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第6話 長子城の戦い
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慕容永と、慕容垂。いわば燕の正統を巡っての争いは、慕容垂による侵攻という形で始まった。
長子城に拠点を構える慕容永のもとに慕容垂がたどり着くには、山を越えねばならない。そのために使われる道は二本しかない。軹関と井関である。軹関が広く、比較的なだらかな道であり、城を落とそうというほどの規模の軍を動員するにふさわしい。対する井関は狭く、急峻。下手に強行軍を出したところで、多くの脱落者を出すのが見えている。
ゆえにこそ、馮安は井関を重んじるべきである、と説いた。
あまたなす戦を経、もはや慕容永幕下において慕容垂の戦を知る将は少なくなっている。慕容永ですら、その例外ではない。
戦馴れした者ほど、己が勝利に高く値をつけるものである。勝利がただの僥倖に過ぎぬと、自らに常に言い聞かせ続けられる者など、どれだけいるだろうか。
慕容永、及びその臣下らの見立ては、ほぼ軹関で統一されていた。かたくなに井関攻めを唱える馮安に対し、名将も老いには勝てぬか、とばかりのまなざしがしばしば向けられたものである。
ただしそれは、馮安としても望むべき事ではあったのだが。
「馮安様、報せが届きました! 井関に軍影あり! 慕容垂軍と思われます!」
慌ただしく報告の木簡を持ち寄るのは、鮑遵である。
木簡を受け取り、内容を検める。確かにその旨が記載されている。それを確認すると、馮安は木簡を篝火の中に投げ入れた。
「なっ、慕容永様には――」
「報せが遅れたほうが、奴も長らく、偽の勝利に酔いしれておれようよ」
二報、三報と報せが届けば、慕容永も軹関の守り、どころではなくなる。慌ただしく長子城に戻ってくれば、怒りと焦りとを満面に浮かべ、馮安のもとに詰め寄った。
「これはこれは、陛下。よくお戻りになられた」
「白々しいまねを! 馮安、きさま、わかっておるのか! いまさら慕容垂が我らを許すはずもない、ならば、負ければ――」
「殺されましょうな。なに、願ってもなきこと」
こともなげに言ってのけた馮安に、慕容永、だけではない。
城内すべてのものが凍りつくかのようであった。
周囲を見渡す。
誰もが、次の言葉を見失っているようであった。
怒りのあまり、いまにも我を失いかねない慕容永。
対する馮安は、従容の極みである。
「ならば、申し上げましょう。この老骨に燕帝殺しの片棒をお担がせになったところまでは、お見事。晴れて慕容垂どのが、このしわ首をも狙いに参ることとなりました。ただ、ひとつ思い違いをしておられるようですな。この身、もとより慕容垂どののため転がし回ってござった。ならば、任果たせずば、処断を甘んじるだけにござる」
「き、きさま――!」
慕容永が剣を抜く。
が、ここは城内。馮安の周りにも多くの兵がある。拓跋珪のときとは違う。何が起こっているかを判じきれずとも、主の身が危ぶまれるのであれば、遅滞なく守りに回る。馮安の従える郎党とは、そのような者たちである。
「やり合いますか? それもよろしゅうございましょう。もっとも、その期をうまうまと見過ごす慕容垂どのでもございますまいが」
馮安の言葉は、慕容永はともかく、配下将らには深く突き刺さったようである。向けられる険気が、格段に萎んだのを感じた。
ここだ。
馮安が、裂帛の叫びを上げる。
「おのおの方に問う!」
ものものは射竦められ、やがてのろのろと馮安の方を向く。
「此は、誰ぞがための戦いか! 苻王へ叩きつけた憎しみは、代々を暮らした燕《えん》の地より引き離され、奴婢として我らを虐げんとされたが故ではなかったか! 我らの怒りは正当なもののはずである、だのに苻王の残党は我らに憎しみを示した! 憎しみが憎しみを呼ぶ、分かりきったことではなかったか! にもかかわらず、なぜこの期に及んで、我らは同胞に刃を向けておるのだ!」
慕容永が、懸命の冷笑を浮かべる。
「愚かなことを。先にも申したであろう、慕容垂では、拓跋の前に滅ぶしかないのだ。故に、別なる手立てを取れる慕容が率いねばならぬ」
「なるほど! 勝てば我らの手は同胞の血に染まり、負ければいたずらに拓跋の敵の勢いを損ねることで、拓跋に資するわけですな!」
馮安の発するひとことの毎、慕容永の周囲のものものに逡巡が広がってゆく。
馮安の後ろでは、武器を取り落とすもの、すすり泣き始めるものがちらほらと現れていた。
