94 / 294
もっけの幸い
しおりを挟む一方、その頃、
「そいぢゃ、また明日な」
「まいどありぃ」
サギが両替商から本石町へ戻る途中の通りで甘酒屋と別れてピョンピョンと五歩ばかり進んだ時、
「おい、甘酒屋、二杯くれ」
背後で男の声がした。
あの偉そうな声には聞き覚えがある。
(――まさか?)
サギはクルッと振り返った。
甘酒屋の客の侍はサギに背を向けて立っているが、その傍らでお供の若侍が手綱を引いている栗毛は黄金丸だ。
(美男侍ぢゃっ)
サギは思わぬ再会にドキドキと胸が高鳴った。
「うん、美味いぞ。ほれ」
美男侍はお供の若侍にも手ずから甘酒の盃を差し出している。
平身低頭して盃を受け取った若侍が美男侍の背後にポカンと突っ立っているサギに気付いて「おや?」という顔をした。
この若侍は昨日、目黒の粟餅屋の店先でサギと美男侍が大笑いしていたところへやってきた若侍である。
「……?」
おもむろに美男侍が振り返った。
「おっ?お前は昨日の猿踊りの小童ではないか」
「……」
サギは無言でコクコクと頷く。
美男侍が老中の田貫兼次の息子かも知れぬと思うと妙に緊張してしまう。
「わしは目黒の下屋敷から神田橋の屋敷へ戻る途中だ」
美男侍はサギと逢ったのが嬉しそうに笑っている。
「折良く出逢った。今、刷り上がったばかりだ。ほれ、お前も来るといい」
美男侍はお供の若侍に顎をしゃくり、心得た若侍は読売のような一枚刷りをサギに手渡した。
「――あっ」
一枚刷りを見てサギは思わず声を上げた。
それは会合のお知らせで『たぬき會』と書かれてある。
主催の名は田貫兼次。
やはり、美男侍は田貫の息子であったか。
「たぬき会――」
サギは一枚刷りの題名をじっと見つめた。
「ああ、たぬきは『他を抜く』と言って立身出世の縁起物だ。たぬき会というのは神田橋のわしの屋敷で五年も前から毎年、行っておる芸事の品評会のことだ。武士も町人も身分に関係なく、得意の絵、和歌、書などを持ち寄って展示し、唄、三味線、踊りなどを披露し、みなの投票で金賞、銀賞といった賞を選ぶ。まあ、趣味のお披露目の会だ」
美男侍は嬉々として説明する。
武家にとって遊芸は並々ならぬ関心事なのだ。
「ほお~――おっ?」
サギは一枚刷りに書かれた余興の演目にハッと目を凝らした。
演目には『屁放男の曲屁』『鬼武一座 児雷也の投剣』と書かれているではないか。
「へ、屁放男と児雷也が――っ」
なんという夢の競演であろう。
サギは興奮して一枚刷りを持つ手がフルフルと震えた。
「毎年、江戸で評判の芸人を余興に呼んでおるのだ。今年はなんというても屁放男と児雷也の人気が絶大というからな」
美男侍は手柄顔をする。
両国と浅草奥山の小屋で人気絶頂の花形芸人二人を同じ日に押さえるのには相当な金を積んだことであろう。
「行くっ。わし、必ず、行くぞっ」
サギは一枚刷りを両手で頭上に掲げて飛び跳ねた。
「うわぃ、屁放男と児雷也ぢゃあっ」
あまりにも嬉しいので勢い余って美男侍の肩の高さまで膝が届くほどに跳ねていた。
「はははっ」
美男侍は飛び跳ねるサギを眺めて愉快げに笑う。
五尺(約151㎝)くらい跳ねるのは珍しくもないという顔だ。
「――て、天狗か――?」
お供の若侍のサギを見る目には明らかに(只者ではない)という疑惑の色が浮かんでいた。
だが、サギは気付くこともなく美男侍と若侍の周りをピョンピョンと跳ね廻った。
「――あっ、そうぢゃ」
唐突にハタと気付いてピタッと止まる。
「のうっ?お花も一緒に行ってええぢゃろっ?お花はわしの襟首を掴んでブンブンブンブン揺するんぢゃっ。わしゃ一人で児雷也を見たら今度こそお花に絞め殺されてしまうんぢゃっ」
サギは美男侍の羽織の袖を掴んで必死に頼み込む。
「ああ、誰でも何人でも連れて来たらいい」
美男侍は寛容に頷いた。
「お花ぁあああああ――」
サギは貰った一枚刷りを天に突き上げて叫びながら桔梗屋へ走っていった。
人混みをジグザグに縫って通りを横切り、桔梗屋へ突進、
するや否や、
「――ぶ――っ」
いきなり鼻っ面に飛沫のような浪の花を浴びせられた。
「おっ、こりゃ、サギどん」
目の前に三番番頭の丸八が塩の壺を抱えて立っている。
「ちょうど今、イヤぁあああな客が帰ったので塩を撒いたんでござりますよ」
店の帳場で一番番頭の平六がまた顔をしかめながら言った。
どうやら金の無心に来た白見根太郎が帰った矢先らしい。
「うぺっ、しょっぱっ。なんぢゃもう。口に塩が飛び込んできおったぞっ。ぺぺっ」
サギは舌を出しブンブンと首を振って前髪や顔に付いた塩を振り落とす。
「ほれ、お茶だ」
小僧の八十吉が素早くサギに手渡してくれたお茶をグビグビと飲み干す。
大店では客にお茶を振る舞うので茶番の小僧がいるのだ。
「ふぃぃ、おったまげた。あっ、それより、お花はっ?」
サギは慌てて店の暖簾口から奥へ駆け込んだ。
「お花ならまだ稽古から戻らぬわなあ」
お葉が縁側に座って暢気そうに白猫を撫でていた。
そういえば稽古からお花が帰るのは昼ご飯の少し前くらいだ。
「お葉さん、ぢゃない、奥様、こ、これっ」
サギはお葉に一枚刷りを見せて昨日の目黒の粟餅屋から今日の甘酒屋までの美男侍との経緯を夢中で話して聞かせた。
「まあ、なんと、田貫様のお屋敷の催しにお誘いを――」
お葉は声を弾ませて、
「たしかに田貫様の若殿様は『誰でも何人でも連れて来たらいい』と言わしゃったんだわな?」
真剣な眼差しでサギに念を押す。
「うんっ、言うた。いや、言わしゃったっ」
サギは大きく頷く。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
14
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる