ずっと一人で生きてきました

時夜

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ずっと一人で生きてきました

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長いこと、一人で生きてまいりました。
けれど、それが寂しいというわけでもありませんでした。陽光のよく通る部屋に住み、時折遠出をして、毎朝紅茶に入れる蜂蜜の種類を選ぶことができれば、ヒトは一人でだってほどほどにたのしく日々を送れるものですから。
そもそもわたしが、感情らしい感情など持ち合わせていないことを抜きにしても、です。

だけれど、そんなわたしに時折会いに来る人間達は皆、こちらがきょとん、とするくらい一様にとてもこわあい顔をしていました。ひどく憤ったような、もよおしそうに憶えたような顔をしていました。対するわたしはちょっと面白いなあ、ぐらいの気持ちしか抱いていないのに、です。切り立った崖の向こう岸に相向かっているような、感情の隔たりをよく感じました。

わたしは別に、やられなければやり返したりもしないのに。わざわざ火種をもってきて自分で浴びて帰る人間って、本当に不思議だなと常々思っておりました。

だからある日やってきた暗殺者の少年についても、可哀想な子、と何度と繰り返される光景に向ける実に表面的で、倦怠にも似た感想を抱いただけでした。
何の変哲もない更地から抜き出た茨に両腕を後ろ手に拘束され、膝まづいた格好でただじっとこちらを見上げる彼の背丈は、たとえ立ち上がったとしてもわたしの腰にも届かないでしょう。それくらい、とても年若い少年でした。
けれどその目が、今までわたしが出会ったどの殺し屋よりも、静かな色をしていることにふと気がつきました。普通こういうときは、痛い痛いだとか叫ばれたり、きたなあい顔で命乞いをされるので、いつもなら、うるさいなと思って殺してしまうのですが。

あんまり静かなので、わたしもじっと彼をみつめていました。特に理由はなかったのですけれど。強いて言えば、ちょっとかわいい顔だったので。

「どうしてここに来たの?」
答えは分かり切っています。もしかしたら舌がないのかしら、と確かめるためだけの目的で放った問いです。
「…魔女を殺すという依頼を受けた」
どうやら喋れないわけではないようです。
ふむ、わたしは足を組みなおし、首をことん、と傾けながら改めて彼の顔をじっと見ました。若干日に焼けた細腕から漏れ出た赤い液体は、カラカラに乾いた地面よりも赤茶けたぼろのズボンによく染み込んでいました。
「どう。殺せそう?」
「…」
また黙ってしまいました。じっとみていたので、鉄仮面のような顔の、眉間が少し動いたのが分かりました。どうやら、質問にどう答えたらよいか、もしくはどうしてそんな質問をされたのか、分からないみたいです。
「わたしはできないと思うの。でも、うぅん…あなたは別にうるさくもなければ気持ち悪くもないから、わたしもあなたを殺すつもりはないのよね。ちょっと困るよね、それって。まあ、あなたをてきとうにどこかに捨てることも、できるんだけれど…」
答えなど、分かり切っています。
「あなた、帰るところはあるの?」
「…」
目が、わずかに翳りました。
わたしはちょっとたのしくなってきて、自然と口角が上がっていました。
「ねえ、わたしたち、一緒に暮らしてみない?」

これがわたしと、彼が出逢った経緯になります。

***


彼はやっぱり、ちょっとかわいい面立ちをしていました。ちゃんと格好を飾ってあげると、裕福な商家の跡取りといっても通じそうな雰囲気をまとっています。きっと十年もすれば爽やかな青年になっているだろうし、もう何十年かすれば、ダンディーで素敵な紳士になっていそうな。将来が楽しみになる容姿をしていました。
でも鉄仮面なのはよくありませんね。えい。ツン、と頬に触れると、眉間に皺が寄ります。些細な変化が面白くて、さらにツンツンしちゃいます。

最初の数カ月間、彼はずっとわたしの命を狙っていました。
ただ、いつも見えない壁に阻まれ、無為に刃物を振り下ろすだけに終わる彼がとうとう気の毒に思えてきたわたしは、寝ぼけ眼に伝えてあげました。
魔法じゃないとこの障壁は破れないよ、と。
すると彼は、暫く床を見つめた後、魔法を学びたい、と言ってきました。
いいよ、とわたしが答えたその日から、彼は無為なトライを繰り返すのをやめました。やはり賢い子だ、とわたしは彼のそのきっぱりしたところにますます好感を覚えました。

