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疑心暗鬼
しおりを挟むあくる朝。
「とうっ、ていっ、うりゃあっ、そりゃあっ」
サギは座敷で蚊帳を振り廻し、人攫いの一味を捕獲する習練をしている。
「あ~、サギの声がやかましいで寝ちゃおれん」
貸本屋の文次が裏長屋の縁側へ出てきた。
「いよいよ今夜、人攫いを引っ捕らえるんぢゃからなっ」
サギは蚊帳を握り締めて武者震いする。
「おうい?我蛇丸ぅ?サギを連れていくなんぞと言うたのか?」
文次が裏庭から調理場の水口へ声を掛ける。
「いや、サギは連れていかんぞ」
我蛇丸は卵の入った大鉢を菜箸でチャカチャカとかき混ぜながら水口から裏庭へ出てきた。
「ええっ?わしゃ、行くぞ。わしが人攫いを捕らえるんぢゃっ」
サギはバチャバチャと裸足で裏庭へ駆け下りた。
昨日の雨でまだ地面がぬかるんでいる。
「お前が人攫いを捕らえる必要はない。ほっとけ」
チャカ、
チャカ、
我蛇丸は卵を混ぜる手を一時も休めず。
「イヤぢゃ。わしゃ、行くっ」
サギは食い下がる。
「お前は邪魔ぢゃ」
チャカ、
チャカ、
卵を混ぜる混ぜる。
「ううう――」
サギは我蛇丸を睨み付けて犬のように唸った。
「お、いかん。鉄鍋が熱し過ぎる」
我蛇丸が調理場を振り返って釜戸の火に掛けた鉄鍋を見やった。
「――隙ありっ」
サギはまきざっぽうを我蛇丸の頭へ振り下ろす。
「おっと」
我蛇丸はスイッとまきざっぽうを避けた。
「わ――っ」
まきざっぽうが空振りして地面を打つ。
ボチャッ!
おまけにぬかるみで足が滑る。
バシャッ!
サギは地面に大の字で倒れ込んだ。
「たわけ。『隙ありっ』なんぞと言うてから殴り付ける奴があるか。何のための隙ぢゃ」
シメが呆れ顔で縁側から下りてきて井戸端で洗濯を始めた。
「ううう――」
サギは大の字のまま唸りながら涙が出てきた。
我蛇丸はサギに目もくれず調理場へ戻って卵を焼き始める。
ジュワ~、
甘い香りが立つ。
釜戸の直火で焼くには自分が重たい鉄鍋を持ち上げて火から離して火加減を調節しなければならない。
力仕事だから料理人は男の仕事なのだ。
「サギも食うか?」
我蛇丸が菜箸で器用に卵焼きをクルッと丸める。
「うん」
サギは涙を呑んで泥だらけの顔で頷いた。
ここは諦めたような顔を見せておいて、夜にこっそりと神社へ行けばいいのだと思った。
朝四つ半。(午前十一時頃)
錦庵が開店すると、今日も今日とて小梅と松千代がやってきた。
芸妓は朝が遅いので朝と昼のご飯を兼ねているようだ。
「今日はあったかい蕎麦で、しっぽくにしよっと」
「そろそろ温かい蕎麦も良いねえ。あたしゃ、花巻にしよう。それと卵焼き」
しっぽくは蒲鉾、花麩、卵焼き、かしわ、小松菜などがのった蕎麦。
花巻は細かく刻んだ浅草海苔がのった蕎麦。
どちらも江戸時代には蕎麦屋の品書きにあったらしい。
「――あ、小梅とマッチョ姐さんぢゃ」
サギはいつもどおりにパタパタと店へ出ようとしたが、
(あ、いかん)
ハタと小梅が敵の味方かも知れぬということを思い出した。
暖簾口で出ようか出まいか迷って暖簾から顔を出したり引っ込めたりする。
「サギ?どしたんだい?やけにソワソワしちまってさ」
小梅は何食わぬ顔でサギに声を掛ける。
「うっ、何でぢゃ?」
サギはドキンとした。
「だってさ、浮かれてるみたいだよ。ははん、さては今日、何か楽しみなことでもあんだろ?」
小梅は悪戯っぽい顔して訊ねる。
「う、ううんっ、何もないっ。ないぞっ」
サギはブンブンと首を振った。
(カマを掛けられとるんかも知れん。用心ぢゃ)
「わしゃ、いつもどおりぢゃ。小梅こそ今日は何かあるのか?」
サギも探りを入れてみる。
「あたしもいつもどおりでお座敷さ。なんせ売れっ子だからね」
小梅はケロッとして言う。
「ふ、ふうん」
サギは小上がりに腰を掛けて足をパタパタさせた。
明らかに落ち着きがない。
「はあぁ、サギめ、あれぢゃあ、今日、何かあると教えているようなものぢゃわ」
シメはやれやれと吐息して、角盆にしっぽくと花巻の蕎麦の丼をのせると、
「ほれ、我蛇丸」
角盆をグイッと我蛇丸の脇腹に押し付けた。
「へい、お待ち」
我蛇丸は無愛想にしっぽくと花巻の角盆を置きながら、小梅の顔を見やった。
我蛇丸は知らぬが小梅は我蛇丸の従妹なのだ。
「……」
小梅は怒ったような顔で我蛇丸を見返す。
「ごゆっくり」
我蛇丸は無愛想に言って調理場へ戻っていった。
「ふん、我蛇丸さんったら小梅のことしか見やしない。やっぱり若い娘が好みなんだろうね。ああ、癪に障るぅ。もう通うのやめっちまおっかな」
松千代はふくれっ面で言って花巻の蕎麦をズボッと勢い良く啜り込む。
「え~?あたしゃ、鴨南蛮が始まるまで通うよ。錦庵は鴨南蛮が有名なんだって。鴨南蛮を食べなけりゃ錦庵は語れないって蕎麦通の旦那衆が言ってんだからさ」
小梅は熱心に鴨南蛮を連呼し、しっぽくの蕎麦をスルスルと啜る。
「鴨南蛮は冬ぢゃなあ――」
サギは鴨と聞いて遠い目をした。
小梅が錦庵で鴨南蛮を食べる頃にはサギはもう江戸にはいないであろう。
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