112 / 294
武士は相見互い
しおりを挟む一方、
「江戸ぢゃあぁぁあ」
サギは小松川から江戸へ戻ってきた。
まだ昼飯を食べる前から薪割りだの木登りだのと、ほどほどに身体を動かしたので人一倍すぐに減るサギの腹はペコペコだ。
「いと空腹になりにけりぢゃあ」
前方には食べ物の屋台がゴチャゴチャと並んでいる。
橋のたもと周辺は火災に備えて火除け地になっている広場であるが、それを良いことに勝手にみなが屋台を出しているのだ。
幕府はこの非合法の屋台も黙認していた。
「んふぃ、醤油の焦げるええニオイぢゃあ」
サギは香ばしいニオイをヒコヒコと辿っていく。
ニオイの元は醤油を付けて焼いている団子の屋台だ。
焼き目の付いた団子が四つずつ串に刺さっている。
「美味そうぢゃあ。十本くれっ」
サギは団子をせっせとひっくり返している爺さんに注文して屋台の横の縁台にドスンと腰を下ろした。
その時、
ビタンッ。
うっかりとサギの馬の尻尾のような長い髪がブンッと跳ねて背中合わせに座って団子を食べている若侍の頭にぶつかった。
「こりゃ申し訳ない。――あ、あれっ?」
サギが後ろを見やると見覚えのある若侍。
お庭番の八木明之丞であった。
「いえ」
八木は団子をモグモグと咀嚼しながら膝の上に広げた草紙から目を離さない。
まだサギに気付かぬようだ。
(うん?八木のメエさんは何を熱心に読んどるんぢゃ?)
サギは顎を八木の肩にくっ付けるようにして草紙を覗き込んだ。
「――小町娘恋風涙雨?――恋山春村?」
陳腐な題名と筆者名を声に出して読み上げる。
「えっ?わわっ、サギ殿ぉぉっ?」
八木は背後のサギに気付くと慌てふためきバサバサと草紙を膝から落とした。
「じ、実はぁ、戯作を書いてみようとぉ。その、人気の恋川春町のような戯作者を目指そうとぉぉ」
八木は相変わらずの震え声で照れ臭そうに打ち明けた。
「恋川春町っ?『金々先生栄花夢』の作者ぢゃなっ?わしも金々先生、読んだんぢゃっ」
サギは得意げに言うが主人公の金兵衛が目黒不動尊の粟餅屋へ来たところまでしか読んでいない。
江戸では黄表紙などの戯作者のほとんどが武士だ。
恋川春町は駿河小島藩、朋誠堂喜三二は秋田佐竹藩の藩士である。
春町は戯作だけでなく挿絵も自分で描くが、仲良しの喜三二の戯作の挿絵まで描いている。
これから春町と喜三二が黄表紙の両横綱となるのである。
なにしろ武士は仕事がなく閑暇をもて余しているので戯作に費やす時間はたっぷりあるのだ。
「ほお、そいで、八木殿が書いとるのはどんな話なんぢゃ?」
サギは焼き立ての団子を両手に持って、モリモリと頬張りながら訊ねた。
「い、いやぁぁ、それはぁぁ――」
八木はモジモジとはにかむ。
『小町娘恋風涙雨』は若侍と小町娘との恋物語という八木の熱い願望と激しい欲求とあらぬ妄想とをグツグツと胸の内で煮詰めて出来上がったモテない男の夢と希望の佃煮のような戯作であった。
「むむう――」
サギは八木が熱情のまま勢いに任せて書き殴ったらしき草紙の文字を見つめて唸った。
最初の題名と筆者名は丁寧な達筆で書かれているので八木は決して悪筆ではないのだが、本文の文字は徐々に走り書きのグチャグチャになっている。
「筆がのってくるとどうしても勢いが止まらずにぃぃ」
八木は困ったように頭を掻く。
「版元へ見せる前にきちんと清書せねば人には読めぬのでなかろうかと考えておったのでござるぅぅ」
「ふうん、わしには読めるがのう」
「えっ?読める?それにサギ殿は忍びの習いで達筆のはず、されば、一つお頼う申し上げまするぅぅ」
八木は両手で草紙を差し出してガバッと頭を下げた。
やはり頼みとは戯作の清書であった。
八木は清書する間があれば早く物語の続きを書きたいのだ。
「一枚二十文でいかがにござろうかぁぁ?」
「えっ?清書して代金をくれるのかっ?二十文というたら団子五本分ぢゃぞっ」
サギは喜んで引き受けた。
「では、戯作は五枚ござるので締めて百文、前金で――」
八木は百文束をサギに手渡した。
「清書する前に失くしたら大変ぢゃな」
サギは草紙の綴り紐から抜いた五枚を四つ折りにして懐に仕舞う。
「なに、それがしもお庭番の端くれ、己れで書いた文章くらい一言一句、違えずに頭に収まっておるのでご安心下されぇぇ」
八木は見くびってくれるなという顔をする。
そういえばヌ~ボ~としていても八木は将軍様の直属の密偵であるお庭番なのだ。
お庭番は代々世襲なので中には素質のない者もいるであろうが八木のお庭番としての能力はまだ明らかではない。
「そうぢゃ。みんなにもオヤツに団子を買うて帰ろうっ。ええと、台所の小母さんの子等の七人分も忘れちゃいかん。――爺さん、土産の団子、四十三本くれっ」
「四十三本っ?まいどっ」
団子屋の爺さんは大量の注文に大喜びだ。
サギはもう最初の十本で四十文、土産の四十三本で百七十二文、合わせて二百十二文も団子に使ってしまった。
「ところで、ここからは本業の話でござるが――」
八木は唐突にキリッと顔を引き締めた。
しかも、震え声になっていない。
(――へっ?メエさん、震え声でなく話せるんぢゃっ?)
