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修道院の客人
エセルが孤児院へ奉仕に出ている頃、修道院には一人の来客があった。
関係者以外は立ち入ることすら許されない場所に姿を現す――それだけで客人の身分の高さがわかる。
応接間で客人と向き合っているのはこの修道院の長だ。彼女は懐かしさと愛情を滲ませた瞳で見据えている。
「ようこそお越しくださいました、ロザリンド妃殿下」
院長はゆっくりと歓迎の言葉を述べた。
客人は落ち着いた色のドレスをまとっていた。華美ではないがひと目で上質と知れる品で、その胸元には隣国王家の紋章が威厳をもって輝いている。
彼女こそ隣国の王妃にして、この国の王の実妹――ロザリンド。さらに、この修道院の長を務める王太后の娘でもあった。
「ご無沙汰しております、院長様」
鈴を転がすような可憐な声が応接間に響く。王妃は優雅な抑揚を帯びた口調で静かに挨拶を返した。
それはまさしく淑女の鑑と呼ぶに相応しい姿。院長は満足げに小さく微笑み、ゆるやかに口を開く。
「すっかり立派な貴婦人になられましたね。かつて学びを厭い、王宮を駆け回っておられたとは思えぬご成長です」
「まあ……お恥ずかしい限りです」
頬を赤らめる王妃に院長は目を細めた。
隣国の王妃とこの国の王太后――本来ならば緊張を孕んでいてもおかしくない顔合わせだ。だが、その場に満ちていたのは懐かしさと温かな愛情であった。
「……かつて野生児のごとく振る舞っておりましたわたくしが、今日このように在れますのもすべてはアスター卿のご薫陶の賜物にございます」
その時、ロザリンド王妃の目に微かに宿る熱を院長は見逃さなかった。
普通の者なら気付くことすらない、母だからこそ見抜ける娘の心の奥。
それは口に出すことも叶わぬ淡く儚い恋。院長は知っていた――ロザリンド王妃が王女だった頃、専属教師ヨハン・アスターに密かに心を寄せていたことを。
「本当に……あの方には感謝してもしきれません。あなたをここまで淑女にしてくださったのは、すべてあの方の尽力あってのこと――」
本来、妙齢の男性を王女の専属教師に充てることは褒められるべきことではない。
だが、当時は王女の教育を任せられるのは彼以外にいなかったのである。
ほぼ野生児と呼んで差し支えないほど破天荒な王女を普通の教師たちは皆、匙を投げてしまったのだから。
それでもヨハン・アスターは誠実で真面目、そして倫理観に満ちた人物だった。
他国へ輿入れする王女に手を出すことなど決してすることのない、絶大な信頼に値する人物である。
だからこそ王宮の人々は王女の教育を彼に任せた。その結果、かつて野生児同然であった王女は、どこに出しても恥じることのない淑女へと変貌を遂げたのである。
その後、二人は互いの近況を語り合った。親子といえど容易に逢瀬を持つことのできぬ立場である。数年ぶりの邂逅に話は自然と弾んだ。
「……ときに院長様──いえ、お母様。こちらに、アスター卿の忘れ形見がおられると伺いました」
いきなり王妃としてではなく、娘として問いかける彼女の言葉に院長は思わず顔を引き締めた。
「ええ……おりますよ」
「そうですか……。もしよろしければ、彼女にお目通り願えますでしょうか」
「……ロザリンド、彼女に会って何をなさるおつもりです?」
訝しげな院長の視線と王妃の視線が静かに絡み合う。しばしの沈黙ののち、王妃は神妙な面持ちで口を開いた。
「亡き恩師のご息女に会いたいだけですわ」
「嘘おっしゃい。あなたの立場でそれだけの理由で母国の修道院まで来るはずがない。正直に言いなさい。彼女に会って、何を言うつもり?」
母の顔で娘を叱責する院長に王妃はかすかに目を伏せる。しかし次の瞬間、静かな決意を宿して顔を上げた。
「お母様には隠し立ては叶いませんね。ならば正直に申し上げます。アスター卿のご息女を還俗させ、私の側に迎え入れたいのです」
院長はその言葉に眉をひそめた。
「迎え入れる? それは、どういう意味です」
「わたくしの侍女として迎え入れたい、ということです」
「それは了承しかねます。あなたもわかっているでしょう? ここにいる女性たちは皆、俗世で傷ついた者ばかりなのです。その事情も考えずに軽々しく還俗させたいなどと――許されることではありません。なにより、母国を離れ見知らぬ土地へ連れていくなどわたくしは承服できません。ようやくここで穏やかな日々を得たのです。それを再び俗世の荒波へ戻すなど、あまりに酷でございましょう」
そこにあったのは母の顔ではない。修道女たちを守る責を負う、修道院長の顔だった。
いかに隣国の王妃といえど、実の娘といえど、こちらの領分に軽々しく踏み入ることは許さない。覚悟を宿した厳しい眼差しを受け、王妃は一瞬言葉を失う。だが彼女は母の厳しい視線を正面から受け止め、わずかも退くことなく再び口を開いた。
「お母様……わたくしは決して軽い気持ちで申し上げているのではございません。アスター卿のご息女が、一生を修道院で終えるなどあまりにも惜しい。彼の子であれば優秀であることは自明の理。ならば、その才能を活かす道を示すべきではありませんか」
王妃の発言を聞いた院長は顔色一つ変えずにじっと見つめた。
まるで、心の奥底で何かを疑っているかのように。
