空はまだまだ遠く

ウサギ様

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空はまだまだ遠い

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 かつての時代。 神話の最中。 人は空を飛んでいた。

 馬鹿馬鹿しい伽話でしかなく、誰もが親から聞かされて育っていたが、誰もがその話を信じていなかった。
 お天道様が見ていると本当に思っている奴は、何人いるのか。 かつての時代。 神話の最中。 そんな言葉を信じている者は、愚か者でしかない。

 人が空を飛べるはずもないのだから。 人は羽も翼もないのだから。

 けれど、けれどて、今この時こそが神話の最中。
 今この場は神話を信じる愚か者しかいない。 蒸気を吹き出す排気口の何十倍もの熱量が篭っていた。

 だが、一人の男だけにはその熱を感じることが出来ずに水を口に含ませていた。
 老人が熱を吐き出すように話す言葉も、熱が感じられなければただの空気の振動でしかない。

 「女には分からないか」。 多くの技師たちが老人の元に集まり鉄の船の完成を喜んでいる、男は遠くにその姿を視界に入れながらも、何度も少女に向かって発した言葉を思い出す。

 分からないのは自分ではないか。 蒸気や完成の熱も、空に届かぬ苦しみや蒸気に焼かれる痛みも知らない、感じることが叶わない。
 何度も罵った少女は、この熱気をよく感じていることだろう。

 少女はほとんど関わりを持っていなかったこともあり、その集団の中には入り込むことは出来ずに男の元でジッと技師たちを見ていた。

「かつての時代。 神話の最中ーー」

 男がゆっくりと口を開けば、少女は少しだけ驚いたように顔を上げる。

「お前は、何故ここにいるんだ?」
「……? ラノさんに連れて来られたからですよ」
「……聞き方が悪かったか。 何故、俺を師にした」

 吐き出した息は煙草の白い煙を伴って、低い声は煙草の煙と共に喧騒の中に消えていく。
 少女の見聞は悪くない。 まだ幼さの方が遥かに強いが、それにしても美しい花の蕾を思わせる程度には顔も整っていれば、何をやらせても要領がよく、特に料理や掃除などの女が家ですることは歳など関係ないほどに上手くやる。

 自分のことを「僕」と呼ぶような妙な癖のある娘だが、それでも少し時が経てば、この都市一の美しさを持つ少女などと持て囃してもらえることだろう。

 それが何を間違えたのか、こんな煙草と酒気と蒸気の臭いに満たされた場所にいる。 服装こそ見習いらしい格好をしているが、その程度ではこの場に似つかわしいように見えるはずもなかった。

 何故、明るく煌びやかな場所ではなく、蒸気が太陽を覆い隠すところにいるのか。
 男にとって、酷く不可解なことだった。 あるいは側から見れば当たり前のことだったのかもしれないが。

「女の身で、僕がここにいる理由……ですか」

 男はつまらなさそうに頷く。

「貴方が、僕を弟子にしてくれたからですよ」

 先程と同じような、要領を得ない答え。
 男は少女が何を考えているのかも分からないまま、ゆっくりと煙草を吸う。

 少女が男に弟子入りしようとした日、少女は酷く蒸気を恐れていた。
 弟子を取るつもりはなかった男はいつものように他の弟子入り志願者と同じように追い払おうとして、追い払う前に蒸気から逃げ出そうとしていた少女が物珍しくーー息が苦しくなるほど羨ましかったことを覚えている。

 人よりも熱に弱い。 人よりも痛みを恐れる。
 逃げ出そうとしていた少女は、永遠の三流技師の自分とは正に反対のようであり、思わず呼び止めた。

 「工房に来い」。 そのまま連れて行った少女は熱気に顔を歪め、鉄を加工するための場に一刻もいられなかった。
 初めから金槌を握りしめて鉄を下手にとは言えど、扱えた自分から酷く遠く輝いて見えたのだ。

 だとすると、少女がここにいる理由は「誰よりも蒸気を恐れているから」か。
 間違った選択とは思えない。 恐怖とは必要な精神の一つだ。 痛みが感じられぬからと怯えも知らずに物を作れば、思いがけない失敗をする。
 だからこそ、三流であり、その三流の男は空を飛ぶ船の製造に携わることをやめたのだ。

 ならば、人よりも恐れる少女は、一流になり得るのか。
 誰が考える、蒸気を恐れる物が蒸気を操る仕事に就くなどと。
 少なくとも今の時代では分かりはしない。 分かっている物がいるとすれば、それは遥か昔のこと。
 かつての時代、神話の最中ーー。 人が空を飛ぶのは、神話に向かうのは明日のことだ。

 ならば、神話に向かう道の一つとして、少女がその場にいてもいいだろう。

「お前、明日船に乗れ」

 少女は呆気に取られたような顔をしてから何度も首を横に振るう。

「無理です、無理。 怖いです」
「知るのはいい経験になるはずだ。 これから、蒸気はより発達していく。
俺の姿を見るだけでは足りなくなるだろう」

 男は立ち上がって老人のもとに行こうとして、少女に止められる。

「乗るだけのことだ。 落ちる心配もない。 落ちても下は海だから問題はない」
「じゃあ、ラノさんも一緒に乗ってくださいよ。 変な意地を張ってないで」

 男は不快そうに、いつも言っている言葉を少女に向けて息を吐き出す。

「女には分からないか」
「分かりませんよ。 好きなことから逃げる人の気持ちなんて。
でも、逃げてたら分かるものも分からなくなること。
女の僕でも、それぐらいは分かるから、だから」

