今更、話すことなどございません

わらびもち

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プロローグ

 机の上には上質な紙の手紙がいくつも重ねられていた。
 封蝋は全て同じ。見慣れた家紋が押されている。

「……呆れた。紙とインクの無駄でしかないわ」

 エセルはそれを開きもせず、迷いなく暖炉の中へと放り込んだ。
 ぱち、と小さな音が鳴り、炎が揺らめき手紙を飲み込んでいく。その光景をエセルは表情ひとつ変えずにじっと眺めていた。

「こちらの用件には耳も貸さなかったくせに、自分たちの用件は懲りもせず聞いてほしいというのね。本当……勝手な人たち」

 彼女の小さな呟きは誰にも聞かれないまま静かな部屋に溶けていった。
 暖炉の火が落ち着き、灰が静かに崩れる音だけが聞こえる。
 その時だった。

「──シスター・エセル」

 重厚な扉の向こうから、修道院長の柔らかな声が響く。

「はい、ただいま参ります」

 その声にエセルははっきりと返事をし、修道服の裾を整えた。
 一瞬だけ暖炉を振り返るが、すぐに興味を無くしたように視線を外す。
 燃え残りの灰はもう何も語らない。そこに未練などひとつもない。
 貴族の令嬢としての自分は、とうに捨てた。今の自分はただの修道女。それを胸に彼女は修道院長のもとへと向かう。

 扉を開けると、回廊の先にまるで聖母のごとく穏やかに微笑む老婦人が待っていた。


 エセルは、ある子爵家の一人娘
 優しい両親のもとで何不自由なく暮らしていたが、病により父が急逝したのを境に彼女の生活は一変する。

「お父様…………」

 父の葬儀を終えたエセルと母は住み慣れた屋敷を離れ、母の実家へと行くことが決まった。
 この国では女が家督を継ぐことは許されていない。
 どれほど長く屋敷に住み、どれほど家を支えてきたとしても、母と娘は“当主の妻と子”でしかなく、何の権利も持たない。

 規定に従い、家督は父の血を引く最も近い男――叔父の息子へと移った。
 それと同時にこの屋敷は彼のものとなり、母と娘は“前当主の遺族”として静かに立ち退く立場となった。
 この国では当主が死ねば、家は即座に次の継承権のある男子へと移る。継承権のない女にはその権利が与えられていない。
 
 父が息を引き取った瞬間から母とエセルは当主の家族ではなくなったのだ。
 “前当主の遺族”という立場は弔いが終わるまでの仮の名でしかなく、その期限が切れれば屋敷に留まる理由は一つも残らない。
 継承の儀は実に簡素なものだった。
 一族の男たちが名簿を確認し、血筋をたどり、最も条件に合致した名を読み上げる。そこに異議は挟めない。法がそう定めている以上、話し合いは不要だ。
 
 慣れ親しんだ門をくぐり、馬車に乗る前にエセルは一度だけ振り返った。
 目に映る屋敷の姿がこれで最後なのだと胸の奥で静かに確かめる。
 そのとき、自然と父の名が震える声で零れた。涙がこぼれないよう必死にこらえ、エセルは母の実家へ向かう馬車に乗り込んだ。
 心の奥に重く沈む思いを抱えながら馬車は静かに動き出す。

 母は何も口にせず、馬車の窓越しに流れる景色を静かに見つめていた。
 遠ざかる道々は母の胸の内の静かな波を映すかのようだった。
 
 そうしてしばらくは母の実家で祖父母と共に静かに暮らしていたが、それも長くは続かない。母の再婚が決まり、お相手の屋敷で暮らすことが決まったからだ。

 母の再婚相手はベネディクト伯爵。過去に王女が降嫁したこともある、由緒正しい家柄の当主だった。先妻との間には嫡男が一人いるらしい。

 正直なところ、エセルはこのまま祖父母の屋敷で暮らしたかった。
 慣れた場所を離れ、他人の屋敷で暮らすこと――その想像だけで胸の奥に小さな抵抗が芽生える。
 だが、母はそれを許してはくれない。

──いつまでも年老いた両親に迷惑をかけたくないの。

 そう言われては何も言えず、エセルは大人しく母に従った。屋敷を出るとき、優しい祖父母は「辛かったらいつでも帰ってきていいからね」と言ってくれてまた泣きそうになる。
 
 エセルたちを迎えに来た伯爵家の馬車は思わず身がすくむほど立派だった。
 その佇まいだけで相手の家格がはっきりと伝わってくるほどに。それだけでも十分に萎縮していたというのに、ベネディクト伯爵邸の広大な屋敷を目にした瞬間、さらに気後れした。ここでうまくやっていけるだろうか──と不安が胸を支配する。

 そんなエセルとは正反対に母は嬉しそうな顔で屋敷の門へと足を進めていく。
 不安に揺れる娘の存在など気づいていないかのように。その背中を見つめながらエセルは胸が苦しくなった。

(お母様は新しい旦那様のことで頭がいっぱいで、私のことなんて見えていないのね……)

 そう思った瞬間、体が急激に冷えていくような感覚が走る。
 目の前にいるのはかつての優しい母ではない。 “母親”ではなく“女”として微笑むその姿に言いようもない失望を覚えた。

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