毎朝わたしがお紅茶を入れて、新鮮なお野菜やお肉をふかふかのパンドミで挟んだサンドイッチを作る間、彼にはお掃除やお洗濯を担ってもらっています。魔法でできるはできることなのですが、どうしても雑になってしまうので。せっかく人手が増えたのですから、丁寧にやりましょう。
因みに料理だけは、狩り以降の過程において彼に手伝わせないようにしています。食べ物に関しては、彼はわたしの魔法より雑なので。基本、てきぱきと雑事をこなしてくれて、優秀な子なのですけれどね…。

まあ。彼の食への向き合い方は、彼の生まれ育った環境に寄る所が大きいだろうと思うので、責めることは致しません。

穏やかな朝を迎えた後は、特に予定が決まっていない日が多いです。二人で街にお出かけしたり、狩りに行ったり、彼が庭で幼子らしくない筋トレをしている間わたしは再び寝台にころがり本をよんでいたりします。

この日は曇りで、じめっぽいのが苦手なわたしはちょっと気分がもやりとしていました。なので、午前は気分転換にお出かけでもしようかと、『ゲート』を開きます。ゲートは私が使えるトクベツな魔法で、わたしが思い描いた場所に瞬と行けちゃう扉を開いてくれます。食料品店の中でも図書館でも金山の中でも深海でも魔法の剣の隠し場所でも、どんなとこでもすーぐ行けちゃって、とっても便利でお気に入りの魔法です。

都市国家が丸々見下ろせる上空に転移したわたしは、辺りを見回す手間もなく、ごおんと空気を震わす音が聴こえる方向に求めていた景色を見つけ、弾むような心地で空を飛びそちらへ向かいます。
人と人との戦いです。戦争です。
灰色と紅色の粒粒が一面に広がっています。片方の軍勢の旗色が紅色なのかと一瞬思い違いをしてしまうほど、血潮が一面に染み渡っています。絶え間なく雄叫びと絶叫と爆撃音がとどろいています!
わたしは、瞬、と灰色の地面に移動しました。傍らで丁度、長槍に貫かれた兵士が倒れます。
空間が、わたしの周りだけ白く浮かび上がったように、ふわりと止まりました。
荒んだ空間の一員になれたことを肌で感じながら、硬直する兵士達の向こう側で変わらず殺し合う人間たちを絵画を観るように眺めます。
「素敵」
頬が自然と綻ぶのをそのままに、地面に転がる死体を踏まぬよう、地表のちょっと上の空気を踏みながら、正面で呆然と立ちすくむ青年に歩み寄ります。
そうして朗らかに尋ねるのです。
「ねえ、楽しい?」
わたしは、このように訳の分からない問いを投げられた人間の顔が、引き攣るように歪むのを見ると、とてもたのしい気分になれるのです。


午後は、魔法を教えます。正直ちょっと面倒臭くて逃げ出す時もあるのですが、彼に有無言わせずという感じで連れ戻されます。攻撃できなくても捕まえるくらいならできるようになってきたみたいです。ちえ、と顔を顰めながら、すごいなあと実はいつも思っていることは彼には内緒です。
もっとも、まったく気の向くままに過ごしてきたわたしとしては、傾向という度合いであっても、習慣めいたものができること自体驚くべきことで。彼を迎えたことによる生活の変化が、なんだか面白いな、とふいに思う日もありました。

ただ、とある日はやや事情が異なりました。わたしがゲートを使うそぶりをみせるとちょっとこわいくらいの反応速度で身体を掴んでくる彼が、ぱっと消えたわたしに反応できなかったのです。