 一緒に乗って。 その言葉を少女は飲み込んだ。
 男がいつもと変わらない表情で、なのに少しだけ情けなく見えたから。


◆◆◆◆◆◆


 暖かいどころか熱い床に、涼しいどころか寒い風、風吹く度に揺らされる船体は乗り心地が良いとは言い難かった。
 海岸にいるであろう男は遠く、少女は慌ただしくデータを取っている男達の間を抜けていく。

 空を飛ぶ船、感動的な状況なのかもしれないが、酷く船酔いし、吐き気を覚えるが吐き出すための場所もない。 
 熱いし寒いし、蒸気を起こす燃料の匂いも酷いものだ。

 試作品であるから仕方ないということも分かるが、少女にとってはあまり実用的なものには思えなかった。
 遊覧船にしては居心地が悪すぎる。 運搬用にしては軽いものしか運べない……。 その上酷く燃料を食って、維持費もほとんど札束を燃やしているようなものだ。

 だからなのか、師匠である男も乗るべきだったのだと思う。 空がそこまで良いものか、と小さく呟いて。

 初めての飛行はそう長いものではなく、軽く実施試験を終えた程度で終わった。 夢の話にしては夢のない短い時間だ。

「どうだった」
「大したものではないと思いました。 ……使い道も分からなかったです」
「そうか」
「あと、揺れもすごくて、吐きそうになりました」

 少女は続けて言おうとして飲み込むように口を噤んだ。
 言っていいものか、ダメなのか。 分かりもしないが、だったら言わないほうがいい。

「それだけか」
「……はい」

 男は少女の頭を撫でて後ろを向いて帰路につく。 まだ日は出ているが、男には少しだけ寄り道という考えもないのだろう。

「何か食べていきませんか?」
「お前の飯でいい」
「そんなこと言っても、いつも冷ますくせに」

 少女は言ってから、言ってしまったことに後悔をした。
 勝手にだが、言わないようにしていた禁句。
 男は気にした様子もなくタバコを咥えて火を付ける。

「そうか、あれは冷めていたのか」
「……ごめんなさい」
「いや、悪かったな」

 俺には熱がない。  随分と昔に男の口から聞いていたことだ。
 だから一流の技師にはなれない。 熱も痛みも分からない者に、熱と痛みを伴う蒸気機関の良い道具が作れるはずもない。

 男は師から聞いた言葉を思い出しながら煙草の煙を吐き出す。

「どうだった」
「……足元はすごく熱くて、靴越しでも痛いぐらいでした。 それなのに風は酷く冷たくて、寒かったです……」

 少女は男を見上げながら小さく消え入るような声で続けた。

「今も、少しだけ肌寒い……うん」

 男は上着を脱いで、無理矢理に少女に被せる。 少女は上着をずり落ちないように肩のところを掴み、赤い顔を伏せる。

「寒くないか」
「熱い、ぐらいです。 でも、ラノさんは寒そうで」
「分からないからな。 熱も冷も」

 小さな手が伸びて、男の火傷に塗れた手を撫でる。 男は不思議そうに少女を見て、されるがままに触られた。

「分からなくても、あるんですよ。 ラノさんにも熱は」

 いつもあまり変わらない男の表情は歪み、煙草の灰が地面に落ちていく。 歩き慣れた道はやけに歩きにくい。

「手を握ると暖かいです。 撫でてくれると熱くなります。
空を語るラノさんは、酷く熱っぽい顔をしていて……でも、寒そうなんです」
「……そうか」

 この都市には木もなければ草もない。 延々と続くような石畳を踏みながら、少女は男に上着をかけ直した。

「空は熱かったです。 それに寒いです。
ラノさんが空を語っているときと同じ温度です」
「……そうだったのか」
「ずっと言ってた蒸気の熱ですけど……。 ラノさんの手と、同じ熱さです。 触ったら火傷してしまいそうなほど熱くて、逃げ出したくなるぐらい焦がれる温度です」
「……ああ」

 少女は口を閉じて、男の手を握り締めた。

「温度が分からない。 痛みが分からない。
なんて、蒸気の熱を知ることとは関係ないですよ。 蒸気機関の吐き出す熱は、そもそも熱すぎて人間には知覚出来ませんから。 だから、だから、だから……師匠の師匠が言いたかった言葉は、もっと違うもので……」

 男の手を持ち上げて、火傷塗れのそこに濡れた息を吐き出した。
 少女は潤んだ瞳でその火傷に口付ける。

「愛してあげてください。 蒸気も、自分のことも。
焼けながらだと、作ることに支障が出ます」
「……俺に熱があるか」
「ありますよ。 あんなにも熱く、空を語っていたじゃないですか」

 男は蒸気塗れの空を見上げる。 蒸気に覆われて、空は酷く遠い。

「次に飛ぶとき、乗ったらどうですか?」

 男は工房まで戻ってきたが、いつものようにすぐに向かって籠もることはせず、少女と共に工房の横にある家に入った。 そのまま机の前に座って、少女が料理を作っているのを見て待つ。

「お待たせしました」
「ああ」

 まだ湯気の出ている料理を口に含み、口から煙草のように湯気を吐き出した。

「美味いよ」
「暖かいですからね」
「……ああ、いつものことなのか」

 男は家の窓から空を見上げる。 そこら中で蒸気が冷やされて霧状になっているせいで太陽も見えはしない。

「空は夢だ」
「はい、知ってます」
「……次は、俺が作った船で飛べ」
「僕の師匠はラノさんですから、もちろん。 他の人ではなくラノさんの姿を見て、学ばさせていただきます」

 男は満足そうに頷いて、似合わない、けれど当たり前のように薄い笑みを浮かべた。

「ああーー空はまだまだ遠い」

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