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カスティラ
しおりを挟むその頃、
桔梗屋の作業場では、
「――でな、児雷也があたしの手を引いて屋形船の中へ入ったんだわな。そして、児雷也が行灯の火をフッと吹き消して――」
お花が長々と夢の話を続けて、いっそう足をブラブラさせていた。
「ふんふん、して?それから?」
サギが話の先を促す。
「夢はそれまでだわな。乳母のおタネに起こされてしもうたもの」
お花は口を尖らす。
「なんぢゃあ。その先が気になろうがあ」
サギは長々と聞かされた話が尻切れトンボでは不満である。
「うん、あたしだって気になるわな。ほら、芝居でも逢い引きの場面は行灯を吹き消して真っ暗になると次の場面に変わってしまうだろ?何でだろの?」
お花は皆目見当も付かぬという表情。
マセているようでも箱入り娘のお花の逢い引きの知識はこの程度であった。
折り良く、
「焼き上がりましてござりますうっ」
小僧等が報せに大きな声を上げた。
お花とサギが作業台へ行くと、ちょうど熟練の菓子職人がカスティラの大きな木枠を外したところであった。
茶褐色に焼き色の付いたカスティラが作業台の上に現れた。
甘く香ばしい湯気がホワホワと立つ。
「ふわぁ、ええニオイ」
サギは湯気に顔を近付けて鼻に吸い込む。
「この端っこがカスティラの耳」
お花がカスティラの四辺を指差す。
切り分ける前のカスティラは分厚い座布団ほどの大きさだ。
「う、美味そうぢゃ。早よ、早よ、切らんかっ」
サギは厚かましく熟練の菓子職人をせっつく。
「もちっと辛抱だ。まだホヤホヤだから、切んのは冷めてからでねぇと切り口が潰れて焼き目がペロッと剥がれっちまうでな」
熟練の菓子職人が笑ってサギをいなす。
「ほら、ああして切るんだわな」
お花がすでに冷めたカスティラを切っている作業台のほうを指した。
桔梗屋ではカスティラを切るのに一尺七寸ほどの直刀を使っていた。
熟練の菓子職人が二人掛かりでカスティラの幅の特製の物差しを両側に当て、温めた直刀で丁寧に丁寧に均等に切り分けている。
「あんなノタノタした切り方だから潰れるんぢゃ。熱々でもシュパッと切れば潰れん。シュパッと。わしゃ、熱々が食べたいんぢゃっ」
サギはじれったく騒ぐ。
どうしても熱々が食べたい。
サギは作業台の上の直刀を掴んだ。
「あっ」
お花が止める隙もなく、
「うりゃあっ」
サギがカスティラに直刀を振り下ろす。
シュパッ!
電光石火!
カスティラ一刀!
まさに目にも留まらぬ早斬り。
薄く切り裂かれたカスティラの耳がヒラヒラと宙に舞い上がる。
サギは落ちてくるカスティラの耳をさっと盆で受け止めた。
「おったまげたっ」
小僧等は本日二度目のビックリと目を見開く。
「うひっ」
サギはカスティラの耳を顔の前にダラリと持ち上げて、
「ハフッ」
下から食い付いた。
「んぐんぐ、こりゃ美味いっ」
汁気のない甘い卵焼きのような味だが、饅頭の皮を分厚くしたようなフワフワの食感は初めてだ。
「お、おお、ピタリと測ったように真っ直ぐだっ」
熟練の菓子職人がカスティラに物差しを当てて仰天する。
あれほど忍びの者と知られるような振る舞いをしてはならぬと大膳から釘を刺されたというのに、これ見よがしに人前で剣術を披露してしまったが、サギは食い意地が勝って一向に気付いていなかった。
「ええなあ。お花はいつもこんな美味いもの食うとるのか?」
サギは一辺の耳ではまだまだ食べ足りない。
「うん。あたしゃ、いつもで飽きとる。カスティラの耳はうちの者だけで食べる決まりなんだわな。毎日、味噌汁の具や海苔巻きや大根おろしと醤油を付けてオカズにもしとる」
お花は昼の出前の蕎麦にもカスティラの耳を付け合わせて食べていた。
上等なご進物の菓子だけにカスティラの耳といえども近所へおおっぴらに配ったり、小僧や若衆の普段のオヤツにやるような値打ちを下げる扱いは桔梗屋の信条としてしないのである。
「こんな美味いもん飽きるかのう。ああ、美味い。美味いのう」
サギは熟練の菓子職人のお墨付きを貰ったのでカスティラの耳の残り三辺も次々と切ってはモリモリと貪った。
「――あのう」
一番年長の小僧の一吉がおずおずとサギに声を掛ける。
「お花様にご褒美を戴いた者はみんなにも、ちいっと分け前をやるものなんだけれど。――なあ?」
一吉が同意を求めると他の小僧等も当然とばかりにうんうんと頷く。
「へえ?」
サギはそんなことは思いも寄らなかった。
どうりで負けた者までカスティラの耳と聞いて大喜びしていた訳だ。
だが、
「わしはやらん。負けた者にまでやったら褒美じゃない」
サギは邪険に突っぱねた。
「鬼っ」
「けちんぼっ」
「勝手に駆けっこに飛び入りしたくせにっ」
「食いしん坊っ」
小僧等は口々に喚いたが、
「ああ、美味い」
サギはどこ吹く風とカスティラの耳を独り占めした。
それほど生まれて初めてのカスティラの耳は美味であったのだ。
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