富羅鳥城の陰謀

薔薇美

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大道廃れて仁義あり

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 一夜明け、

「くかぁ」

 虎也は長屋の一軒の座敷の真ん中に大の字で眠っていた。

 足首には頑強な鉄製の足枷あしかせがはめられている。

 ここはおしまの住まう一軒であったが、お縞が出ていったらしく好都合に空き家になったので虎也を寝かせておいたのだ。

 家財道具は火鉢、鏡台、布団などがあったはずだが古道具屋にでも売り払ったのか、もぬけの殻であった。

 おそらくお縞は愛用の三味線だけ抱えて出ていったのであろう。

 どこへ行ったのやら分からぬが女子おなごだけの旅道中は厳しく禁じられているので女子が一人で関所を通ることは出来ない。

 お縞はまだ江戸のどこかにいるには違いない。


 コケーコッコッコ――

 鶏が鳴く。

 ニャアニャア――

 猫も鳴く。

 クルックルー――

 鳩も鳴く。

 おんぎゃあ、あんぎゃあ――

 赤子も鳴く。

 足枷で繋がれた囚われ者がいるとはおよそ思われぬありきたりの長屋の朝だ。

 障子戸の開いた縁側から朝日が照りつける。

「――うぅ、ん――?」

 虎也は眩しげに顔をしかめて目を覚ました。

「い、いてて」

 上体を起こすと何故か尻っぺたがジンジンと痛む。

 重みのある足首を見ると足枷で長い鎖に繋がれている。

(ああ、富羅鳥に捕まってしまったか――)

 己れのあまりの馬鹿さ加減に苦笑いするしかない。

 その時、

「――っ?」

 虎也はやにわに股ぐらに違和感を覚えてギョッとした。

 じんわり冷たい重みのある感触。

(も、も、漏らしている――っ)

 たちまち顔からサーッと血の気が引いていく。

 いくら眠り茸を食べてしまって半日も寝ていたとはいえ、十九歳にもなって寝小便とは。

(い、生き恥だ。よりによって富羅鳥に捕まったうえにこんな醜態を――)

 虎也はジタバタと焦った。

(気付かれぬうちに逃げ出さなくては――っ)

 繋がれているのは足だけで手は自由になる。

「――んぐうっっ」

 虎也は必死に足枷の鎖をぶち切ろうと渾身こんしんの力を込めて両手で引っ張ったが、鎖は太く切れやしない。

「はあ、はあ――」

 無茶をしたら自分の血管がぶち切れそうだ。

 そもそも、猫魔は忍びの仕事もなかったのだから、こんな目に遭うのも初めてなのだ。

「ち、ちくしょうっ」

 ガチャンッ。

 虎也は鎖を畳に叩き付けて半泣きになった。


 そこへ、

「おお、目が覚めたようぢゃのう?」

 ハトが裏庭から座敷を覗き込んだ。

「……?」

 虎也は(何だ?この小男は?)という拍子抜けしたような顔でハトを見やる。

 ハトは赤子の雉丸をおぶり紐で背負った緊迫感の欠片かけらもない格好だ。

「ああ、安心せえ。こんなことになろうかと、わしが夜中におしめを当てておいてやったんぢゃ。股引ももひきは濡れとらんぢゃろ?」

 ハトは普段と変わらぬ柔和な顔付きと口振りである。

「――え?」

 虎也は(まさか?)と尻を触ってみた。

 確かに履いているとび黒股引くろももひきは濡れておらず、中がかさばってモゾモゾする。

(――お――し――め――)

 虎也は慄然りつぜんとして危うく気を失うかと思った。

「ほれ、自分でおしめを外して井戸端でようく洗って干しておいたらええ。足枷の鎖は井戸端とかわやまでは届く長さにしておいてやるからの。まだ我蛇丸は寝とるから気付かれん。今のうちに早うせえ」

 ハトはそれだけ言うと錦庵の調理場へ戻っていった。

「……っ」

 虎也はすぐさま足枷の鎖をジャラジャラと音を立てぬように掴んで、厠へ走り込み、外したおしめを井戸端でザブザブと洗った。

 念入りにおしめは六枚重ねで当ててあったので股引にも少しも染みてはいない。

 これでもう寝小便の痕跡は跡形も残らず片付けることが出来た。

「――はあぁぁ」

 おしめ六枚を物干し竿に干し終えた虎也は安堵の息を吐きながら地べたにへたり込んだ。

 これほど心底からホッとしたことは火消のまとい持ちとして数多あまたの火事場をくぐり抜けてきた虎也を持ってしても初めてだ。

(あの小男のおかげで助かった――)

 おしめ洗いを取り繕うように井戸端で顔をザバザバと洗ってから長屋の座敷へ戻ると朝ご飯の膳が置いてあった。

 虎也が厠に入っているうちにハトが膳を運んできたのであろう。

 ハトが虎也の足枷の鎖が届く範囲に近寄らぬのは自分が虎也に逆に捕まってしまってはマズイからである。

 だが、

(この先、富羅鳥と一戦交え、わしが富羅鳥の忍びを木っ端微塵に始末することがあろうとも、あの小男だけには決して手出しをするまい)

 虎也はハトの気配りに厚く恩義を感じていた。


 一方、

「ハトは優しいのう」

 シメは調理場の釜戸に薪をくべながら、なんでも、お見通しという顔をした。

「いや、わしも眠り茸を食べて半日も寝とって漏らしてしもうた時のことを思い出したものぢゃけぇのう。あん時はシメに見られて、こっ恥ずかしい思いをしたものぢゃ」

 ハトが十五歳、シメが十四歳の頃のことだ。

「ハト。お前、もしや、こっ恥ずかしいざまを見られとるから、わしと夫婦めおとになったという訳かえ?」

「そりゃ違う。シメはあん時、誰にも言わず黙って着替えを持ってきてくれたからのう。見た目に似合わず優しい女子おなごぢゃと見直したんぢゃ」

「あ、あれは、仁義というものぢゃわ」

「わしぢゃって同じぢゃ。忍びたるもの仁義を欠いちゃいかん。それがたとえかたきであっても恥を掻かせることはならんのぢゃ」

 小男で童顔のハトとても、いっぱしの男子おのこである。

 ただ優しいように甘く思われたくはないのだ。

「……」

 シメは見た目に似合わず雄々しいハトの姿に見直したように惚れ惚れとしていた。
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