「繰り返しまするぞ、陛下。この老骨には、もはや慕容垂どのを妨げるだけの武を振るう大義がござらぬ。罪深きこの素っ首、喜んで差し出す所存にござる」
その一言が、決め手となる。
城内にいる誰もが、武器を投げ出し始めた。あるものは慟哭し、あるものは歯噛みする。
無論、誰もが慟哭を示したわけではない。中には長安よりの旅路の中で加わった者らもいる。とは言え、二人の軍主、その主力にくずおれられてしまっては。
慕容永の顔に、もはや余裕はない。怒りと混乱、そして恐れをも隠すことなく示し、後ずさりさえする。
「ばかな……死ぬための計略だと? 有り得ん、なぜそこまで愚かなまねを……」
そこには答えず、代わって、包拳を示す。
「行かれよ、慕容永殿。この老骨、そなたを殺す心積もりはない。さりとて殺される気もござらぬが」
これ以上問答をすれば、慕容垂に捕まろう。それを期しての包拳である。
こちらの意図に気づいたか、どうか。はっとした慕容永の顔が、ややあって憎しみの色に染まる。
「よかろうとも、馮安! きさまだけは拓跋の走狗に成り果てようとも、喰らい殺してくれる!」
言うなり、慕容永は撤退の号令を掛けた。
従うものも、存外少なくはない。これもまた、慕容永の手腕のたまものであったろう。
無論、馮安のもとに投降してくるものも、多い。受け入れはするが、ただちに武装を解かせる。ここから先に待つのは、裁きの場である。
馮安自身も平服となり、軽く身を清めた上で、城内の各員をねぎらって回る。あるいは、これが最後のあいさつとなるやもしれぬ――
「伝令! 慕容垂軍が到着しました!」
――などという感傷を、無邪気に受け入れてもらえると思うのが、愚か。それは、わかっていたはずのことであったのだが。
馮安は、大きく吐息をつく。
「長子城の士卒に命ずる。我らの身命は、いま、まことの燕主に委ねられた。抗うことなかれ、背くことなかれ。真主の妙なる威光を受け入れ切れなんだは、すべてこの身の不明なればこそである」
帯は解かぬまま、平服を肩脱ぎとする。老いさらばえた上体を日の下にさらし、城門より出で、叩頭拝跪する。特に命じたわけでもなかったが、馮安の後ろには、同じように振る舞うものが多くあった。
遠方より轟く、馬蹄の音。時を追うごとに音は激しさを増す。
ついには地すら揺るがせ、その懐かしくも恐ろしき軍気を、馮安の総身に叩きつける。
「見慣れた白髪が見えるな」
どうして、聞き違えよう。
馮安の耳を撃ったのは、他でもない。
慕容垂の、声であった。
長子城に拠点を構える慕容永のもとに慕容垂がたどり着くには、山を越えねばならない。そのために使われる道は二本しかない。軹関と井関である。軹関が広く、比較的なだらかな道であり、城を落とそうというほどの規模の軍を動員するにふさわしい。対する井関は狭く、急峻。下手に強行軍を出したところで、多くの脱落者を出すのが見えている。
ゆえにこそ、馮安は井関を重んじるべきである、と説いた。
あまたなす戦を経、もはや慕容永幕下において慕容垂の戦を知る将は少なくなっている。慕容永ですら、その例外ではない。
戦馴れした者ほど、己が勝利に高く値をつけるものである。勝利がただの僥倖に過ぎぬと、自らに常に言い聞かせ続けられる者など、どれだけいるだろうか。
慕容永、及びその臣下らの見立ては、ほぼ軹関で統一されていた。かたくなに井関攻めを唱える馮安に対し、名将も老いには勝てぬか、とばかりのまなざしがしばしば向けられたものである。
ただしそれは、馮安としても望むべき事ではあったのだが。
「馮安様、報せが届きました! 井関に軍影あり! 慕容垂軍と思われます!」
慌ただしく報告の木簡を持ち寄るのは、鮑遵である。
木簡を受け取り、内容を検める。確かにその旨が記載されている。それを確認すると、馮安は木簡を篝火の中に投げ入れた。
「なっ、慕容永様には――」
「報せが遅れたほうが、奴も長らく、偽の勝利に酔いしれておれようよ」
二報、三報と報せが届けば、慕容永も軹関の守り、どころではなくなる。慌ただしく長子城に戻ってくれば、怒りと焦りとを満面に浮かべ、馮安のもとに詰め寄った。
「これはこれは、陛下。よくお戻りになられた」
「白々しいまねを! 馮安、きさま、わかっておるのか! いまさら慕容垂が我らを許すはずもない、ならば、負ければ――」
「殺されましょうな。なに、願ってもなきこと」
こともなげに言ってのけた馮安に、慕容永、だけではない。
城内すべてのものが凍りつくかのようであった。
周囲を見渡す。
誰もが、次の言葉を見失っているようであった。
怒りのあまり、いまにも我を失いかねない慕容永。
対する馮安は、従容の極みである。