サギは肩透かしを食った気になる。
「サギ殿が桔梗屋に潜入して早や四日が経ちまするが、捜査に進展のほどは?桔梗屋の奉公人の中におるという密偵の正体は掴めたのでござろうか?」
「み、密偵?桔梗屋に?」
サギは寝耳に水でポカンとした。
どうやら八木はサギが密偵の正体を掴もうと桔梗屋に潜入したと思っているらしい。
だが、サギはそんな話は何も聞いていない。
そもそも潜入捜査するために桔梗屋に入った覚えもない。
「富羅鳥城から盗まれた『アレ』を何者かが桔梗屋弁十郎に預けたのが十四年前の暮れ、ならば、その翌年に奉公に上がった人物が何者かが桔梗屋へ差し向けた密偵でなかろうかと――」
「へえ?奉公人はみな十歳から奉公に上がっとるんぢゃろ?」
「十四年前の翌年、つまり、十三年前に十歳で奉公に上がった人物でござる」
「ということは、今、二十三歳ぢゃのう。う~ん?」
サギは団子を咥えたまま首を捻る。
なんということか、
あれだけ二十三歳の人物の年齢について前振りしたというのにサギはまるっきり無関心であった。
あの時、サギはご飯のおかわりで頭がいっぱいだったのだ。
「無論のこと、我蛇丸殿も密偵の正体はとっくに突き止めておられようが、いかんせん確たる証拠がない。敵もさるもの、なかなか尻尾を出さぬのでござる」
八木は腕組みして難しい顔をする。
「よしっ、とにかく密偵の尻尾を掴めばええんぢゃなっ」
サギは縁台からバッと立ち上がると団子を天に突き上げ、
「わしに任せとけっ。うりゃあっ」
自信たっぷりに気炎を上げた。
それはそうと、密偵である証拠とは何ぞや?
よく分からぬが気合いだけは充分なサギであった。
そうして、本業の話が済むと、
「然らば、サギ殿、いずれまたぁぁ」
八木は普段のヌ~ボ~とした顔付きと震え声に戻って縁台から腰を上げた。
今までどこにいたのかお供二人がササーッと八木の背後に走り寄る。
武士は一人で外出してはならぬ決まりなので八木にも必ずお供が付き従っている。
(八木のメエさん、なかなか侮れん男ぢゃ――)
サギは去っていく八木の後ろ姿をじっと見つめた。
まったく身体が上下左右に揺れず、重心の定まった姿勢。
歩く姿を見れば剣術をしっかり稽古している侍だということは分かる。
ゴォン。
昼八つの鐘が鳴った。
(あっ、オヤツの時分ぢゃ。早よ帰らんとっ)
サギが土産の団子の風呂敷包みを背負って日本橋の通りまで戻ってくると、
「おや?」
浮世小路から岡持ちを下げて出てきた我蛇丸の姿が見えた。
岡持ちは温かい蕎麦を出前する時に入れる手提げ箱で丼が六つ入る。
我蛇丸は急ぎ足で通りの人混みを縫っていく。
何気なく歩いているようで岡持ちは常に水平に保たれたまま一分(約3㎜)も傾かない。
一滴たりとも蕎麦のつゆをこぼさぬのが錦庵の出前だ。
我蛇丸も忍びの能力を蕎麦屋の仕事でしか発揮していない。
「ふん」
サギは我蛇丸の後ろ姿を憎々しげに睨み付け、
(兄様、いや、我蛇丸めっ、三年も前から江戸へ来とるくせしおって、いまだに密偵の尻尾も掴んどらんとは偉っそうに威張っとるわりには役立たずぢゃなっ)
(お前等よりも先に密偵の尻尾を掴んで、わしをコケにしおったことを後悔させてやるっ)
(今に吠え面かかしてやるからのうっ)
敵対心を剥き出しに不敵にニヤニヤと笑う。
睨み目でニヤニヤ笑い、せっかくの器量良しも台無しである。
サギの腹は団子十本でポンポンに膨れているが、それ以上に闘志も満々に膨れ上がっていた。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
14
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる