今更、話すことなどございません

わらびもち

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崩壊の兆し

 ベネディクト伯爵家の玄関広間に外套の裾が静かに揺れる。
 屋敷の主は手袋を外しながら室内に足を踏み入れた。それはいつも通りの帰宅——であるはずだった。

「……騒がしいな」

 普段なら整然としているはずの屋敷がどこか落ち着きを欠いている。使用人たちの足音は妙に早く、視線は泳ぎ、ひそひそとした気配が廊下の奥に消えていく。

 すぐに執事が進み出て、屋敷の主である伯爵に深く一礼する。

「旦那様、お帰りなさいませ」

「随分と騒々しいな。何があった?」

 その問いに執事は一瞬だけ言葉を選ぶように間を置き、やがて静かに口を開いた。

「奥様と若様のあいだで……少々、口論がございました」

「口論だと?」

 伯爵の眉がわずかに動く。あの二人の間で今まで口論など起きたことはない。それどころか会話すらろくに交わしたことはなかったはず、と首を傾げた。

「その……奥様が、若様のご婚約についてご不満を漏らされまして」

 その先を言い切る前に、主の目が細められる。

「不満だと?」

 それを聞いた伯爵は不快を隠そうともせず眉根を寄せた。
 不満ならとっくに自分も抱えている。断りたくとも許されぬ屈辱的な婚約に不満を覚えないはずがなかった。
 それでも伯爵家の当主として家のために堪えているというのに、家の役にも立たぬ妻が不満を抱くなど到底面白いものではなかった。

「はい。その際に奥様が若様の頬を打たれました。それで若様の頬に、かすかですが傷が……」

「なに? アリオスの頬に傷だと……!」

 その瞬間、伯爵の表情が険しく歪んだ。近日中に顔合わせのため王女が屋敷へ来訪する予定がある。それが控えているというのに、息子の顔に傷などあっていいはずがない。

「よりにもよって、婚約を控えている義理の息子の顔に傷をつけたのか……」

 ここまで何も分かっていないとは、と伯爵は妻への失望を深めた。

「アリオスに手当ては施したか?」

「はい。そこまで深い傷ではないので、しばらくすれば治ると思われます」

「そうか……。それで、妻は今どこにいる?」

「今は部屋にいらっしゃいます」

 それを聞くや否や、伯爵は迷いなく妻がいる部屋へと向かっていく。その背には明確な苛立ちが滲んでいた。


♢♢

「……アリオスの顔に傷をつけたそうだな。君はいったい何を考えている? 近いうちに第二王女殿下との顔合わせがあるというのに……顔に傷だと? 先方にどう説明するつもりだ」

 妻がいる部屋へ足を踏み入れた伯爵は、開口一番そう詰め寄った。
 長椅子でうなだれていた妻エリザベートは夫から厳しい言葉を浴びせられ、びくりと肩をすくめた。
 
「な、なんですの、いきなり……」

「いいから答えろ。婚約が不満だとアリオスの頬を打ったそうだな? 婚約を控えている義理の息子の顔に傷をつけるとは……君はいったい何を考えている」

「ち、ちが……わたくしは……ただ——」

「言い訳は聞いていない」

 ぴしゃりと遮られ、エリザベートは反射的に叫んだ。

「わたくしは酒瓶を投げられたのよ!? それなのにあなたは心配もしてくれないの?」

「酒瓶だと……? アリオスが? それでどこか怪我をしたのか?」

「直接は当たらなかったから、怪我はしていないわ」

「そうか……」

 伯爵は妻の受けた仕打ちよりも、息子が暴力に及んだという事実の方に強い衝撃を受けていた。
 それと同時に息子が婚約相手の王女に暴力を振るうのではないかと不安を抱く。

「……揉め事ばかり起こすのは止めてくれ。君は伯爵家の夫人としての自覚がないのか?」

 伯爵の関心は家の体面のみ。義理の息子に酒瓶を投げられて項垂れる妻を気遣う情など微塵もない。
 それを察したエリザベートは涙を滲ませて「だって、だって……」と繰り返すだけだった。

「はあ……もういい。謝ることもできないとは……」

「そんな! わたくしが悪いと言うの? だって、アリオスはエセルを妻にするはずだったのよ。それなのに、王女と婚約だなんて……これじゃエセルをあなたの養女にしなかった意味がないじゃない!」

「……そうだ。エセル嬢を養女に迎えなかった行為は何の意味もない。ただの間違った行動だ。そんなこと、すべきではなかったんだ」

「……ッ! 今更そんなことを言わないで! アリオスがあんなことを望まなければ……エセルは家出なんてしなかったのに……」

「違う、アリオス一人のせいではない。それに賛同した私と君にも責任がある」

「は? わたくしにまで責任を負わせないで! すべてアリオスのせいよ! エセルを望んだことも、好きな子に意地悪するなんて子供みたいな真似をしたことも、全部アリオスがしたことじゃない。わたくしは関係ないわ!」

 どこまでも他責志向で己の行動をかえりみることのない妻に伯爵は底知れぬ失望を覚えた。

「……もういい。君には何を言っても無駄なようだ。近いうちに君にはこの屋敷を出てもらう」

「えッ……? 屋敷を出る? な、なにを言っているの……」

「その質問に答えるつもりはない。どうせ、言ったところで理解などしてくれないだろうから。とにかくこれは決定事項だ。そのつもりでいるように」

「え、あ……ま、まって! 旦那様……!」

 追いすがるエリザベートを振り払うように伯爵は足早に部屋を出ていった。
 後に残された彼女は何も理解できぬまま、ただ茫然と立ち尽くす。
 その姿を間者であるメイドが冷めきった目で見つめていた。

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