わたしも、転移した場所できょとん、となりました。眼前に煌々と輝く五角形の術式を見とめてああ召喚か、と直ぐにぽんと納得はしましたが。
「おお…!!偉大なる我らが母よ、女神の化身イシリスよ、王族の血肉と引き換えに、我が聖王国の庇護者として御力をお貸しくだされえぇ…!!」
筒状の黒帽子を被った皺の化身のような老爺が頭を床につけると、その後ろで数百名くらいの同様の黒装束の格好をした魔法使いたちが一斉に膝まづきました。見回すと、どこかの王宮の広間と思われる絢爛豪華なお部屋です。ずうっと後方に冠を被った中年の男性が青白い顔をして立っているのが見えました。多分この国で一番偉い人なんでしょう。若干肥満気味ですが(偉い人間にはよくあることです)。傍らにはご家族らしいお妃様やらお姫様やら王子様やらが並んでいます。

しかしでは

わたしの眼前で後ろ手に束縛され、ぼうと虚ろ気な目で見上げてくるこの少女は、一体どなたなのでしょうか。

死に際の蝉が放つような金切り声であれやこれやと捲し立てる老爺の話から察するに、この国のお姫様の一人のようですが。
その割には、ドレスどころか、服とすら呼べないぼろの布を身体に巻き付けていらっしゃいます。
流石にうるさいなと思って老爺の首をとばしながら、ずうっと後方にいる多分ご家族の皆さんのエメラルドの瞳と、少女の濡れ烏のような虹彩とを見比べます。

静まり返った空間で、彼女の目と鼻の前まですうと宙を移動したわたしはふむ、と改めて彼女の瞳をじっと見つめました。
「ねえ、あなたはこの人たちを、救いたい?」
彼女の望みを聞いたところで、わたしにはどうする気も特になかったのですけど、瞬間、広間中の視線が彼女の細い背に注がれたのが分かりました。
彼女はわたしが召喚された瞬間からほぼ変化のない、どこか虚ろな面のまま、右頬の火傷の痕で引き攣る唇を震わしました。
そしてかすかに、首を横に動かしました。


**


その後、彼女を伴ったわたしは我が家に転移しました。
彼女を焼け焦げた王宮跡に放置するのもちょっとあれだったので、一時的に預かろうかとそれくらいの軽い気持ちで連れてきたのですが。
数分ぶりに会った彼が、わたしが逃げたと勘違いしたであろう憤怒半分、知らない女の子の登場に混乱半分と、今まで見た中で一番豊かな表情を浮かべてたのが面白くて、ちょっと笑ってしまいました。
「あの…わたしは、ルシエーラと申します…。あ…長かったら、ルシと呼んでいただいて構いません…」
湯舟に浸かって紅潮した頬をさらにあからめつつ、彼女はぼそぼそと自己紹介をしました。
ぼさぼさだった髪は今、魔女のトリートメント効果で濡れ烏のような艶感を放ち、埃を払拭した後の肌は雪のような、という形容が真に似つかわしい真白の色をしています。
そして顔立ちは、約束されたような可愛さです。
お風呂上りです。
わたしはちらりと隣の彼を見やりました。どきどきしてないかしら、と。
彼の横顔は彫像のように変わり映えのない無表情でした。

彼はどこか心が壊れているんだろうか、と若干柄でもなく心配になったところに、ぎろりと鋭い眼光を向かれ、慌てて彼女の方に視線を戻します。

こほん、それはさておき、彼女について一瞬、なんだか聞いたことのある名前な気がしてうーんと考えますと、そういえばどこかの何かの女神の名前と一緒だと思い至りました。
女神の名前を授けられるのは、神官の血筋の者に限られます。彼女は王族でありながら、神官でもあったようです。立場は低そうでしたが。
「あの……お弟子さん、ですか?」
帰宅直後にわたしと彼がやり取りをしていた間も、ずっと気になっていたであろうことをまごまごとルシは問いました。彼ではなく、わたしの目をみて。
「う~ん…?どうなんだろう。というよりは同居人、かしら?」
正直なところ、わたしも、わたしと彼の関係性はよく分からないのです。ただ、共に日々を過ごしていると、たのしい、の中に少し温かいような、けれどきっと悪いものではない気持ちが湧き出てくる気がして。離れる理由もないから、ずっと一緒にいる、ただそれだけなのです。

