朝食とパンと口紅

朝井染両

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朝食とパンと口紅

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「あの、それオレのスープ」


混み合うカフェのカウンター。
そう言ったのはスーツを着た若い青年だった。

「あ、すみません……」

信じられない、という顔をしたのは髭の生えた男だった。
所謂、インスタ映えといった雰囲気でハワイアンに纏まったこのカフェのモーニングメニューは、ボリューミーでおいしいと評判だ。しかし、多勢の男性はこの明るい潔白さを少し難しく感じるらしい。
男性の一人客は青年と男だけだった。

「新しいのを、頼みますね……」
「いや、良いですよ。アンタおいしそうに食べますし」

青年はそう言って、最後の一口になったBLTサンドを口に入れる。咀嚼して飲み込む。

「よく来てますよね」
「ええ、まあ……」

「アンタ、おいしそーに食べて、良いですよね」

その店は駅に向かう大通りに面しており、よく繁盛していたが、やはり男の一人客はそこそこに目立ち、男も青年のことはぼんやりと見知ってはいた。

「君も、よく来てるよね」
「まあ、そうですね」

これが二人の出会いだった。





二人は店で居合わせるとなにを約束したわけでもなく、カウンターで並んで座る。そしてポツポツと会話を進める。食べ終わった方が席を立つ。
そんな関係だ。


「君、パン好きだよね」
今日口火を切ったのは男の方だった。
「え? ああ……好きですね」

青年の前にはホットサンドのセットが置かれている。男は苺とクリームのパンケーキセットである。
青年は二つ目のホットサンドを指の先で持つ。

「オレ、パン屋ですしね」
「えっ……へえ、そうなの」
「はい、米食うの嫌いだったんで」
「……お米が、嫌いなの…………?」
「そうっすね」

大きな一口でホットサンドの三分の一が消える。先に食べ終わるのはいつも青年の方である。

「アンタは何なんですか?」
「ん?」
「しごと」

また一口。もう殆ど残っていない。

「……あー…………僕はね、お化粧屋さん」
「おけしょうやさん」
「君にはあんまり馴染みないかな、リップとかそういうの売ってるの」
「ふぅん」

そう相槌を打つ青年の皿は空っぽになっていた。指に着いたパン粉をはらい、彼は少し考えた。

「……おけしょう、好きなんすか?」

「……まあね」
薄く笑って、目を逸らすが、
「じゃ、オレと同じですね」
後に続いた言葉で目を見てしまった。

「好きだから売るって、同じですね」
「同じ、かなぁ」
「違うんですか?」
言われて、はたと考える。
「……いや、同じ……なんだろうね」
「っす」青年は立ち上がる。その背中を男は見送る。これは繰り返しだ。


その昔、男が中学生だった頃。
少年だった頃。
彼は男が好きだった。
男が好きだから自分は女なのだと思った。
女になってみたいのだと思った。
だから母親の紅を自分の口にひいた。

その真っ赤な色は少年から酷く浮き出て、何も肯定することなく、黙って見ていた。
そこにいたのは真っ赤な口を無様に開けた自分でしかなかったのだ。
女にはなれなかった。
女では無かった、嬉しくもないし、悲しくもなかった。女ではない、なりたくもない、ぽっかりとした虚しさが赤い縁で存在しているばかりだった。

これは好きではない物だ。
何故なら化粧は女が好きな物で、しかし自分は女ではなく、絶対的に男であった。
男は化粧など好まないのだ。

少年は思った、女のように男に愛されたかった。しかしそれは女になりたいとは繋がっていなかった。片田舎の少年の自己分析はここで止まる。
自分が何か、本当に得体の知れない怪物のように思えたからだ。人間に混ざる様が気味悪いとすら感じてしまった。

その胡乱な実体が上手く掴めない少年は成長し、少しずつ大人になる。
二浪して入った東京の大学は、目が痛くなるほど騒がしく、街は混乱するほど多様な人種で溢れている。
その中で己の正体が、着々と、脳内で完成していくのを一種知的好奇心の中で喜んでいた。

気付けば故郷に帰る気など、まるで無く。ただ煌々と、胡乱な物へ光が射していた。
時が経ち、見えてくる。多くの怪物達はまだ胡乱な人間なのだ。

彼は、端的に人間だ。


「僕は男が好きで、お化粧も好きだったんだよね」


男の前には八割残ったバナナスフレのセットが並んでいる。青年は半分くらいなくなったハンバーガーのセットが。
あの質問から一週間後の今朝。
「アンタはなんでお化粧屋さんになったんですか?」という言葉から始まっていた。

男は語り終えてぼんやりとコーヒーを啜る。心なしか青年もいつもより長く咀嚼しているようだった。

「僕はね、女だから好きなんだとか、男だからこうだとか、本当に馬鹿馬鹿しいと、思うんだ」

青年は大きな一口を咀嚼し続けている。

「僕は男が好きだし、甘党、でもコーヒーはブラックで、お化粧が好きな男なんだ。
それを、過去の自分に教えてあげたくなったんだよ」

ぼんやりと湯気が立つコーヒーカップの縁は薄らと紅がひいてある。

青年は最後の一口を飲み込んで、席を立つ。そして黙って男を見下ろした。



「俺はパンが好きで、米は嫌い。男で女が好きだけど、アンタの事が気になってる」

薄い紅が縁取る男の口はぽかりと空いた。



「女が好きな男でもアンタが好きで良いよね。名前とか聴いてもい?」
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