異世界宿屋の小さな相談役

月森野菊

文字の大きさ
20 / 24

夢に沈むひと、記憶に留まるひと

しおりを挟む



 その夜、記憶の間で事件が起きた。

 いつものように、双子が記憶の間の様子を確かめに行くと――
 中央に置かれていた《記憶の守人の書》が、勝手に開かれていた。

 めくれたページには見慣れない記録。

 《記憶番号・零》
 《名   :記録外》
 《状態  :再起動》
 《特異事象:記憶の中に魂が“入り込んだ”形跡あり》

「……これは、“誰かが記憶に取り込まれた”ってこと……?」

 そう、今回の出来事は――“宿泊客のひとりが記憶に囚われて出てこられなくなった”異常事態だった。

 


 その客は、老いた画家。
 名をオルトといい、宿の広間でスケッチをしながら、何日も逗留していた。

「もう筆を持つこともないと思っていたが……この宿は、描きたいと思わせてくれるね」

 その言葉を最後に、彼は部屋で昏倒し、目を覚まさなくなった。

 医師の見立てでは「昏睡状態」。
 しかし、宿の幽霊、吟遊詩人のノエルがぽつりと告げた。

『あの人、夢の中じゃなく、“記憶の中に戻ってる”よ。 過去の中で、絵を描いてるんだ。――帰ってくる気もなく』

 

 その夜、トウマはひとり、記憶の間へ向かった。

 記憶の間は、深く静かだった。

 八脚の椅子と、一冊の書物だけが中央にあり、空気はまるで水の中のように重く、湿り気を帯びている。

 石造りの床に足を踏み入れるたび、コツ、コツ――と、音が長く反響した。

 まるでこの場所そのものが、誰かが来たことを確かめているかのようだった。

 

 中央に鎮座する《記憶の守人の書》は、分厚く、重々しく、その背表紙には金糸で縫われた古代文字が淡く光を放っていた。

 トウマはその前に立ち、そっと深く息を吸った。

 指先に、ペンダントの冷たい金属が触れる。

 細い鎖の先に吊られたその小さな魔具は、セレスティアが残した術式の“鍵”であり、今やトウマだけが扱える、記憶と記録を結ぶ印だった。

 

 一歩、踏み出す。

 もう一歩。

 本の前に、ゆっくりと両手を重ね、胸の前でペンダントを握る。

「……聞こえていますか」

 声は震えていた。

 けれど、その奥にある覚悟は、澄んでいた。

 

「ここに、見届ける者がひとり。  
 過去の記録を開き、その記憶を未来へ受け渡すために――  
 どうか、扉を、開いてください」

 

 その瞬間――

 ぴたり、と空気が止まった。

 室内の時間が止まったかのように、空気の振動が凪いだ。

 ペンダントの中心に埋め込まれた、青白い石がゆっくりと脈打ちはじめる。

 トン――トン――と、心臓の鼓動に似た光の波。

 石の明滅に呼応するように、書の周囲の床の文様が淡く浮かび上がる。

 それはまるで、宿り木の底に眠っていた“古い呼吸”が、今まさに目を覚ましたかのようだった。

 

 光が、トウマの足元から、胸元、そして視界を包み込む。

 世界が反転し、風も音もなく、 まるで自分という存在が紙の上に“書かれていく”ような感覚が全身を満たしていく。

 現れた記憶の扉が、ゆっくりと開かれる。

 

 トウマは、そっと目を閉じた。
 その心の奥にただ一つ、願いを浮かべながら。

「どうか、今もここに眠っている“声”が、もう一度―― 誰かに届きますように」

 
 再び目を開けたトウマは、静かにその扉の中へと、踏み込んでいった。

 ふわりと、空間が反転した。


 目の前に広がったのは、かつてオルトが描いたアトリエの記憶だった。

 木漏れ日の差す大きな窓、静かな筆の音、そして、その向こうには――若かりし頃のオルトが「もう一度会いたかった人」を描いている。

 

 あれは、まだオルトが“ただの絵描き見習い”だった頃。
 旅芸人の一座に紛れ、食事と宿を絵の代金にするような、流れ者のような日々を送っていた。

 その夜、彼が訪れたのは、国境近くの小さな街だった。

 石畳の広場には木の仮設舞台が組まれ、夕方になると、旅芸人たちが人を集めて歌や踊りを披露していた。

 オルトはその片隅で、イーゼルを立て、「色は足りないが、光だけは写せる」と言って、誰に頼まれるでもなく舞台の風景をスケッチしていた。

 