彼は、わたしを殺そうとしていること、知っているんですけれどね。

ざっくりした彼とわたしの成り行き話を、ルシは静かに、しかし時折息を呑みながら聞いてくれました。
「そう、だったのですか…。あ…お名前は、なんと…?」
ようやく彼の方を向いてルシが訊きます。視線は彼の服の襟に固定されておりますけれど。
どうやらルシは、人間と喋ることが不得手みたいですね。
「名前はない」
大して興味なさそうに彼が応えました。
「え…」
ルシは目を瞠って、今度はわたしを見ます。
「…イシリス様が、名を授けられたりは」
「そういえばあなた、名前なかったわね」
「お前、名前はイシリスというんだな」
「えぇ…」
他愛ない話を、ルシは表情筋の弱い顔ながら反応良く聞いてくれました。
「大分昔の話よ。聖女だった頃のだもの」
ルシは神妙な面持ちに頷き、彼は眼窩から眼球を押し出てしまいそうなほど大きく目を瞠ってわたしを見ました。
今日は彼のレアな顔ばかり見られて、なんだかうれしい気分です。

**

「イシリス様は…我が聖王国の初代聖女であられたのです。現在は王国が建つ、かつては瘴気で侵されていた土地…を浄化してくださった方で。建国後も、度々魔物の侵入を防ぎ民の平穏な暮らしを守るのに尽力してくださったと…建国神話の一節で、その、伺いました」
もはや記憶の影もありませんが、朧気に湧いてくる感情が、ルシの語る神話が事実であることをわたしに教えてくれます。
「……」
再びいつものクールな顔に戻った彼は、しかし時折ちらちらと私を見てきては胡乱な感情を鉄仮面の下から漏らします。
ちょっと失礼じゃありませんか?
若干むっとしつつ、だんまりを決め込んだわたしは机に片肘をついた悪い姿勢のまま、紅茶の底に溜まる蜂蜜を銀製のマドラーでほぐします。
どうせ、彼の気になることは、彼女が話さずにはおれないでしょうから。

「しかし…ある日、とても強力な魔物が現れて」
ルシがちらりとわたしを見やります。気づかわしそうに、沸騰した釜の中におそるおそる爪先を入れるように、そしてちょっぴり求知心を覗かせながら、続きを紡ぎます。
「イシリス様は、その魔物と戦って…勝った、けれど、呪いを受けて、もはや聖女ではいられなくなったと」
その後の沈黙があんまり長かったので、流石に口を挟もうかと思ったとき、隣の彼が問いました。
「呪いとは、なんだ?」
「…心臓が、魔物のものに変わる呪いです」
それは、と彼が問うより先に、わたしは補足しました。
「死ねない呪いだよ」

今まで彼を騙し続けてきた、ばつの悪さを感じながら。



その後ルシは、わたしの弟子になりたいと言ってきました。
助けて頂いた恩返しがしたい、というその真摯な眼を見て、ああ彼女はわたしを殺すつもりなのだろうと分かりました。
勿論、断る理由などありません。
こうして我が家に、わたしを殺したいという人間が一人増え、一人減ることになったのです。


**


毎朝ルシが洗濯物を取り込んで、日も昇らぬうちにもう一人の同居人のために朝食を作ります。
陽光が部屋の隅々に行き渡る頃、ポタージュと小麦の香ばしい匂いに釣られたわたしが、寝ぼけ眼のままふわあと居間に姿を現します。
ルシが机上に料理を並べてくれる間に二度三度うたた寝をし、スープが鼻についてしまいますよ、と軽くたしなめられた後、二人で食膳の祈りを済ませ、朝食をとります。
食器の片づけを魔法でぱぱっと終わらせ、わたしが紅茶を優雅に嗜んでいる頃に、身支度を済ませたルシが分厚い本をぎゅう詰めにした大きめの鞄を肩に下げ、お師匠様、と遠慮がちに声をかけてきます。
振り向いた先の彼女の微笑ましい格好を見とめると、わたしは学院に繋がる『ゲート』を開いてやります。

空間の裂け目にもうすっかり慣れた様子で、行ってきます、と会釈してルシが入っていきます。後ろ姿に向けて、行ってらっしゃーいと手を振ってあげると、彼女も照れたようにはにかんで小さく振り返してくれます。

