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お払い箱
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大亀屋の座敷では、
(お葉にバレたら――)
(小梅の水揚げのことがお葉にバレたら――)
樹三郎が心の内でジタバタと焦っていた。
もう半時以上もただひたすらに心の内でジタバタと焦っていた。
先代の弁十郎は亡くなる半年前、孫の草之介が十五歳で元服すると桔梗屋の家蔵を草之介に譲渡して隠居した。
それがために表向きは樹三郎が旦那と呼ばれているが、桔梗屋に樹三郎の実権はないのである。
入り婿を跡継ぎにせずに祖父から男孫へ相続させるのはよくあることだ。
先代の弁十郎は賢明であったので美男というだけが取り得の樹三郎をまったく信頼していなかったに違いない。
樹三郎は一人娘のお葉に桔梗屋の跡継ぎを産ませるための種馬に過ぎなかったのだ。
(お葉にバレたら、桔梗屋から追い出されてしまう)
樹三郎は贅沢三昧の暮らしから貧乏に戻るのだけはイヤであった。
その時、
「ふわわ――」
小梅が退屈そうに大アクビをした。
(この、無礼千万なっ)
樹三郎はカッと一気に頭に血が昇った。
(お葉にバレたら、小梅の水揚げもおじゃんだ)
(あれだけ金をつぎ込んで)
(それなら、いっそ、バレる前に――っ)
「小梅――っ」
樹三郎は興奮状態でガバッと小梅の肩を掴んで畳に押し倒した。
あわや、落花狼藉。
と思いきや、
小梅はそんなか弱い娘ではない。
「何しやがるっ」
小梅はキッとなって両手の爪を猫のように立て、樹三郎の両頬を思いっ切り引っ掻いた。
バリッ!
「ぐあっ」
樹三郎はあまりの痛みに両手で頬を押さえて畳にゴロゴロと転がった。
三味線の稽古で糸を押さえる爪がVの字に磨り減った糸爪なので小梅の爪は良い具合にギザギザの凶器であった。
「誰かぁあ、助けてえぇえっ」
小梅はわざわざ廊下へ顔を突き出して叫んだ。
「どうしたえっ?」
大亀屋の女将、番頭、女中がドタバタと駆け付けてくる。
「だ、旦那が、松千代姐さんを座敷から追い出して、あたしだけにして、て、手込めにしようとっ。わあぁああっ」
小梅は女将にしがみついて大袈裟に泣き喚いた。
「――いや、ち、ち、違う――っ」
樹三郎は言い逃れをしようとしたが、本当のことなので上手く誤魔化せる言葉が見つからない。
「……」
大亀屋の女将も番頭も女中も侮蔑の笑みを浮かべたような顔で樹三郎を見ている。
「……」
樹三郎の背に冷たい汗が一筋、伝った。
「旦那?あまりにご無体が過ぎますと桔梗屋の暖簾に泥を塗ることになりまするえ?」
女将が居丈高に下目使いで樹三郎を見下ろす。
大亀屋は玄武一家の営む料理茶屋でこの女将は玄武の親分の妾である。
博徒の妾だけに裏では賭場で片肌脱ぎして丁半博打のツボ振りをしている女賭博師の凄みのある美人だ。
「女将さん、あたし、もう桔梗屋の旦那なんざイヤッ。水揚げは駿河屋か上州屋か伊勢屋か近江屋か加賀屋の旦那の誰かに代えて下さりましなっ。わあぁああっ――」
小梅は豪気に泣き叫ぶ。
「まあまあ、小梅、気を落ち着けてな。あとで蜜乃家の熊蜂姐さんとよう話さっしゃい」
「グスングスン――」
小梅は泣きながら女中に支えられて女将の部屋へ連れていかれた。
「ゲスが」
番頭は樹三郎へ聞こえよがしに吐き捨てて廊下を戻っていく。
(な、何ということだ――)
樹三郎は何か不穏な動きを感じた。
大亀屋の女将と番頭の自分に対する態度がやけにぞんざいではないか?
もしや、草之介と蜂蜜が夫婦になるという約束がまとまったので自分はお払い箱なのでは?
玄武一家にとっては草之介がいればいいのだから、樹三郎は必要ないのだ。
どっちにしろ金の出所は同じ桔梗屋だ。
あんな無礼な態度をして樹三郎が「こんな店、もう来てやらんっ」と怒ったとしても大亀屋には痛くも痒くもないのだ。
「ううぅ――」
樹三郎は裏で何者かが自分を陥れようとしているのではないかと懸念を抱いた。
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