 舞台の幕が上がり――

 現れたのは、一人の歌姫だった。

 名は、リア・サンディーニ。

 淡い藤色のドレスに、緩く編んだ髪。
 透きとおるような歌声が、夜気に乗って広がった。

「風のなか……灯りのかなたに、手をのばせ……」

 観客は息を飲み、街灯の灯りさえ一瞬だけ、呼吸を止めたようだった。

 オルトは、その歌の一音目を聴いた瞬間、筆を止めた。

「……あの声を、絵にできたらいいのに」

 その夜、彼は“舞台”ではなく、“彼女”を描いた。
 光に包まれ、声に色を宿すその姿を、キャンバスの上で追い続けた。

 舞台が終わり、観客が帰りはじめたころ。
 片付けの最中に、リアがふとオルトに声をかけた。

「あなた……ずっと私を描いてた?」

 オルトはどぎまぎしながら、キャンバスを隠そうとしたが、彼女はふっと笑った。

「見せて?」

 ためらいながら、絵を差し出すと――
 リアはしばらく、黙ってそれを見つめていた。

「……この私、すこし寂しそうね。でも……本物より、強く見える」

 そして、こう言った。

「ねえ、あなた。今夜だけでいいから、“私の絵を描いた人”になってくれる?」
 
 その言葉に、オルトは答えることができなかった。
 ただ、うなずいた。
 
 二人は、その夜だけ時間を共にした。

 街外れの小さな宿で、焚き火のそばに腰かけて、お互いの旅のこと、夢のこと、叶わなかったこと、忘れたくないものを語り合った。

 リアは、明日にはまた別の街へ発つと言った。

「どこかに、“忘れた声”を覚えていてくれる場所があればいいんだけどね」

「……僕が描きます。忘れたくないなら、絵にします」

「じゃあ、お願い。この夜の私を――忘れないでいて。でも、探さないで。」


 夜が明けるころ、リアはオルトのもとを去った。
 オルトの手元には、乾ききっていない絵が一枚。“歌声が灯りになった”ような絵だった。

 

 それが、彼の“記憶に宿った人”だった。
 彼女の名前も、姿も、時が経つにつれて曖昧になっていったけれど、その夜の空気だけは、何度描いても褪せなかった。

 それゆえに――

 老いたオルトは、最期の絵を描くとき、彼女の姿を記憶から引き出すため、宿り木の記憶の力に引き寄せられてきたのだろう。

 彼の願いは、ただひとつ。

 それが、トウマと出会う夜へと、記憶を導いたのだった。




「この絵が描きあがれば、私はもう十分なんだ。この中で、彼女に「ただいま」って言いたいだけなんだよ」

 トウマはそっと言った。

「でも、それって――現実から逃げてるだけじゃないですか?」

 オルトは静かに微笑んだ。

「子どもだな。現実から逃げたのではない。戻らないと決めた記憶に、留まっていたいだけだよ」

 トウマは、言葉を飲み込んだ。
 ……でも、このままでは、オルトの魂は二度と戻ってこない。
 この記憶の中で、朽ちてしまう。

 
 そのとき。
 トウマのペンダントが、微かに光を放った。

 術式が、語りかけてくる。

 《記憶の回路、干渉可能》
 《記録を、未来に向けて閉じることができます》

 トウマは、震えながらも覚悟を決める。



 記憶の中、色彩も匂いも現実よりも鮮やかな、老画家オルトの過去が目の前に広がっていた。

 そこには、音楽と光に満ちたあの夜。彼が心から愛した歌姫リアの姿があった。
 夢のように美しい記憶だった。

 だが、トウマは知っている。

 この記憶に囚われたままでは、オルトは戻れない。
 いずれ、肉体は現実の時間に取り残され、彼の魂は、この絵の中に閉じ込められてしまう。
 
 目の前のオルトは、何もかもを描き終えていた。もう、満足そうだった。
 それでも――それでも、トウマの胸には言葉にできない痛みがあった。

「……こんなに美しいものを、忘れられるのが怖かったからって、閉じたままで終わらせていいの?」

 彼の指先には、セレスティアから継いだ術式のペンダントがあった。
 青白い石が、心臓の鼓動と呼応するように、淡く光っている。
 トウマの手は、小さく震えていた。
 この術式を使えば、記憶を閉じることができる。けれど、それはつまり――この記憶を終わらせるということだ。