彼女が学院から帰り、わたしが直接教示をしてあげる夕方以降まで、しばしのお別れです。

『ゲート』が閉じ、自分以外の他人の居なくなった空間で、わたしはしばらく動かず物思いに耽りました。紅茶を飲み切っていないことに気がついて、おもむろにティーカップに口づけます。


あれから数年が経ちました。


彼はいません。

この家のどこにも。
わたしが察知できる地理的範囲内にも。

生きているかどうかさえ分からない、と言いたいところですが、とても彼が生きていないとは思えないくらい、彼が強いことはわたしが一番良く知っています。

彼がわたしの名前を知ったあの日の夜、彼としたやり取りを思い出します。

魔女の家を去ろうとしていた彼に、わたしが声をかけたときのことです。

彼が間もなく出ていくだろうことは、容易に予想がついていました。
ただ、月の無い星夜の朧な明かりに照らされ、本当に僅かな手荷物とともに小丘に立つ彼の姿を見た瞬間、何故だか一瞬息が出来なくなった感覚を、今も際やかに覚えています。

きっと十年ほど前に、昨日拾ったばかりの彼が出ていこうとしていたなら、わたしは気まぐれに殺していたかもしれません。
けれどもこのとき、ちっともそんな気が起きなかったのは、何故なのでしょうか。


「あなた、行く場所はあるの?」
どこかで、聞いたような質問を
「……」
受け止める彼の目に、しかし翳りはありませんでした。
行き場所などある筈もないくせに、この世にあることを当然に許されているような、ふてぶてしい顔で。背丈も頑健さも、すっかり変わってしまった体躯で。彼はそこに立っていました。
世界から置いてけぼりにされ、独り、寂しいような目をしていたいつかの少年は
わたしと、似ていると思ったその目は
もうこの世界のどこにもないのだと、腕を上に伸ばし、彼の頬を撫でながらやっと腑に落ちたように理解しました。
「…、」
頬に置かれたわたしの手を、一回り大きな手が掴みます。
「必ず戻る」
静かで頑固な意思の宿った目を見た瞬間、帰る場所のなかった彼に帰る場所を与えてしまったのは、そういえばわたしであったことにも気が付きました。


「……勇者の剣を探すといいわ。魔のモノなら何でも切れるんですって」
「それならお前を殺せるのか?」
「きっとね。でも、神話の剣よ?」
「お前も神話の人間だろ」
ふふ、とわたしは軽やかに笑って手を放し、後ろ手に組みました。
「勇者の剣は、選ばれた人にしか使えないの。わたしがたまたま拾ったあなたが、たまたまわたしを唯一殺せる勇者だったら、確かに、大丈夫だとは思うけれどね」
「…」
彼は、何か言いたげに口を開きかけて、つぐみました。
代わりに出した言葉は本来言いたかったこととは似ていて、けれど全く異なるもののような、迷うような、雰囲気を帯びていました。
「受けた依頼は、完遂しなきゃならない」
わたしはもう一度、しかし今度はしょうがない子だと言外に仄めかすように、あいまいに笑いました。
「まってる」


丘の向こうへ、一度も振り向くことなく消えていく後ろ姿を、ただ見つめているだけだったのは、何故でしょう。
魔法の剣の隠し場所を、教えてあげなかったのは何故でしょう。



分かりません。




分かりません。



いつの間にか、わたしは紅茶に蜂蜜を入れるのをやめていました。とくに味に違いがないように思えてきたからです。

一人でいる時間が、以前よりもちょっぴり、味気なく思えているようです。
何かが、足りないような
一度得た経験さえなければ得ることのなかった感覚が胸に巣くい、小さな棘として刺さって、抜けないみたいなのです。



**



「お師匠様は、死ななくてもよいのではありませんか?」

額の擦り傷を綿布でぽんぽんと消毒してやる間、ルシがそんなことを問いました。
ひどく拗ねたような、悔しいような、それでいて泣きそうな顔をしながら。
歴史の授業で、わたしの話でも出たのでしょうか。どうしてそこから怪我することになるのかは、よく分かりませんが。
わたしはうーんと首をひねってから答えました。
「でもわたし、気まぐれに国一つ滅ぼしてしまうかもなのよ」
「滅ぼしたことないじゃないですか」
「ええ、だから今のうちに死んでおくべきなのよ」

