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浮世小路
しおりを挟む日本橋から神田へ続く通りは江戸の町の目抜き通り。
我蛇丸の蕎麦屋、錦庵はその通りを曲がった浮世小路にあった。
ほど近くに越後屋、白木屋、松坂屋、大丸といった名立たる大店も数知れず。
浮世小路は俗に食傷新道と呼ばれ、上等な料理屋が両脇にズラズラと軒を連ねている。
この錦庵はそもそも大膳の父方の伯父、錦太郎が長年、一家で切り盛りしていたのだが後継ぎがいないために我蛇丸が引き継ぐことになったのだ。
大膳の父方は富羅鳥の忍びとは古くから縁故のある蟒蛇の忍びの一族であった。
いまだ富羅鳥で一番の権威を保つ婆様、お鴇は先代の頭領の娘で、兄弟がいなかったので蟒蛇の一族から次男の錦二郎を婿に迎えた。
婿は頭領にはなれぬのが富羅鳥の掟《おきて》で、錦二郎とお鴇の倅の大膳が若くして頭領となった。
我蛇丸が生まれた頃には先代は亡くなっていたので大膳は父方の蟒蛇の一族をおもんぱかって倅の名に蛇を入れたのであった。
ゴォン。
暮れ六つ(午後六時頃)の鐘が鳴った。
「まったく、見世物小屋の梁なんぞに上がりおって、ほれ、頭に蜘蛛の巣がくっ付いとろうが。さっ、晩ご飯の前に裏でザバッと水浴びせえっ」
鬼のシメに襟首を掴まれ、サギは裏庭の井戸端へ引っ立てられるとスッポンポンで盥に浸けられ、頭から水をザバザバと浴びせられた。
「ひゃっ、ひゃっこぃ」
手荒く頭が冷やされたおかげかフワフワと浮わついた気分もやや落ち着いてきた。
井戸端には物干し場があり、葦簀を立て掛けて路地からは目隠ししてある。
物干し竿にはおしめが風にタフタフと揺れている。
ハトとシメには昨年に生まれた雉丸という赤子がいるのだ。
ハトもシメも十歳やそこらの年齢からサギを子守りしていたので赤子の世話は馴れたものであった。
「ああ、干しっぱなして。気の利かん子守りぢゃ。――おマメ、おマメぇ」
シメはブツクサとおしめを取り込んで縁側から座敷へ上がっていく。
子守りには裏長屋で小唄の師匠をしている蟒蛇の一族の女の十三歳になる娘、おマメを雇っていた。
「あのハトとシメが夫婦になって赤子までおるんぢゃからのう。恐れ入谷の鬼子母神、びっくり下谷のなんたら寺ぢゃ」
サギは覚えたばかりの江戸っぽい言葉を言ってみたが、下谷の広徳寺までは覚えていなかった。
シメが庭下駄を脱ぎ捨てた縁側の沓脱石の脇に薄青色のアサガオの鉢が三つも並んでいる。
「ついでぢゃ」
パシャ。
パシャ。
サギは手桶の中から柄杓を取ってアサガオの鉢や路地の植え込みに水を撒く。
スッ。
ふと、植え込みの隙間から何か黒い影が素早く横切ったのがチラッと見えた。
「――何奴ぢゃっ?」
サギは柄杓を八双に構えてキョロキョロと辺りを見廻す。
足音もないので誰かが路地を通り過ぎた様子はない。
サギは何か黒い影に見覚えがあるような気がして、
「なんぢゃろ?」
柄杓を構えたまま、目をパチクリと瞬いた。
その夜。
「はぁ~、食うた、食うた」
サギはバッタリと寝床に大の字になってポンポンに膨れた腹を叩いた。
晩ご飯は浮世小路の近所の料理屋から取った出前であった。
鯛、鰻、鮹、貝と山では食べられぬ海の幸ばかり。
小柄なわりに大食らいのサギは一人で五人前は食べた。
なにしろ『一日千両の落ちどころ』と言われた日本橋と江戸橋に跨がる魚河岸が目と鼻の先。
夏には夕市も立ち、日本橋の北詰の一帯には魚問屋が多く並ぶ。
魚河岸の隣には鯛屋敷という海水を引いた広大な生け簀があり、そこには縁起物の鯛が常に大量に泳いでいるのだ。
山育ちのサギには夜風も魚臭いように思える。
縁側の戸は開け放って、蚊帳の萌黄色の麻越しに月が見える。
井戸端では我蛇丸がザバザバと水を浴びている。
オギャア。
ンギャア。
裏長屋から聞こえる赤子の泣き声は雉丸であろう。
裏長屋は八軒長屋で錦庵が家主の錦太郎店。
ハトとシメも錦太郎店の一軒に住まうている。
八軒長屋の店子はすべて富羅鳥と蟒蛇の忍びの者だ。
各々、忍びの正体を隠し、江戸で様々な仕事をしている。
行灯の灯油を惜しんで火を灯す住まいはなく裏長屋は真っ暗だ。
浴衣を着た我蛇丸が蚊帳をバサバサと振って寝床へ入ってきた。
枕を並べて寝るのも久しぶりであった。
「江戸は賑やかで、見世物は面白うて、出前は美味うて、今日は何から何まで、ええ一日ぢゃったなぁ――」
サギはとろとろと眠たげな声で言った。
「そうぢゃのう――」
相槌を打つ我蛇丸も妙にうっとりとした調子であった。
ゴォン。
夜五つの鐘が鳴った。
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