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なまくら
しおりを挟むゴォン。
朝四つ。(午前十時頃)
「わしはちょいと出掛けてくるよ」
草之介は母のお葉と顔を合わせず朝ご飯も食べずに桔梗屋の紋入りのつづら箱を担いで店を出ていった。
つづら箱の中には五百両が入っている。
小判五百枚はおよそ一貫四十六匁。(約5.5㎏)
ここ何年もカスティラより重いものを持ったことのない草之介には相当に重たい。
「ふう、ふう」
息を切らし、額に汗を浮かべ、ヨロヨロとよろけながら橋に向かって越後屋の辺りを歩いていると、
「おや?草之介ではないか」
前方から伯父の白見根太郎が橋を渡ってきた。
貧乏御家人といえど武士なので背後にはお供二人もちゃんと付いている。
「ちょうどこれから桔梗屋を訪ねるところだ」
根太郎はさっそく長女の縁談に必要な金の無心にやってきたのだ。
「父なら家にはおりませぬが」
草之介はどうせ金の無心かと苦々しく応じた。
「ああ、知っておるわ。それより、どこへ行くのだ?そんな荷は小僧にでも持たせたらよかろうて」
根太郎は店のつづら箱などを担いでいる草之介を興味深げに見た。
「お得意様にご挨拶へ廻るんでござりますよ。これはその手土産の品にござります。なに、こんな荷くらいで掃き掃除に忙しい小僧の手を借りるには及びませぬ。ははは」
草之介は苦し紛れに誤魔化すと、
「では、わしはお父っさんがおらぬ分まで寸暇も惜しまず働かなくてはなりませぬゆえ」
根太郎に会釈して、つづら箱を肩に担ぎ直すとまたヨロヨロと歩いていく。
「ほお、あのボンクラの草之介が珍しいこともあればあるもの。雪でも降らねば良いがな」
根太郎はいたく感心した面持ちで草之介の後ろ姿を見送った。
一方、桔梗屋では、
サギとお葉が茶の間でよもやま話をしていると、
「お嬢様、白見様がお出でに――」
一番番頭の平六が白見根太郎の来訪を告げに来た。
今日は女中のおクキがいないので番頭が取り次ぎをしているのだ。
ちなみに番頭三人は平六、角七、丸八とそこそこ考えた名である。
一番番頭と二番番頭はお葉とは年齢が近く、お葉をお嬢様と呼んでいる。
敢えて奥様と呼ばぬのは当時は若衆であった自分等よりも後から桔梗屋へ入り込んできて偉そうに旦那ヅラをしていた入り婿の樹三郎に対する反感の表れでもある。
番頭等はその樹三郎と同じくらい兄の根太郎のことも嫌っていた。
「やれやれ」
お葉はしぶしぶと茶の間を出て客間へ向かう。
「ふん、とっとと帰りゃがれ」
一番番頭の平六はさっそく箒を逆さまに立て掛けて、豆絞りの手拭いを被せてキュッと結んだ。
「何ぢゃ?それ?」
サギは不思議そうに手拭いでほっかむりした逆さまの箒を見つめる。
「これは逆さ箒と言うて、イヤぁぁぁな客が早う帰るようにまじないでござりますよ」
平六は「イヤぁぁぁな」と言うところで顔をクシャクシャにしかめた。
「しらみってのはイヤぁぁぁな客なんぢゃな?」
サギも真似して顔をクシャクシャにしかめる。
「そりゃもう、桔梗屋の疫病神、いや、神なんて勿体ない。ダニかシラミか油虫にござりますよ。さ、家中の箒を逆さに立て掛けておかねば」
平六は忙しげに家中の箒を逆さまに立て掛けに縁側を小走りしていった。
「ふうん?」
サギは当然のごとく盗み聞きするつもりで、お葉が客間へ入るのを見届けるとソロソロと忍び足で縁側を進み、次の間へ音も立てずにスルリと忍び込んだ。
「やはり、あの人はそちらの屋敷に行っておりましたか」
お葉はべつに心配もしていなかったので素っ気ない。
