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【第2章 箱根駅伝、6区山下りを攻略しろ!】
① 山に取り憑くもの
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一月三日。箱根駅伝、復路の日。
神坂颯は、午前二時に目を覚ました。
起きたというより、眠るのをやめたという表現のほうが近い。
宿舎の部屋から出てきた細長い影が、廊下の非常灯に照らされながら、ひっそりと進んでいく。
前日に往路を走り終えた仲間たちが眠る部屋の前を通り過ぎ、ジョグに出かける。
まだ暗い芦ノ湖畔。
真冬の空気は、頬の皮膚を剥ぐように冷たかった。
(こんなの朝練じゃねえ。夜練だ)
ネックウォーマーの内側で颯はぼそりとつぶやく。
昨日は横浜のグラウンドで、最後の刺激走を一本だけ。
1000メートルを2分50秒。入りのペースの確認としては上々だった。
おかげで体は軽い。だが、嫌な感じだ。
接地に手応えがなく、雲の上を走っているみたく浮き足立っている。
数時間後、自分が箱根駅伝を走っている姿がどうにも想像できなかった。
それでも時間は進む。
餅入りうどん、海苔なしのおにぎり、それから締めの餅。夜食めいた朝食を胃に流し込み、控え室へ向かう。
闇の中、ぽつんと明かりを灯した建物が見えてきた。
「……はようございっす」
石堂監督の背後をついていきながら、関係者らしき人にはとりあえず頭を下げておいた。
待機エリアでは、各校の監督たちが談笑していた。昨日の感想が飛び交い、意外にも和やかな雰囲気が漂っている。
棒状のクッションを床に寝かせ、背中を預ける。股関節をゆっくり開き、腸脛靭帯に重心を移した。
呼吸が浅い。体温が上がらない。
出番が近づいてくる気配が、内側から鼓動を速めていた。
◇
午前八時ちょうど。
乾いたピストル音を合図に、前日の往路優勝チーム、孔雀院大学が復路の先頭として駆け出した。
以降は、初日のタイム差で順に出発していく。その様子を、後方の待機列から黙って見つめていた。
隣から、小さなペットボトルの水を手渡される。
「ソウちゃん、自信持って」
付き添い役を買って出てくれた、同期の北條だった。
昨日の往路では、激戦の3区を区間3位で走って大活躍。我らが黄水晶大学のスーパールーキー様だ。
だが、こいつ。いつまで「はやて」を「ソウ」と呼び続けるつもりなのか。
一度も直されたことはないし、直す気配もない。
けれど、今日はその読み間違いが、不思議と肩の力を抜かせた。
「おう。まかせろ」
短く返して、水をひと口含む。
直前まで体を温めていたベンチコートを脱いで預け、胸のタスキを改めて強く握った。
往路組がつないできたタスキ。
最後にこれをかけていたのは、沼さんだ。
柔らかいはずの布が、思いのほかずっしりと肩にのしかかっている。
それだけで、背筋が自然と伸びた。
一年生なんだから、難しいことは考えなくていい。
こいつをとにかく、小田原の7区で待つ仲間に届ける。まずはそれだけだ。
「行ってくる」
二枚重ねの分厚い手袋越しに、北條と最後のグータッチを交わした。
昨日の往路、黄水晶大学は、トップから9分27秒差の12位。
十分以上差がついた大学は、八時十分にまとめてスタートする。
すぐ後ろには、一斉スタート組の八校が控えている。
「33秒なんて、ないようなもんだな……」
颯は、この全員から追われる立場にある。
「……そうだ。ないのと同じだ」
不意に漏らした言葉に、不気味な声が絡んだ。
その男は、いつの間にか真後ろにいた。
「お前、知ってるか。俺がどう呼ばれているか」
「えっ……」
背中から、凍りつくような威圧感に気押された。
そこで振り返ったのが間違いだった。
長身から見下ろされ、視線の刃が突き刺さる。
頬は削られたように細く、鼻先が鋭く尖っている。呼吸が一瞬止まった。
男は、低く言い放った。
「……死神、だ」
亜久亜大の四年生、京本叶夢偉——。
過去に三年連続で6区を走り、56分42秒の区間記録を持つ。
その異名は、口に出すことすらためらわれる、山の死神。
「なあ、どうしてだ。山の英雄。山の怪物。山の神。……取り上げられるのはいつも5区の連中ばっかだ」
独り言のようだった。
俺なんか死神だぞ。そうは言わなかったが、内心、不満なのかもしれない。
でも悪いけど、その呼び名はあまりにも、ピッタリだと思った。
「すぐに飲み込んでやるよ」
京本は顎で前方を示した。
気づけば、颯の出番が迫っていた。
『シトリン大学、十秒前!』
学連の白ジャンパーを着たスタッフが、進行表を片手に声を張り上げる。
『5!』
目の前を旗で遮られる。ゲートで待つ競走馬の気分だ。
『4!』
時計を見る。まだ何も刻まれていない。まっさらなゼロだけがそこに浮かんでいる。
『3!』
肩の力を抜き、構える。
『2!』
颯の鼓膜から、音が消えた。
『1、スタート!』
旗が上がり、砲音とともに身体が弾き出される。
直角カーブを減速せず、勢いのまま大きく左へ曲がった。
(まさか、6区なんてな)
ずっと思い描いていた夢のコースを、逆向きに、軽やかに疾走していく。