魔女が死ぬ理由など、生きているだけで充分なのです。
それを聞いた一番弟子は、納得いきません、と目尻に雫を浮かべ、扉から出て行ってしまいました。
そしてそれ以降、帰ってくることもありませんでした。



**



いつから、怒ることがなくなったのでしょうか。
いつから、痛みを覚えても辛いと感じなくなったのでしょうか。

いつからか、人の痛みをおもしろく思うようになりました。
いつからか、日々の生活の中で心臓の表層に浮き出てくる感情は、すこしおもしろい、すこしうれしい、この二つしかほとんどなくなっていました。

自分がもはや人の形を成しているだけの化物であることを、次第に希釈されていく感情がゆっくりゆっくり実感として伝えているようでした。

そしてそんな自分のことを、わたしはもうちっともおそろしい、とも感じていないのです。



**



「ひさしぶり」
業火を背に、魔女は笑いました。
瓦礫と死体の丘上に立ち、眼下の青年と彼が携える大剣を見とめて、至極満足そうに。

「…」
彼は相変わらず表情に乏しい顔のまま、じっとわたしを見上げてきました。
「大きくなったのね」
言葉とは裏腹に、わたしが意識するのは、出逢った日から変わらない彼の姿です。
静かな色をした瞳が、刹那、複雑そうに揺れたのが分かりました。
彼が、見つめる先の少女の、何十年経ても変わらぬ姿をみて何を思ったかは知りません。
ただ彼が抜刀を応答の代わりに選んだと理解した瞬間、わたしもこれ以上の言葉を必要に感じませんでした。

魔法と、魔法と剣がぶつかりました。
神代の宝珠とでも呼ぶべき古代魔法の驟雨を浴びて、生身の人間など本来その一帯ごと一たまりもありません。幾ら優れた師から学んだ経験があるとはいえ、たかだか数十年と数千年では魔法の度量の差は天地のそれと同じです。魔女に人間が適うはずなどありませんでした。
放たれる魔法を悉くかき消してしまう勇者の剣さえなければ、ですが。

左腕が斬りとばされたことに、時間差で認識が追い付きます。
眼前に迫った彼と、咄嗟に風の魔法で距離を取ろうとしますが、半端に浮いた状態でふ、と魔法が消えてしまいます。成すすべもなく、そのまま破壊の跡地へと垂直方向に叩き込まれます。
瓦礫の一塊に背を預け、痺れた身体で瞼を持ち上げたときには、首筋につめたい鋳鉄の存在を感じました。若干皮膚の表層に触れているらしく、温血が細く、冷たさの後ろを伝う感覚をぼんやりと意識しました。

彼の顔が目の前にあります。

とても静かな目をしていました。
使命感に燃えてるわけでもなく、かといって冷徹でもなくて。
ただひたすら静かで、それでいて何故だかすこし温かみを感じさせる、そんな凪いだ目をしていました。先瞬みせた迷いはもう、些かほども見られません。

わたしは微笑みました。
自身が育て、孤独を分かちあった人間へ向けて。
わたしがこの世と袂を分かつ理由を与えてくれる唯一の人間へ向けて。

恐怖という感情は、そもそも在りません。ただすこしうれしくて、ちょっぴり寂しいだけです。
最期に何を言おうかと考えて、自然に浮かんだ言葉をそのまま口に出しました。


「元気でね」


わたしは目を閉じました。一瞬目を瞠ってすぐに唇を引き結んだ、寸前の彼の顔を瞼の裏に映しながら。
せっかくなら、ついに一度も見ることのなかった彼の笑顔を見てみたかったなとちょっと残念に思いつつ、わたしはもう明けることのないだろう薄闇の中、約束された時を待ちました。

間もなく瞼を上げることになろうとは決して思わずに。


わたしの唇と彼の唇とが合わさっていました。

そして胸部を穿たれた彼の半身がずるりとわたしの膝上に仆れました。

彼の身体が仆れる瞬間、水平に固定した視線が、彼の心臓が先瞬まであった空間へ先端の千切れた指先を震えながらもまっすぐ向けた彼女の姿を捉えました。

お、師、匠様、と掠れた声で地面に伏せたまま囁いた彼女の使命感に溢れた形相を見とめて、ああ貴女はわたしを殺すんじゃなかったの、とどこか冷めた思考の片隅に思いました。


