異世界宿屋の小さな相談役

月森野菊

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ユウマと、言葉を話さない旅人

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 初夏の午後。

 宿にやってきたのは、ひとりの青年旅人だった。
 身なりは清潔だが質素で、背には大きな荷物。
 だが何より目を引いたのは――彼がまったく言葉を話さないことだった。

 宿帳に名前は記されていた。ラセルという名だけ。
 しかし話しかけても、彼は黙って首を振るか、わずかにうなずくだけ。

「声が出ないのかしら」
「それとも、話したくないだけ?」

 宿の客たちも気にしていたが、彼自身は誰にも迷惑をかけず、ただ静かに過ごしていた。

 

 その様子を、ユウマはじっと観察していた。
 話せない人は、決して「感じていない」わけじゃない。
 言葉がないからこそ、心の中にはたくさんの“沈黙の声”がある――
 ユウマはそういう人を、どこか動物と似ていると感じていた。

 

 ある夕方。
 ラセルが庭のベンチでひとり本を読んでいるとき、ユウマはそっと彼の隣にクロミを連れて座った。
 何も言わずに。
 ただ、座った。
 しばらくして、クロミがふわっと立ち上がり、ラセルの膝に前足を乗せて、じっと彼の目を見つめた。
 そのときだった。
 ラセルの目に、ぽたりと涙が落ちた。
 ユウマは、声をかけずに、ただクロミを撫でて、彼に一言だけ言った。

「ないてもいいんだよ」

 



 ──ペン先が紙に触れたとき、ラセルの頭に、遠い日々の風景がふと差し込んだ。

 街のはずれにあった、あの家。
 寒い石畳。
 怒鳴り声。
 何かを言い返した瞬間に、崩れていった家族の表情。
「なぜそんな言い方をしたんだ」と言われた。
 何も悪気はなかった。
 ただ、正しいと思ったことを言っただけだった。
 でもその言葉で、大切な人が泣いた。
 離れていった。
 そして戻ってこなかった。

 それ以来、ラセルは話すことが怖くなった。
 誰かと目を合わせるのも、笑うのも、「ありがとう」と言うのも。
 心のなかにはいつも、“誤解の破片”が棘のように刺さっていた。

 けれど――

 宿り木で出会った少年は、何も言わなかった。
 ただ隣に座り、猫を膝に乗せて、「泣いてもいいんだよ」とだけ言った。
 それだけだったのに、どうしてあんなにも、言葉より深く伝わってきたのだろう。

 あの目は、問いかけてこなかった。
 理由を聞かなかった。
 ただ、「今のままでも、ここにいていい」って……初めて思えた。

 
 ラセルは、言葉を選ぶことに時間がかかった。
 手紙を書くことは話すよりもっと難しかった。

 でも――この宿では、不器用な文字でも“ちゃんと届く”気がした。

 声にできなくても、ここでは心の音が聴こえていた。
 あなたが笑ったとき、世界がほんの少し、やわらかくなった気がした。

 もう一度くらい、「話してみようかな」と思えた。
 もしまた言葉を間違えたとしても、ここでの思い出が、きっと守ってくれる。
 そう信じられる場所が、この宿だった。

 ペンを置くと、ラセルは少しだけ息を吐いて、そっと笑った。
 それは、声にならない「ありがとう」だった。



 次の日。ラセルは手紙を置いていった。
 それは、字も拙く震えていたが、確かに“彼の言葉”だった。

 《ありがとう。話せなかったんじゃなくて、話すのがこわかった。
  ことばは、いちど間違えると、ひとをこわしてしまうから。
  でも、動物と、あなたの目は、こわくなかった。
  この宿でだけは、ちゃんと“ことばにならない声”が聴こえました。》

 

 手紙の横には、小さな布包みがあった。
 中には、手作りの革細工の首輪がひとつ。
 金具には、小さな刻印がある。

 《やどりぎの しずく》

 クロミの首につけると、まるで前からずっとそこにあったように、しっくりとなじんだ。

 ミーナは微笑みながら言った。

「ラセルさん、たぶん“声じゃなくても伝わる場所”を探してたのね」

 アベルは肩をすくめながらも、小さく頷いた。

「見つけたってことだ。宿り木で、ようやく」

 

 その夜、ユウマはふと天井を見上げて、クロミにそっと聞いた。

「……ぼく、ちゃんとつたえられてた?」

 クロミはにゃあと小さく鳴き、ベッドに丸くなって答えた。

「……うん。ぼくも、がんばったよね」

 

 ユウマは言葉で戦わない。
 でも彼の静かな“感受”は、誰かの心に灯をともす。

 彼の声なき声は、
 今日もまた、宿り木のどこかで、誰かの記憶と響き合っている。



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