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夢に沈むひと、記憶に留まるひと
しおりを挟むその夜、記憶の間で事件が起きた。
いつものように、双子が記憶の間の様子を確かめに行くと――
中央に置かれていた《記憶の守人の書》が、勝手に開かれていた。
めくれたページには見慣れない記録。
《記憶番号・零》
《名 :記録外》
《状態 :再起動》
《特異事象:記憶の中に魂が“入り込んだ”形跡あり》
「……これは、“誰かが記憶に取り込まれた”ってこと……?」
そう、今回の出来事は――“宿泊客のひとりが記憶に囚われて出てこられなくなった”異常事態だった。
その客は、老いた画家。
名をオルトといい、宿の広間でスケッチをしながら、何日も逗留していた。
「もう筆を持つこともないと思っていたが……この宿は、描きたいと思わせてくれるね」
その言葉を最後に、彼は部屋で昏倒し、目を覚まさなくなった。
医師の見立てでは「昏睡状態」。
しかし、宿の幽霊、吟遊詩人のノエルがぽつりと告げた。
『あの人、夢の中じゃなく、“記憶の中に戻ってる”よ。 過去の中で、絵を描いてるんだ。――帰ってくる気もなく』
その夜、トウマはひとり、記憶の間へ向かった。
記憶の間は、深く静かだった。
八脚の椅子と、一冊の書物だけが中央にあり、空気はまるで水の中のように重く、湿り気を帯びている。
石造りの床に足を踏み入れるたび、コツ、コツ――と、音が長く反響した。
まるでこの場所そのものが、誰かが来たことを確かめているかのようだった。
中央に鎮座する《記憶の守人の書》は、分厚く、重々しく、その背表紙には金糸で縫われた古代文字が淡く光を放っていた。
トウマはその前に立ち、そっと深く息を吸った。
指先に、ペンダントの冷たい金属が触れる。
細い鎖の先に吊られたその小さな魔具は、セレスティアが残した術式の“鍵”であり、今やトウマだけが扱える、記憶と記録を結ぶ印だった。
一歩、踏み出す。
もう一歩。
本の前に、ゆっくりと両手を重ね、胸の前でペンダントを握る。
「……聞こえていますか」
声は震えていた。
けれど、その奥にある覚悟は、澄んでいた。
「ここに、見届ける者がひとり。
過去の記録を開き、その記憶を未来へ受け渡すために――
どうか、扉を、開いてください」
その瞬間――
ぴたり、と空気が止まった。
室内の時間が止まったかのように、空気の振動が凪いだ。
ペンダントの中心に埋め込まれた、青白い石がゆっくりと脈打ちはじめる。
トン――トン――と、心臓の鼓動に似た光の波。
石の明滅に呼応するように、書の周囲の床の文様が淡く浮かび上がる。
それはまるで、宿り木の底に眠っていた“古い呼吸”が、今まさに目を覚ましたかのようだった。
光が、トウマの足元から、胸元、そして視界を包み込む。
世界が反転し、風も音もなく、 まるで自分という存在が紙の上に“書かれていく”ような感覚が全身を満たしていく。
現れた記憶の扉が、ゆっくりと開かれる。
トウマは、そっと目を閉じた。
その心の奥にただ一つ、願いを浮かべながら。
「どうか、今もここに眠っている“声”が、もう一度―― 誰かに届きますように」
再び目を開けたトウマは、静かにその扉の中へと、踏み込んでいった。
ふわりと、空間が反転した。
目の前に広がったのは、かつてオルトが描いたアトリエの記憶だった。
木漏れ日の差す大きな窓、静かな筆の音、そして、その向こうには――若かりし頃のオルトが「もう一度会いたかった人」を描いている。
あれは、まだオルトが“ただの絵描き見習い”だった頃。
旅芸人の一座に紛れ、食事と宿を絵の代金にするような、流れ者のような日々を送っていた。
その夜、彼が訪れたのは、国境近くの小さな街だった。
石畳の広場には木の仮設舞台が組まれ、夕方になると、旅芸人たちが人を集めて歌や踊りを披露していた。
オルトはその片隅で、イーゼルを立て、「色は足りないが、光だけは写せる」と言って、誰に頼まれるでもなく舞台の風景をスケッチしていた。
舞台の幕が上がり――
現れたのは、一人の歌姫だった。
名は、リア・サンディーニ。
淡い藤色のドレスに、緩く編んだ髪。
透きとおるような歌声が、夜気に乗って広がった。
「風のなか……灯りのかなたに、手をのばせ……」
観客は息を飲み、街灯の灯りさえ一瞬だけ、呼吸を止めたようだった。
オルトは、その歌の一音目を聴いた瞬間、筆を止めた。
「……あの声を、絵にできたらいいのに」
その夜、彼は“舞台”ではなく、“彼女”を描いた。
光に包まれ、声に色を宿すその姿を、キャンバスの上で追い続けた。
舞台が終わり、観客が帰りはじめたころ。
片付けの最中に、リアがふとオルトに声をかけた。
「あなた……ずっと私を描いてた?」
オルトはどぎまぎしながら、キャンバスを隠そうとしたが、彼女はふっと笑った。
「見せて?」
ためらいながら、絵を差し出すと――
リアはしばらく、黙ってそれを見つめていた。
「……この私、すこし寂しそうね。でも……本物より、強く見える」
そして、こう言った。
「ねえ、あなた。今夜だけでいいから、“私の絵を描いた人”になってくれる?」
その言葉に、オルトは答えることができなかった。
ただ、うなずいた。
二人は、その夜だけ時間を共にした。
街外れの小さな宿で、焚き火のそばに腰かけて、お互いの旅のこと、夢のこと、叶わなかったこと、忘れたくないものを語り合った。
リアは、明日にはまた別の街へ発つと言った。
