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桃源郷
しおりを挟むそこへ、
「ただいま戻りました」
お花はお庭番の八木明乃丞を連れてきたので裏庭ではなく玄関から入ってきた。
乳母のおタネは来客を報せに奥様とサギのいる広間へ向かい、お花は八木を客間へ案内する。
八木のお供二人は玄関脇の小部屋で待機である。
「どうぞ、こちらへ」
下女中の反物選びでワイワイと騒がしい中庭に面した広間を避けて裏庭に面した縁側を通っていく。
桔梗屋の屋敷は前述のとおり店の後ろに細長い棟を組み合わせて五棟がHの字に建っている奥行きの長い長い造りである。
「ほおぉぉ」
八木は思った以上に広い桔梗屋の屋敷にキョロキョロしながらお花の後に付いていく。
すると、
裏庭で実之介がニョキニョキ草をピョンピョンと飛んでいるのが見えた。
「あれ、ミノ坊、何だえ?その遊びは?」
お花は童の新しい遊びかと訊ねた。
「あれはぁぁ」
八木も幼い頃にやっていたのですぐに忍びの鍛練だと察した。
「何で遊びなものか。これはサギに教わった飛ぶ鍛練だっ」
実之介は遊びと言われて心外そうにニョキニョキ草の鍛練法を話して聞かせる。
「へえ、ニョキニョキ草?なるほどなあ。それでサギはピョンピョンと高う飛べるんだわな。けど、なんで小さな頃から毎日毎日そんな鍛練をするんだろの?」
お花は首を傾げる。
「それはぁぁサギ殿のように富羅鳥の山奥で暮らすには必要不可欠な鍛練なのでござるぅぅ。山には恐ろしい熊がごまんとおるのでござるぅぅ。熊に出くわしたらピョンピョンと木の枝を飛んで逃げねば山奥ではとても生き残れるものではござらんぅぅ」
八木はもっともらしく説明した。
富羅鳥山には猿はいても熊はいないので咄嗟の出鱈目であるが、忍びの鍛練と知られてはならない。
「まあ、熊が?それなら飛ぶ鍛練をするのは当たり前だわな」
「そっかあ、熊に喰われんために飛ぶんだなっ」
お花も実之介も山奥で暮らす人々はみなサギのように高く飛べるのだと思い込んだ。
「あっ、これは弟の実之介ですわな。これ、ミノ坊、きちんとご挨拶おし」
お花は淑やかな行儀はどこへやら、八木にも普段の調子になった。
べつに八木に親しみを覚えた訳ではなく、ただ人通りの頻繁な往来と違って家では人目がないので気楽になっただけである。
だが、八木はお花との距離がにわかに縮まった気がして締まりなくデレデレとにやけた。
「へえ、いらっしゃいましっ」
実之介は元気にペコリとお辞儀した。
「もぉ、それぢゃ、まるで桔梗屋の小僧だわな」
お花は呆れ顔して笑い出す。
「ははは」
八木も朗らかな気分になって笑った。
桃の花のように可愛いお花の笑顔と作業場から漂ってくる甘ったるい菓子の焼ける香りは八木をホワホワと夢見心地にさせるに余りあった。
男ばかりのむさ苦しい武士の暮らしから比べたら、桃源郷のようだ。
こんなお気楽でほのぼのした善人の桔梗屋が富羅鳥藩主を暗殺し、藩外不出の秘宝を奪った冷酷非道の極悪人とどこでどう繋がっているというのか。
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