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名もなき帰還者の座
しおりを挟む記録されなかった魂。
その影は、言葉のようで、風のようで、声にならない“感情の塊”だった。
彼――いや、それは、最初ははっきりとした形を持っていなかった。
男女の区別も、年齢も、時代も――何もない。
ただ、「残りたい」という想いだけが、宿り木の地下に宿っていた。
ある夜。
幽霊たちが静かに集う“記憶の間”にて、トウマは吟遊詩人のノエルに尋ねた。
「“記録されなかった”って……どういうこと?」
ノエルは少しだけ遠くを見るように目を細め、ゆっくりと語り始めた。
『……その魂はね、かつて“名前”を持っていた。
だけど、それを“誰も覚えていない”んだ。
親も、友も、愛する者も……誰一人、思い出せなくなってしまった』
トウマは、はっと息を呑む。
『誰にも思い出されなかった魂は、時間とともに“記録されなくなる”。 文字にも残らず、語りにも残らず、ついには――“自分自身が、自分を忘れてしまう”』
その魂は、かつて――ある戦の中で命を落とした若者だった。
兵士でも、騎士でも、英雄でもない。
荷馬車の見張り役として徴集され、名前も階級も記録されないまま、戦場に散った。
仲間はその夜、別の戦線へ向かい、彼の死を誰かに伝えることも叶わなかった。
身元の紙も、印もなく、名札も取れていた。
誰かに思い出されることは二度となく、その魂は、“忘れられた者たちが行く場所”すら知らず、彷徨い続けた。
やがてその魂は、宿り木の地下――かつての祠があった場所に流れついた。
なぜかこの地だけが、その魂を拒まなかった。
誰もその名を呼ばない代わりに、誰も拒まなかった。
それが、“ここにいてもいい”という最初で最後の肯定だった。
そして時は流れ、宿り木が生まれ、双子がその声に触れるまで――
その魂は、何も語らず、ただずっとそこで座れぬ椅子を見つめていた。
……ここは、名のある者のための椅子。自分には、与えられるはずのないもの。
そう思い込み、椅子の前に立ち続けるだけの存在となっていた。
だけど、双子は違った。
「大丈夫、僕たちが覚えてる。あなたにたとえ名前がなくても、声がなくても、“帰りたい”って、そう願った気持ちは、本物だもの」
トウマは誰のものでもない椅子の前に立つ魂にそう伝えた。
名前がなくても、顔がなくても、「ここにいた」という事実だけを双子は認め受け止めた。
宿り木は、小さな悩みも、記憶と祈りを、静かに迎え入れている場所。
そうして呼ばれたものを拒むことなどない場所なのだ。
「あいていたら、すわっていいよ。みんなのいすだからね。なかよくだよ」
クロミがユウマの言葉に同意した様に「にゃ」っと鳴き、長い尻尾をゆらりと振る。
その言葉に、魂はようやく――
迷うかのように何度も揺らめきながら、椅子に座ることができたのだ。
最後に、その影が溶ける間際、ユウマは微かな“感情の揺らぎ”を受け取った。
それは、言葉にするとこんな風だった。
「ただ……ありがとうって、言いたかった。
誰かに、もう一度。
“ぼく”が、ここにいたって……それだけ、分かってほしかった」
その声は涙のようにやさしく、そして“ここにいていい”という新たな記憶として、宿り木にそっと重なった。
それからというもの、“記憶の間”にはいつの間にか八脚の椅子が並んでいる。
誰が増やしたのかは双子は知らない。
ただ、椅子の数は意味があるとは知っている。
「みんな、なかよくね」
それだけ分かっていればいいと笑っている。
そのうちのひとつ――
一番奥の椅子には、誰も座っていないのに、時折ふっと、座面がへこむことがある。
誰かがそこに、静かに腰を下ろしているかのように。
宿り木は今日も静かに燃えている。
記憶されなかった者にも、
語られなかった願いにも――
「ここにいていいよ」と言ってくれる灯が、確かにある。
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