「どこかに、“忘れた声”を覚えていてくれる場所があればいいんだけどね」
「……僕が描きます。忘れたくないなら、絵にします」
「じゃあ、お願い。この夜の私を――忘れないでいて。でも、探さないで。」
夜が明けるころ、リアはオルトのもとを去った。
オルトの手元には、乾ききっていない絵が一枚。“歌声が灯りになった”ような絵だった。
それが、彼の“記憶に宿った人”だった。
彼女の名前も、姿も、時が経つにつれて曖昧になっていったけれど、その夜の空気だけは、何度描いても褪せなかった。
それゆえに――
老いたオルトは、最期の絵を描くとき、彼女の姿を記憶から引き出すため、宿り木の記憶の力に引き寄せられてきたのだろう。
彼の願いは、ただひとつ。
それが、トウマと出会う夜へと、記憶を導いたのだった。
「この絵が描きあがれば、私はもう十分なんだ。この中で、彼女に「ただいま」って言いたいだけなんだよ」
トウマはそっと言った。
「でも、それって――現実から逃げてるだけじゃないですか?」
オルトは静かに微笑んだ。
「子どもだな。現実から逃げたのではない。戻らないと決めた記憶に、留まっていたいだけだよ」
トウマは、言葉を飲み込んだ。
……でも、このままでは、オルトの魂は二度と戻ってこない。
この記憶の中で、朽ちてしまう。
そのとき。
トウマのペンダントが、微かに光を放った。
術式が、語りかけてくる。
《記憶の回路、干渉可能》
《記録を、未来に向けて閉じることができます》
トウマは、震えながらも覚悟を決める。
記憶の中、色彩も匂いも現実よりも鮮やかな、老画家オルトの過去が目の前に広がっていた。
そこには、音楽と光に満ちたあの夜。彼が心から愛した歌姫リアの姿があった。
夢のように美しい記憶だった。
だが、トウマは知っている。
この記憶に囚われたままでは、オルトは戻れない。
いずれ、肉体は現実の時間に取り残され、彼の魂は、この絵の中に閉じ込められてしまう。
目の前のオルトは、何もかもを描き終えていた。もう、満足そうだった。
それでも――それでも、トウマの胸には言葉にできない痛みがあった。
「……こんなに美しいものを、忘れられるのが怖かったからって、閉じたままで終わらせていいの?」
彼の指先には、セレスティアから継いだ術式のペンダントがあった。
青白い石が、心臓の鼓動と呼応するように、淡く光っている。
トウマの手は、小さく震えていた。
この術式を使えば、記憶を閉じることができる。けれど、それはつまり――この記憶を終わらせるということだ。
「僕なんかが……こんな、大切なものに、触れていいのかな……?」
本当は、怖かった。
美しさに触れることが。
誰かの想いに、踏み込むことが。
失わせてしまうかもしれないということが。
でも。
その胸の奥に、別の声があった。
「誰かが、忘れずにいてくれるなら―― きっと、その記憶は、生き続けられる」
深く息を吸い込む。
目を閉じる。
トウマは――静かに、ペンダントに触れた。
「僕は、忘れないだから、あなたは――この記憶から、帰ってきてください」
言葉にした瞬間、術式が反応した。
ペンダントの石が強く輝き、トウマの背後に、風のような気配がふっと立つ。
空気が揺れ、空間が歪み、記憶の輪郭が少しずつ、ほどけはじめる。
目の前のオルトが、顔を上げた。
「……君は、終わらせるために来たのかい?」
「ううん。終わらせるんじゃない。あなたの記憶を、未来に残すために、来ました」
トウマの声は、もう震えていなかった。
記憶の光が、淡く沈んでいく。
「オルトさん。 あなたの記憶は、素晴らしいです。でも……それを未来に渡さずに閉じてしまうのは、もったいないです。だから――僕が、見届けます。あなたが生きた証を、ちゃんと語り継ぎます。その代わりに、ここから出てきてください。今のあなたに、また筆を持ってほしいんです」
トウマの言葉に、記憶の空間が微かにざわめいた。
オルトの目が、ふっと潤んだ。
「……忘れられてしまうのが、怖かったんだ。あの人といた時間が、なかったことになるのが」
「でも――君が、覚えてくれるなら……もう、いいのかもしれないな」
絵の中の歌姫が、最後にこちらを振り返り、微笑んだ。
そしてその微笑みとともに、空間が静かに閉じていく。
トウマは最後に、小さな声でつぶやいた。
「ありがとう。大切な記憶を、見せてくれて」
記憶の空間は、ゆっくりと閉じていった。
現実の世界に戻ったトウマは、膝をついて、静かに深呼吸をした。
手の中のペンダントが、ほんのりと温かかった。
その温度が、誰かの想いを見届けたことを教えてくれていた。
「怖かったけど……やっぱり、継いでよかった」
小さな決意は、記憶の中で確かな光となって、静かに宿り木を灯し続けていた。
翌朝。
オルトは目を覚ました。
そして彼は、改めて描いたキャンバスの端に、【Diva in a dream】と小さくサインを書き加えた。
「この絵の中にいた君が、誰だったのか、もう覚えていない。でも、描ききった気がするんだよ」
宿の一角に小さな絵が飾られた。
色とりどりの光の中で、どこか懐かしい音楽が聴こえてくるような――そんな風景画。
その前に立つトウマは、静かに心の中でつぶやいた。
「これが、僕の最初の記憶の旅。まだ、きっと始まったばかりだ」
宿り木は今日もまた、誰かの声を記憶に迎えている。
そして、それを語り継ぐ者が、ここにいる。
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