関係者以外は立ち入ることすら許されない場所に姿を現す――それだけで客人の身分の高さがわかる。
応接間で客人と向き合っているのはこの修道院の長だ。彼女は懐かしさと愛情を滲ませた瞳で見据えている。
「ようこそお越しくださいました、ロザリンド妃殿下」
院長はゆっくりと歓迎の言葉を述べた。
客人は落ち着いた色のドレスをまとっていた。華美ではないがひと目で上質と知れる品で、その胸元には隣国王家の紋章が威厳をもって輝いている。
彼女こそ隣国の王妃にして、この国の王の実妹――ロザリンド。さらに、この修道院の長を務める王太后の娘でもあった。
「ご無沙汰しております、院長様」
鈴を転がすような可憐な声が応接間に響く。王妃は優雅な抑揚を帯びた口調で静かに挨拶を返した。
それはまさしく淑女の鑑と呼ぶに相応しい姿。院長は満足げに小さく微笑み、ゆるやかに口を開く。
「すっかり立派な貴婦人になられましたね。かつて学びを厭い、王宮を駆け回っておられたとは思えぬご成長です」
「まあ……お恥ずかしい限りです」
頬を赤らめる王妃に院長は目を細めた。
隣国の王妃とこの国の王太后――本来ならば緊張を孕んでいてもおかしくない顔合わせだ。だが、その場に満ちていたのは懐かしさと温かな愛情であった。
「……かつて野生児のごとく振る舞っておりましたわたくしが、今日このように在れますのもすべてはアスター卿のご薫陶の賜物にございます」
その時、ロザリンド王妃の目に微かに宿る熱を院長は見逃さなかった。
普通の者なら気付くことすらない、母だからこそ見抜ける娘の心の奥。
それは口に出すことも叶わぬ淡く儚い恋。院長は知っていた――ロザリンド王妃が王女だった頃、専属教師ヨハン・アスターに密かに心を寄せていたことを。
「本当に……あの方には感謝してもしきれません。あなたをここまで淑女にしてくださったのは、すべてあの方の尽力あってのこと――」
本来、妙齢の男性を王女の専属教師に充てることは褒められるべきことではない。
だが、当時は王女の教育を任せられるのは彼以外にいなかったのである。
ほぼ野生児と呼んで差し支えないほど破天荒な王女を普通の教師たちは皆、匙を投げてしまったのだから。
それでもヨハン・アスターは誠実で真面目、そして倫理観に満ちた人物だった。
他国へ輿入れする王女に手を出すことなど決してすることのない、絶大な信頼に値する人物である。
だからこそ王宮の人々は王女の教育を彼に任せた。その結果、かつて野生児同然であった王女は、どこに出しても恥じることのない淑女へと変貌を遂げたのである。
その後、二人は互いの近況を語り合った。親子といえど容易に逢瀬を持つことのできぬ立場である。数年ぶりの邂逅に話は自然と弾んだ。
「……ときに院長様──いえ、お母様。こちらに、アスター卿の忘れ形見がおられると伺いました」
いきなり王妃としてではなく、娘として問いかける彼女の言葉に院長は思わず顔を引き締めた。
「ええ……おりますよ」
「そうですか……。もしよろしければ、彼女にお目通り願えますでしょうか」
「……ロザリンド、彼女に会って何をなさるおつもりです?」
訝しげな院長の視線と王妃の視線が静かに絡み合う。しばしの沈黙ののち、王妃は神妙な面持ちで口を開いた。
「亡き恩師のご息女に会いたいだけですわ」
「嘘おっしゃい。あなたの立場でそれだけの理由で母国の修道院まで来るはずがない。正直に言いなさい。彼女に会って、何を言うつもり?」
母の顔で娘を叱責する院長に王妃はかすかに目を伏せる。しかし次の瞬間、静かな決意を宿して顔を上げた。
「お母様には隠し立ては叶いませんね。ならば正直に申し上げます。アスター卿のご息女を還俗させ、私の側に迎え入れたいのです」
院長はその言葉に眉をひそめた。
「迎え入れる? それは、どういう意味です」
「わたくしの侍女として迎え入れたい、ということです」
「それは了承しかねます。あなたもわかっているでしょう? ここにいる女性たちは皆、俗世で傷ついた者ばかりなのです。その事情も考えずに軽々しく還俗させたいなどと――許されることではありません。なにより、母国を離れ見知らぬ土地へ連れていくなどわたくしは承服できません。ようやくここで穏やかな日々を得たのです。それを再び俗世の荒波へ戻すなど、あまりに酷でございましょう」
そこにあったのは母の顔ではない。修道女たちを守る責を負う、修道院長の顔だった。
いかに隣国の王妃といえど、実の娘といえど、こちらの領分に軽々しく踏み入ることは許さない。覚悟を宿した厳しい眼差しを受け、王妃は一瞬言葉を失う。だが彼女は母の厳しい視線を正面から受け止め、わずかも退くことなく再び口を開いた。
「お母様……わたくしは決して軽い気持ちで申し上げているのではございません。アスター卿のご息女が、一生を修道院で終えるなどあまりにも惜しい。彼の子であれば優秀であることは自明の理。ならば、その才能を活かす道を示すべきではありませんか」
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まるで、心の奥底で何かを疑っているかのように。
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