に帰りたくて仕方なくなりそうで、今まであえて思い出さないようにしていた。
しかし、一度彼の存在を思い出してしまうと胸が苦しくなる。
あの家で一人きりで暮らしているのだろうか。
体は大丈夫だろうか。変わりないだろうか。ちゃんと食べているのだろうか。
今年の箱根駅伝は一人で見たのだろうか。
じわりと視界が滲む。努めて陸は笑顔を浮かべた。
「本番は、本気で勝ちに行くからな」
陸の笑みを見て、和樹は眉尻を下げた。
「……僕、てっきり陸さんもこちらに定住してしまうのかと思っていました。……その、相手はフレイさんですよね?」
ちらちらと和樹は陸の体を見る。ローブで隠されてしまっているが、フレイによってつけられたキスマークが点在していた。
「……あー、まぁ……。とはいえ、フレイとは発情期の間だけだし……」
和樹の前ではあまりいいたくないが、ここまで証拠を見られてしまっていれば言い逃れは出来ない。
「も、もしかしていわゆるセフレってやつですか」
彼の頬が紅潮しつつも目を輝かせている。そういう関係は物語の中でしか見たことがなかったのだろう。
「いや……、まぁ……そうなるのか?」
陸はそういう意味でフレイのことが好きである。けれどフレイは陸を愛していると言うが、そうは思えなかった。
瞳に、恋愛をしている期間特有の熱を感じない。愛を告げることで陸をコントロールしようとしているように感じられた。だから、陸は彼の愛の言葉を本気にしていない。
「な、なんだか、大人の関係なんですね……。僕、てっきりお二人は付き合っているのかと思っていました。僕が陸さんと番になろうかと提案した時、フレイさんはものすごい顔で僕を睨んでいましたし……」
そうなのだろうか。
陸はローブの襟元を引っ張って胸のあたりを見る。フレイによってつけられたうっ血の跡が散見している。
何も知らない人が見れば、確かに執着の証に見えるのだろう。
しかし、これまでの言葉から察するに、彼はただ単に陸というライダーを失いたくないだと、陸は思っている。
ライダーがいなければ、ウィング・クラッシュ・レースには参加出来ないから。
そこまで考え、急に陸は虚しくなってきた。自分はフレイを愛していると思っているが、彼は自分を愛していない。利用しようとしているのだから。
とはいえ、自分がフレイを好きになった理由も、笑顔に絆されたからという単純な動機だった。そこから始まり、努力家な面や明るい性格を知るうちにますます好きになってしまっているが。
何より、陸上をしていた陸からすると、速さに対する執着や、走ることが好きだという情熱は親しみがある。応援したいし、力になりたいという気持ちまで育ってしまっている。
「まだ半年だけど、どうやらフレイにとって俺はようやく見つけたライダーらしいからな。誰かに取られるのは嫌だったんだろう」
けれど和樹はきょとんと目を瞬かせた。
「そんなものでしょうか……?」
どこか納得がいっていないようだった。
「……俺、そろそろ寝るな。明日も早いんだし」
立ち上がり、和樹から手ぬぐいを受け取ると、桶を持って外に出る。話を切り上げたかった。
貼り付けた笑顔をはがし、廊下を進む。共同の水場で自由に使っていいように貸し出されていた。
水を捨て、軽く手ぬぐいを拭うと、使用済みと書かれている桶に入れる。中には汚れた布が大量に入れられていた。
こういうシステムなのか、と踵を返す。部屋では和樹が陸が返ってくるのを待っていて、陸がベッドに入ったのを確認してからランプを消した。
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