「ならば、申し上げましょう。この老骨に燕帝殺しの片棒をお担がせになったところまでは、お見事。晴れて慕容垂どのが、このしわ首をも狙いに参ることとなりました。ただ、ひとつ思い違いをしておられるようですな。この身、もとより慕容垂どののため転がし回ってござった。ならば、任果たせずば、処断を甘んじるだけにござる」
「き、きさま――!」
慕容永が剣を抜く。
が、ここは城内。馮安の周りにも多くの兵がある。拓跋珪のときとは違う。何が起こっているかを判じきれずとも、主の身が危ぶまれるのであれば、遅滞なく守りに回る。馮安の従える郎党とは、そのような者たちである。
「やり合いますか? それもよろしゅうございましょう。もっとも、その期をうまうまと見過ごす慕容垂どのでもございますまいが」
馮安の言葉は、慕容永はともかく、配下将らには深く突き刺さったようである。向けられる険気が、格段に萎んだのを感じた。
ここだ。
馮安が、裂帛の叫びを上げる。
「おのおの方に問う!」
ものものは射竦められ、やがてのろのろと馮安の方を向く。
「此は、誰ぞがための戦いか! 苻王へ叩きつけた憎しみは、代々を暮らした燕《えん》の地より引き離され、奴婢として我らを虐げんとされたが故ではなかったか! 我らの怒りは正当なもののはずである、だのに苻王の残党は我らに憎しみを示した! 憎しみが憎しみを呼ぶ、分かりきったことではなかったか! にもかかわらず、なぜこの期に及んで、我らは同胞に刃を向けておるのだ!」
慕容永が、懸命の冷笑を浮かべる。
「愚かなことを。先にも申したであろう、慕容垂では、拓跋の前に滅ぶしかないのだ。故に、別なる手立てを取れる慕容が率いねばならぬ」
「なるほど! 勝てば我らの手は同胞の血に染まり、負ければいたずらに拓跋の敵の勢いを損ねることで、拓跋に資するわけですな!」
馮安の発するひとことの毎、慕容永の周囲のものものに逡巡が広がってゆく。
馮安の後ろでは、武器を取り落とすもの、すすり泣き始めるものがちらほらと現れていた。
「繰り返しまするぞ、陛下。この老骨には、もはや慕容垂どのを妨げるだけの武を振るう大義がござらぬ。罪深きこの素っ首、喜んで差し出す所存にござる」
その一言が、決め手となる。
城内にいる誰もが、武器を投げ出し始めた。あるものは慟哭し、あるものは歯噛みする。
無論、誰もが慟哭を示したわけではない。中には長安よりの旅路の中で加わった者らもいる。とは言え、二人の軍主、その主力にくずおれられてしまっては。
慕容永の顔に、もはや余裕はない。怒りと混乱、そして恐れをも隠すことなく示し、後ずさりさえする。
「ばかな……死ぬための計略だと? 有り得ん、なぜそこまで愚かなまねを……」
そこには答えず、代わって、包拳を示す。
「行かれよ、慕容永殿。この老骨、そなたを殺す心積もりはない。さりとて殺される気もござらぬが」
これ以上問答をすれば、慕容垂に捕まろう。それを期しての包拳である。
こちらの意図に気づいたか、どうか。はっとした慕容永の顔が、ややあって憎しみの色に染まる。
「よかろうとも、馮安! きさまだけは拓跋の走狗に成り果てようとも、喰らい殺してくれる!」
言うなり、慕容永は撤退の号令を掛けた。
従うものも、存外少なくはない。これもまた、慕容永の手腕のたまものであったろう。
無論、馮安のもとに投降してくるものも、多い。受け入れはするが、ただちに武装を解かせる。ここから先に待つのは、裁きの場である。
馮安自身も平服となり、軽く身を清めた上で、城内の各員をねぎらって回る。あるいは、これが最後のあいさつとなるやもしれぬ――
「伝令! 慕容垂軍が到着しました!」
――などという感傷を、無邪気に受け入れてもらえると思うのが、愚か。それは、わかっていたはずのことであったのだが。
馮安は、大きく吐息をつく。
「長子城の士卒に命ずる。我らの身命は、いま、まことの燕主に委ねられた。抗うことなかれ、背くことなかれ。真主の妙なる威光を受け入れ切れなんだは、すべてこの身の不明なればこそである」
帯は解かぬまま、平服を肩脱ぎとする。老いさらばえた上体を日の下にさらし、城門より出で、叩頭拝跪する。特に命じたわけでもなかったが、馮安の後ろには、同じように振る舞うものが多くあった。
遠方より轟く、馬蹄の音。時を追うごとに音は激しさを増す。
ついには地すら揺るがせ、その懐かしくも恐ろしき軍気を、馮安の総身に叩きつける。
「見慣れた白髪が見えるな」
どうして、聞き違えよう。
馮安の耳を撃ったのは、他でもない。
慕容垂の、声であった。
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