「僕なんかが……こんな、大切なものに、触れていいのかな……?」

 本当は、怖かった。
 美しさに触れることが。
 誰かの想いに、踏み込むことが。
 失わせてしまうかもしれないということが。

 でも。
 その胸の奥に、別の声があった。

「誰かが、忘れずにいてくれるなら―― きっと、その記憶は、生き続けられる」

 深く息を吸い込む。
 目を閉じる。
 トウマは――静かに、ペンダントに触れた。

「僕は、忘れないだから、あなたは――この記憶から、帰ってきてください」

 言葉にした瞬間、術式が反応した。
 ペンダントの石が強く輝き、トウマの背後に、風のような気配がふっと立つ。
 空気が揺れ、空間が歪み、記憶の輪郭が少しずつ、ほどけはじめる。

 
 目の前のオルトが、顔を上げた。

「……君は、終わらせるために来たのかい?」
「ううん。終わらせるんじゃない。あなたの記憶を、未来に残すために、来ました」

 トウマの声は、もう震えていなかった。
 
 記憶の光が、淡く沈んでいく。

「オルトさん。 あなたの記憶は、素晴らしいです。でも……それを未来に渡さずに閉じてしまうのは、もったいないです。だから――僕が、見届けます。あなたが生きた証を、ちゃんと語り継ぎます。その代わりに、ここから出てきてください。今のあなたに、また筆を持ってほしいんです」
 
 トウマの言葉に、記憶の空間が微かにざわめいた。

 オルトの目が、ふっと潤んだ。

「……忘れられてしまうのが、怖かったんだ。あの人といた時間が、なかったことになるのが」
「でも――君が、覚えてくれるなら……もう、いいのかもしれないな」

 絵の中の歌姫が、最後にこちらを振り返り、微笑んだ。
 そしてその微笑みとともに、空間が静かに閉じていく。

 トウマは最後に、小さな声でつぶやいた。

「ありがとう。大切な記憶を、見せてくれて」

 
 記憶の空間は、ゆっくりと閉じていった。


 現実の世界に戻ったトウマは、膝をついて、静かに深呼吸をした。
 手の中のペンダントが、ほんのりと温かかった。
 その温度が、誰かの想いを見届けたことを教えてくれていた。

「怖かったけど……やっぱり、継いでよかった」

 小さな決意は、記憶の中で確かな光となって、静かに宿り木を灯し続けていた。


 

 翌朝。
 オルトは目を覚ました。
 そして彼は、改めて描いたキャンバスの端に、【Diva in a dream】と小さくサインを書き加えた。

「この絵の中にいた君が、誰だったのか、もう覚えていない。でも、描ききった気がするんだよ」 



 宿の一角に小さな絵が飾られた。
 色とりどりの光の中で、どこか懐かしい音楽が聴こえてくるような――そんな風景画。
 その前に立つトウマは、静かに心の中でつぶやいた。

「これが、僕の最初の記憶の旅。まだ、きっと始まったばかりだ」

 


 宿り木は今日もまた、誰かの声を記憶に迎えている。
 そして、それを語り継ぐ者が、ここにいる。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】異世界リメイク日和〜おじいさん村で第二の人生はじめます〜

天音蝶子(あまねちょうこ)
ファンタジー
壊れた椅子も、傷ついた心も。 手を動かせば、もう一度やり直せる。 ——おじいさん村で始まる、“優しさ”を紡ぐ異世界スローライフ。 不器用な鍛冶師と転生ヒロインが、手仕事で未来をリメイクしていく癒しの日々。 今日も風の吹く丘で、桜は“ここで生きていく”。

