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神鳴り
しおりを挟むあくる朝。
「はっ、やっ、とおっ、えいやっ、召し捕ったりぃっ」
ドカッ。
バタッ。
錦庵の裏庭でサギは一人、まきざっぽうの束を振り廻し、地べたに叩き付け、暴れていた。
「何をやっとるんぢゃ?サギ?」
貸本屋の文次が起き抜けの寝ぼけ目で裏長屋の縁側から見ている。
「明後日の夜、神社で人攫いを捕らえる時の習練ぢゃっ」
サギは草之介と『金鳥』の引き換えに現れるであろう人攫いを捕らえてやろうと張り切っている。
我蛇丸とシメとハトは今朝も普段と変わらず錦庵の調理場で仕込みをしているがサギだけ暇なのだ。
「ふわわ、サギはガキぢゃのう」
文次はアクビしながら首筋の蚊に喰われた痕をポリポリと掻く。
「ガキぢゃないぞっ。春画ぢゃって見たんぢゃからなっ」
サギは胸を張る。
「そういうことを大威張りで言うところがガキなんぢゃ」
文次は座敷に戻って書物の山から得意先へ届ける本を選んで木箱に詰め始めた。
錦絵も何種類か選んで紙挟みに入れる。
「あっ?錦絵もあるんぢゃっ?」
サギは草鞋を脱ぐのが面倒なので裏長屋の縁側に四つん這いで上がっていく。
「おう、春画もあるぞ。これは貸本と違うて売り物ぢゃが『ついでにこんなのもござりますが?』と勧めるとほとんどの客は買うてくれるのう。ついでにとサラッと勧めるのがコツぢゃ」
「ほおお、あっ、河童と海女さんの絡みぢゃ。うひゃひゃ、あっ、こっちは男色ぢゃな。坊さんと陰間ぢゃ。へんちくりんな格好。うひゃひゃっ」
サギは足をバタバタして大笑いした。
「お前はそういうもん見てムラムラ~とはせんのか?」
文次がからかう目でサギを見た。
「ムラムラ~と?何で春画を見て腹が立つんぢゃ?」
サギはキョトンとする。
「いや、腹が立つのはムカムカ~ぢゃろうが?ムラムラ~で立つのは――まあ、言わんとくが、サギはまっことガキなんぢゃのう」
文次は呆れ果てる。
「……?」
サギは首を捻った。
どうやらムラムラ~とすると大人の証らしい。
「ようし、ムラムラ~ぢゃなっ」
サギは縁側から裏庭へピョンと飛び戻ると拳を握り締めて気合いを入れた。
一日も早くムラムラ~を覚えて文次をビックリさせてやろうと思った。
朝四つ半。(午前十一時頃)
錦庵が暖簾を出すと、
「ご免なさいよ」
今日も芸妓の松千代と半玉の小梅が連れ立ってやってきた。
「いらっしゃいぃ」
ハトは小梅の悩殺の笑みにまたしても鼻の下を伸ばす。
「ふんっ」
シメは芸妓の二人が気に食わぬので調理場から出ていかない。
「お待たせ」
我蛇丸が素っ気なく盛り蕎麦と卵焼きを小上がりの座敷に置いて調理場へ戻っていく。
「ああ、無愛想な男って燃えるねえ。余計にメラメラしちまう」
松千代が身悶えしながら小梅に言う。
「メラメラ?ムラムラ~ぢゃないのか?」
サギがいきなり座敷の二人の間に顔を突き出した。
「おや、サギ」
小梅がニッコリする。
「何だえ?この子は人聞き悪い。ムラムラ~ぢゃなくてメラメラ。闘志に燃えてんだからね、あたしゃ」
松千代はしかめっ面をサギに突き出す。
「むむ――」
サギもにらめっこのように松千代と睨み合う。
「これっ、サギ、店に出るんぢゃない」
シメがサギの襟首を掴んで調理場へ引っ張っていく。
「でさ、無愛想な男が何で燃えんのさ?」
小梅は話を戻してスルスルと蕎麦を啜る。
「そりゃあ、昔っから『男は三年で片頬』と言ってね。三年にいっぺん片頬で笑うくらいがちょうどいいんだえ。男は寡黙で苦みばしってなきゃ色気がないやね」
松千代はそう言うが、勿論、我蛇丸はそんな苦みばしった男ではない。
調理場では我蛇丸がニヤリと片頬で笑ってみせて、ハトもニヤリと片頬で笑ってみせて、サギもニヤリと片頬で笑ってみせてと三人で黙ったままニヤリニヤリと遊んでいる。
「小梅、お前だって四十歳過ぎの渋い旦那が好みっていつも言ってんぢゃないかえ?」
「うん。そいでさ、あたしの水揚げ、加賀屋の旦那に代えてくれるんだって。夕べ、熊蜂姐さんが大亀屋の女将さんと話してそう決めたってお言いでさ」
「へえ?桔梗屋の旦那に決まってたのに、そんな邪険なことしていいのかえ?」
「うん。何かね、桔梗屋の羽振りの良いのはこれまでなんだってさ。もう桔梗屋の旦那は今までみたいな贅沢三昧は出来なくなるって大亀屋の女将さんがお言いだったって」
小梅は卵焼きをモグモグしながら話す。
「――?」
調理場の我蛇丸、ハト、シメは怪訝に顔を見合わせた。
まるで大亀屋の女将は桔梗屋がこれから『金鳥』を手放すことを知っているかのようではないか?