**


あるところに、一人の魔女がおりました。
彼女はひとりぼっちではありましたが、ほどほどにたのしく平穏に毎日を送っておりました。

けれど彼女は善良な魔女ではありませんでした。

そのために、きっと自分はいつか死ななくちゃいけないのだろうなと魔女自身が一番よく分かっておりました。

ある日、その魔女は風のうわさで勇者の存在を知りました。

何でも、かつて魔王を打倒したとされる勇者の末裔と彼が握る剣は魔のモノの一切を屠る力をもつのだそうです。

それを聞いた魔女は、早速勇者とやらに会いに行くことにしました。

しかしようやく見つけた『彼』は老人で、片足がありませんでした。

獄牢の鎖に繋がれた身体は、骨と鎖が薄皮一枚を接して触れ合っているようでした。同じく鎖で壁面に括りつけられた傍らの大剣を振るい、ましてや魔女を殺せるほどの余力が残っているようには、とても見えませんでした。勇者の剣は勇者の血が流れる者しか扱えないというにです。

彼は、魔女を殺せません。

困った魔女は、若い頃の『彼』に会いに行こうと『ゲート』を開きました。『ゲート』は魔女が使えるトクベツな魔法で、彼女が思い描いた場所に瞬と行けちゃう扉を開いてくれます。食料品店の中でも図書館でも金山の中でも深海でも時間の異なる場所でも、どんなとこでもすーぐ行けちゃって、とっても便利で魔女のお気に入りの魔法でした。

過去へ繋がるゲートを開いた魔女は、手始めに勇者の剣の在りかを確かめることにしました。勇者は剣を手に入れるために幾年月を費やしたと聞いたからです。剣を見つける段階でまたよぼよぼのお爺ちゃんになられては困る、と守護者である竜を屠り、洞窟内にそれを見つけた魔女は一先ずそれを自身のゲートに繋がる隠し場所へ移動させました。


そうしてゲートを潜る前に調べた情報をもとに訪れた酒場で、出逢った少年に依頼をしたのです。
『魔女を殺してほしい』
自身のマントを引き上げ、わたしと同じ顔をしているの、と見せたときの彼のおかしな表情を面白がりつつ、魔女は平民が三度生きて稼げるだけの金貨を彼に渡しました。
もっとおかしな表情になった彼の額をとん、と人差し指でたたいて、魔女は魔法をかけました。十年後、時間差で彼に勇者の剣の居場所についての記憶が共有されるように。

彼はきっといつか、わたしを殺せる剣をもってわたしの下へ来るでしょう

その確信とともに、魔女は書き換えられゆく未来へと身を委ねました。

まさか勇者がその非力な身体のまま、数日後彼女の下へやってくるとは決して予想だにしないまま。


**


魔女は脈拍の消えた勇者の亡骸を胸に抱きながら、ぽつりと呟きました。

「……どうして殺さなかったのかしら」

わたしを、彼が。

魔女が魔法を消され態勢を崩したとき
剣先を当てた後
背後から接近する魔女の弟子の存在に気が付いたとき


どうして


どうしてあんなに、凪いだ目をしていたの。

どうして、がぽつりぽつりと落ちる思考の中、魔女はただ一つ分かった事実をその胸に抱きました。

彼は、魔女を殺しません。


そうして魔女は、再び『ゲート』を開くことにしました。

魔女の介入しない時間軸の、ある意味で別の世界の住人たる彼に

青年時代の彼に、会いに行こう、と。

魔女を殺せる剣をもち、積み上げる年月を要しない丈夫な体躯で。
何もしらない貴方が、どうかわたしを殺してくれますように。

ああ、でも

ゲートの白い薄光に包まれ消えるより前に、この世界に置き去りにする彼の亡骸を眼前に、魔女は思いました。

その刃に貫かれるより先に

もし青年の君が名前を持っていたなら、聞いてみたいな。
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