200メートルに達しようかというとき、後方でもう一度、ピストルが鳴った。
神坂颯は、午前二時に目を覚ました。
起きたというより、眠るのをやめたという表現のほうが近い。
宿舎の部屋から出てきた細長い影が、廊下の非常灯に照らされながら、ひっそりと進んでいく。
前日に往路を走り終えた仲間たちが眠る部屋の前を通り過ぎ、ジョグに出かける。
まだ暗い芦ノ湖畔。
真冬の空気は、頬の皮膚を剥ぐように冷たかった。
(こんなの朝練じゃねえ。夜練だ)
ネックウォーマーの内側で颯はぼそりとつぶやく。
昨日は横浜のグラウンドで、最後の刺激走を一本だけ。
1000メートルを2分50秒。入りのペースの確認としては上々だった。
おかげで体は軽い。だが、嫌な感じだ。
接地に手応えがなく、雲の上を走っているみたく浮き足立っている。
数時間後、自分が箱根駅伝を走っている姿がどうにも想像できなかった。
それでも時間は進む。
餅入りうどん、海苔なしのおにぎり、それから締めの餅。夜食めいた朝食を胃に流し込み、控え室へ向かう。
闇の中、ぽつんと明かりを灯した建物が見えてきた。
「……はようございっす」
石堂監督の背後をついていきながら、関係者らしき人にはとりあえず頭を下げておいた。
待機エリアでは、各校の監督たちが談笑していた。昨日の感想が飛び交い、意外にも和やかな雰囲気が漂っている。
棒状のクッションを床に寝かせ、背中を預ける。股関節をゆっくり開き、腸脛靭帯に重心を移した。
呼吸が浅い。体温が上がらない。
出番が近づいてくる気配が、内側から鼓動を速めていた。
◇
午前八時ちょうど。
乾いたピストル音を合図に、前日の往路優勝チーム、孔雀院大学が復路の先頭として駆け出した。
以降は、初日のタイム差で順に出発していく。その様子を、後方の待機列から黙って見つめていた。
隣から、小さなペットボトルの水を手渡される。
「ソウちゃん、自信持って」
付き添い役を買って出てくれた、同期の北條だった。
昨日の往路では、激戦の3区を区間3位で走って大活躍。我らが黄水晶大学のスーパールーキー様だ。
だが、こいつ。いつまで「はやて」を「ソウ」と呼び続けるつもりなのか。
一度も直されたことはないし、直す気配もない。
けれど、今日はその読み間違いが、不思議と肩の力を抜かせた。
「おう。まかせろ」
短く返して、水をひと口含む。
直前まで体を温めていたベンチコートを脱いで預け、胸のタスキを改めて強く握った。
往路組がつないできたタスキ。
最後にこれをかけていたのは、沼さんだ。
柔らかいはずの布が、思いのほかずっしりと肩にのしかかっている。
それだけで、背筋が自然と伸びた。
一年生なんだから、難しいことは考えなくていい。
こいつをとにかく、小田原の7区で待つ仲間に届ける。まずはそれだけだ。
「行ってくる」
二枚重ねの分厚い手袋越しに、北條と最後のグータッチを交わした。
昨日の往路、黄水晶大学は、トップから9分27秒差の12位。
十分以上差がついた大学は、八時十分にまとめてスタートする。
すぐ後ろには、一斉スタート組の八校が控えている。
「33秒なんて、ないようなもんだな……」
颯は、この全員から追われる立場にある。
「……そうだ。ないのと同じだ」
不意に漏らした言葉に、不気味な声が絡んだ。
その男は、いつの間にか真後ろにいた。
「お前、知ってるか。俺がどう呼ばれているか」
「えっ……」
背中から、凍りつくような威圧感に気押された。
そこで振り返ったのが間違いだった。
長身から見下ろされ、視線の刃が突き刺さる。
頬は削られたように細く、鼻先が鋭く尖っている。呼吸が一瞬止まった。
男は、低く言い放った。
「……死神、だ」
亜久亜大の四年生、京本叶夢偉——。
過去に三年連続で6区を走り、56分42秒の区間記録を持つ。
その異名は、口に出すことすらためらわれる、山の死神。
「なあ、どうしてだ。山の英雄。山の怪物。山の神。……取り上げられるのはいつも5区の連中ばっかだ」
独り言のようだった。
俺なんか死神だぞ。そうは言わなかったが、内心、不満なのかもしれない。
でも悪いけど、その呼び名はあまりにも、ピッタリだと思った。
「すぐに飲み込んでやるよ」
京本は顎で前方を示した。
気づけば、颯の出番が迫っていた。
『シトリン大学、十秒前!』
学連の白ジャンパーを着たスタッフが、進行表を片手に声を張り上げる。
『5!』
目の前を旗で遮られる。ゲートで待つ競走馬の気分だ。
『4!』
時計を見る。まだ何も刻まれていない。まっさらなゼロだけがそこに浮かんでいる。
『3!』
肩の力を抜き、構える。
『2!』
颯の鼓膜から、音が消えた。
『1、スタート!』
旗が上がり、砲音とともに身体が弾き出される。
直角カーブを減速せず、勢いのまま大きく左へ曲がった。
(まさか、6区なんてな)
ずっと思い描いていた夢のコースを、逆向きに、軽やかに疾走していく。
200メートルに達しようかというとき、後方でもう一度、ピストルが鳴った。
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