「あたしゃ、水揚げが加賀屋の旦那に代わって嬉しいんさ。桔梗屋の旦那なんざ年齢は四十でも見た目は若くて十九の若旦那と兄弟みたいだったろ?ちっともあたし好みぢゃないもん。男は渋みがなきゃあ」
小梅は渋好みなので金煙で二十代の頃と変わらぬ若さを保っていた樹三郎には魅力を感じなかったらしい。
「ふうん」
サギは暖簾口から店を覗いていた。
この話は伝言サギでも桔梗屋へ行ってお葉とお花にペラペラしゃべってはならぬと察せられた。
そのうち、
ゴロゴロ――、
にわかに表が暗くなってきた。
「おや?雷様かえ。なんだか、ザッと雨になりそうだえ」
「そんなら、長唄の稽古、怠けっちまおう?」
「そうだねえ。雨だし、仕方ないやね」
松千代と小梅は雨で長唄の稽古へ行かれぬ口実が出来たとばかりに喜んだ。
三味線は湿気で皮がすぐに剥がれてしまうので雨の中は持ち歩かぬものだ。
「あっ、降りそうだ。急いだがいいね」
松千代と小梅は戸口から灰色の空を見るや小走りで小路を抜けていった。
カラコロ。
カラコロ。
下駄の鳴る音が遠のいていく。
「雨かあ。そいぢゃ、今日は桔梗屋へ遊びに行くのはよしとくかのう」
サギは調理場の水口から空を見上げる。
もうポツポツと雨粒が落ち始めた。
何故、張り子の虎でもあるまいに雨降りでみな外へ出られぬのかというと、この時代の日本橋は雨が降れば通りが川になると言われたほどだからである。
一方、同じ頃、
「あのう、今日は旦那様は?」
桔梗屋では暖簾を出す時分になっても樹三郎の姿が見えぬので三番番頭が不審げに奥へ訊ねた。
「ああ、昨晩からお加減が優んでなあ。なに、お医者様に診せるほどではないから心配はいらんわなあ」
お葉は適当に誤魔化して奥の棟へ戻っていく。
「今朝は旦那様の朝ご飯も奥様が寝間へ運ばれて、わし等を中へ入れんようになさっておられるんだわいなあ」
「やはり、旦那様はあの頬の引っ掻き傷を見られたくないのでござりましょう」
おクキと銀次郎は台所の板間でコソコソと話して頷き合う。
二人は樹三郎が頬の引っ掻き傷で人前に出られぬゆえの仮病であろうと思っていた。
奥の棟では、
「はあぁ」
九歳ほどの樹三郎が蚊帳の中の寝床で自分の小さな手を眺めては嘆息していた。
「ほんに困りましたわなあ」
お葉も嘆息した。
ゴロゴロ――、
空までドンヨリと暗雲が立ち込めている。
「ああ、雷様だえ。きっと天罰だわなあ。わしのお父っさんは雷で馬が暴れて落馬して死んでしもうた。『金鳥』を軽々しゅう扱うた者には天罰が下るんだわなあ」
お葉は九歳ほどの樹三郎を脅すように言った。
あまりに欲を掻いた樹三郎を少しは懲らしめてやりたかった。
「――ぅ――」
九歳ほどの樹三郎は童のようにメソメソと泣き出した。
「まあ、小そうなったのをいいことに泣いて誤魔化して――」
お葉は恨めしげに九歳ほどの樹三郎を見やる。
美男の樹三郎の九歳ほどの姿はそれは可愛ゆらしいので苛めているようで気が引けてしまう。
「はぁあ――」
お葉はまた嘆息した。
若返りの『金鳥』には対の年寄りの『銀鳥』というものがあることを二人はまったく知らなかった。
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