異世界転生ファミリー

くろねこ教授
ファンタジー
辺境のとある家族。その一家には秘密があった?! 辺境の村に住む何の変哲もないマーティン一家。 アリス・マーティンは美人で料理が旨い主婦。 アーサーは元腕利きの冒険者、村の自警団のリーダー格で頼れる男。 長男のナイトはクールで賢い美少年。 ソフィアは産まれて一年の赤ん坊。 何の不思議もない家族と思われたが…… 彼等には実は他人に知られる訳にはいかない秘密があったのだ。

神様の忘れ物

mizuno sei
ファンタジー
 仕事中に急死した三十二歳の独身OLが、前世の記憶を持ったまま異世界に転生した。  わりとお気楽で、ポジティブな主人公が、異世界で懸命に生きる中で巻き起こされる、笑いあり、涙あり(?)の珍騒動記。

【完結】乙女ゲーム開始前に消える病弱モブ令嬢に転生しました

佐倉穂波
恋愛
 転生したルイシャは、自分が若くして死んでしまう乙女ゲームのモブ令嬢で事を知る。  確かに、まともに起き上がることすら困難なこの体は、いつ死んでもおかしくない状態だった。 (そんな……死にたくないっ!)  乙女ゲームの記憶が正しければ、あと数年で死んでしまうルイシャは、「生きる」ために努力することにした。 2023.9.3 投稿分の改稿終了。 2023.9.4 表紙を作ってみました。 2023.9.15 完結。 2023.9.23 後日談を投稿しました。

【完結短編】ある公爵令嬢の結婚前日

のま
ファンタジー
クラリスはもうすぐ結婚式を控えた公爵令嬢。 ある日から人生が変わっていったことを思い出しながら自宅での最後のお茶会を楽しむ。

一緒に異世界転生した飼い猫のもらったチートがやばすぎた。もしかして、メインは猫の方ですか、女神様!?

たまご
ファンタジー
 アラサーの相田つかさは事故により命を落とす。  最期の瞬間に頭に浮かんだのが「猫達のごはん、これからどうしよう……」だったせいか、飼っていた8匹の猫と共に異世界転生をしてしまう。  だが、つかさが目を覚ます前に女神様からとんでもチートを授かった猫達は新しい世界へと自由に飛び出して行ってしまう。  女神様に泣きつかれ、つかさは猫達を回収するために旅に出た。  猫達が、世界を滅ぼしてしまう前に!! 「私はスローライフ希望なんですけど……」  この作品は「小説家になろう」さん、「エブリスタ」さんで完結済みです。  表紙の写真は、モデルになったうちの猫様です。

転生した子供部屋悪役令嬢は、悠々快適溺愛ライフを満喫したい!

木風
恋愛
婚約者に裏切られ、成金伯爵令嬢の仕掛けに嵌められた私は、あっけなく「悪役令嬢」として婚約を破棄された。 胸に広がるのは、悔しさと戸惑いと、まるで物語の中に迷い込んだような不思議な感覚。 けれど、この身に宿るのは、かつて過労に倒れた29歳の女医の記憶。 勉強も社交も面倒で、ただ静かに部屋に籠もっていたかったのに…… 『神に愛された強運チート』という名の不思議な加護が、私を思いもよらぬ未来へと連れ出していく。 子供部屋の安らぎを夢見たはずが、待っていたのは次期国王……王太子殿下のまなざし。 逃れられない運命と、抗いようのない溺愛に、私の物語は静かに色を変えていく。 時に笑い、時に泣き、時に振り回されながらも、私は今日を生きている。 これは、婚約破棄から始まる、転生令嬢のちぐはぐで胸の騒がしい物語。 ※本作は「小説家になろう」「アルファポリス」にて同時掲載しております。 表紙イラストは、Wednesday (Xアカウント:@wednesday1029)さんに描いていただきました。 ※イラストは描き下ろし作品です。無断転載・無断使用・AI学習等は一切禁止しております。 ©︎子供部屋悪役令嬢 / 木風 Wednesday

第5皇子に転生した俺は前世の医学と知識や魔法を使い世界を変える。

黒ハット
ファンタジー
 前世は予防医学の専門の医者が飛行機事故で結婚したばかりの妻と亡くなり異世界の帝国の皇帝の5番目の子供に転生する。子供の生存率50%という文明の遅れた世界に転生した主人公が前世の知識と魔法を使い乱世の世界を戦いながら前世の奥さんと巡り合い世界を変えて行く。  

処理中です...