九歳ほどの樹三郎はこの先も兄の屋敷で世話になるらしいが、もはやお葉は樹三郎とは縁を切ったつもりなので根太郎とも何の義理もないのだ。
「いや、樹三郎のことなんぞよりも、そこで草之介にばったり出くわしてな」
根太郎はまずはお葉の機嫌を取るのが先決とばかり、今しがたの草之介のことを話して聞かせた。
「いやはや、驚いた。草之介があれほど熱心に商いに打ち込もうとは。まるで人が変わったようだ。いや、立派になったものだ」
大袈裟に草之介のことをおだて上げる。
「まあ、草之介が?てっきり、まだ寝ておるかとばかり思うたが、草之介が自ら進んでお得意様へ挨拶廻りに?」
お葉は驚いて目を見開いた。
にわかには信じられぬという表情だ。
「ああ、息を切らしながら重そうなつづら箱を担いでおったでな、わしが小僧に持たせたらとよかろうと言うたら草之介はこんな荷くらいで忙しい小僧の手は借りぬと申すのだ。いや、まったく感心した」
根太郎は実際に感心したので、この逸話は真実味を持ってお葉の心に響いた。
「まあ、あの草之介もいよいよ心を入れ替え、真面目に商いに励む気になったんだわなあ」
お葉はそう信じ込んで嬉し涙まで浮かべる。
なんという親の心、子知らずであろうか。
「ところで、お葉さん、実はうちの長女の美根のことなんだが――」
根太郎はズイと膝を進めて、さっそく本来の目的である金の無心のための話を切り出した。
「美根さんというのはお城へ奥女中に上がっておられる方でござりましたわなあ?」
お葉はどうせ金の無心だと分かっているが、わざと意地悪くはぐらかす。
「ああ、御仲居として御膳所のご奉公をしておるんだが」
根太郎は早く金の無心に話を持っていきたい。
(――おなかい?ごぜんしょ?)
サギは次の間で聞き耳を立てていた。
御仲居とは御膳所で献立の煮炊きすべてを司る職務である。
将軍様にお目通りを許されぬ御目見え以下の職階だ。
相変わらずサギはお城の職務などちんぷんかんぷんである。
「その美根だが二十七歳でお城を下がるので嫁入り先を決めてやらねばならん。せめて持参金を付けねば美根は嫁には行かれまい――っ」
根太郎はお葉に口を挟む隙を与えず早口で畳み掛けた。
「わしに似たせいで器量に恵まれぬばかりに、不憫で不憫で、う、う――」
さらに声を詰まらせ涙まで流してみせる。
奥女中には町人の娘ながら美しさを見込まれて御中臈に引き上げられ、将軍様の目に留まり腰元になった者も多くいるのに、美根は身分の低い御家人といえ、れっきとした武家の娘だというのに器量に恵まれぬために御目見え以下の御仲居である。
「まあ、なんと気の毒な――」
とにかく美しいことが肝心のお葉は器量に恵まれぬということが何よりも不幸に思えてホロリと袂で目頭を押さえた。
「持参金を――二百両――も付ければ良い縁談がまとまるかと――」
根太郎は平伏してお葉を上目遣いで窺う。
「ようござります。二百両でよろしゅうござりますね」
お葉はポンと二つ返事で承諾した。
草之介が真面目になったご祝儀のような気持ちである。
勿論、二百両がどんなに大金かも知らぬので惜しげもない。
「ははあ、忝ない。恩に着ますぞ」
根太郎はペタッとカエルのように這いつくばって頭を下げた。
空涙を流して頭を下げるだけで二百両もの大金が手に入るのだから、これほど楽なことはない。
お葉は奥の間へ行くと戸棚の千両箱から包封された百両を一つと二十五両の四つを取り出した。
これで包封はなくなってバラの小判だけになった。
残りは二百七十八両なり。
チーン。
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