石崎さん!勝負です!!

たまりん

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 石崎さん!勝負です!!

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『あぁ、石崎さん、まだです、まだ、イキませんからっ、もっと、もっと僕で感じてください』
はっはっはっと、まるで犬のように私に覆いかぶさり、ポタポタと汗を垂らしながら無我夢中に腰を振り続ける男に、もはや嬌声でしか答える事が出来ない。

『あっ、あっ、あぁ!ひぁ!』

『いい?ここが、いいんですか?あぁ、すごく、はぁ、よさそうですね?僕も、はぁ、信じられない、くらい、気持ちいい、気持ち良すぎて、おかしくなりそうです』

男の声に喜色が混じり、間近にある顔が綻ぶのを現実味なく涙目で見つめる。室内には肌と肌がぶつかる水音と男女二人の淫らな嬌声が鳴り響く。

『あぁ、ん、もう、駄目、もう、…駄目だから、許して?』

だけど吐息に紛れた拒否は聞き入れられることは無かった。

『ダメです、まだ、まだ、なんです、全然足りません!!だって、こんなに、石崎さん、石崎さん!』

ここに至るまでに人に言えないような場所を散々、舐められたり、吸われたり、撫でられたりして弄ばれるように高められた私の身体は、その後、彼の顔に似合わないほどの、凶悪なもので幾度も再奥を穿たれて辛すぎるほどの歓喜と悲鳴をあげている。

『もっ、ほんと、無理!こんなの知らない、無理だからぁ…』

『良かった、…知ってたら、嫉妬に狂います』

その時、男の瞳がどれだけ薄暗い光を放ったのか、私は知らない。そんな余裕など無かった。

体力の限界など、どちらもとっくに超えているはずなのに、既に泣きが入る私の乳房をゆるりと持ち上げて、恍惚の笑みでそれを揉みしだき、口に含む彼。それに、掠れた嬌声をあげれば、慰められるように寄せられる形の良い唇が私に重なり、やわらかく食むように吸われると、また隠避な痺れが体に走る。

愉悦に溺れた私達の間にはもはや僅かな理性すら無くなっていた。苦しくて受け入れきれない程の快感を、止めどなく求めるだけだった。

『あ、あっ、っん、激しい…』

『大丈夫です、安心してください!まだです!!僕は、僕はこれくらいでは、絶対に負けませんから!石崎さんの気持ちいい事、全部、全部、僕にさせてください、どこがいいですか?ここですか!?』

まるで何かと勝負をしているように、そう耳元で囁かれる。だけど、続くのは口説き文句でも睦言でもないのだ。色気も何もないただの苗字だ。

『あぁ、石崎さん!石崎さん!!石崎さん!!!』

うん、私の苗字だ
どうやら、という線は、消去してもいいようだ。
ならば私も名前を呼んでみよう。
これまた、やっぱり苗字だけど…

そっと瞼を持ち上げて、男の瞳をみつめる。

『鍋島、くん……』

そう虚ろに彼の苗字を口にする。
すると私のなかを穿つ彼の大きなものがピクリと反応してその重量を増して私の内部を満たす。

『石崎さぁん!!』


抱き締める腕に力が増す。
マッチョとまではいかないが、引き締まった体に十分すぎる程の筋肉が付いた胸と腕。

うん、凄くセクシーだ。

その肩に爪を立てて、柔襞を掻き分けながら何度も何度も押し入ってくる滾りに耐えながら朧げに思う。

(あぁ、そう言えば、この人は、確か、弓道をしていたなぁ…)

何故そんな事を知っているのかと言えば、彼は私のかつての同級生に他ならないからだ。
別人かと感じるほど、その印象は変わってしまっているが…

どうしてこういう事になってしまったのか。

『石崎さん…』

恍惚とした彼の動きが、私の胸をたゆんたゆんと揺らすのを見つめる。腑に落ちない事が沢山ある。これはきっと、一度現実に立ち返り、理性的に考え、然るべき話し合いをしなければならないところなのだろう。
だけど、快楽とは恐ろしい。
先ほどから与えられる衝撃的とも言える程の快楽は私にそれ以上の事を考える事すら許さないのだ。

『石崎さん、石崎さん、石崎さん!』


そう、彼の言う通り、私の名前は石崎雛いしざきひな

3月に生まれたから雛と名付けられ、ごく平凡な田舎町でごく平凡に育った。昔から得に目立つ華やかさがあるわけでもない普通の子供だった。真っすぐな黒髪は未だにカラーもパーマもあてた事すらない。
あまり目立たない黒目がちな日本顔に、肌の色だけは白い私のあだ名は、名前そのままの『』だった。

そんな私が唯一少しだけ人に誇れることがあるとしたら、昔から、努力した結果にまずまずと言える学力がついてきた事くらいだろうか。

だけどそれは、決して天性の才能とは言えるほどのものではなく、地道な努力によるものだったように思う。華やかさも可愛げも、特に秀でた才能もない私が、努力の結果、志すようになったのは、検察官だった。

大学をでる年、私は司法試験に一度失敗をした。
だけど人生最大とも言える全てをかけた猛勉強の末、その翌年、私は二度目の試験で検事として社会に出た。

検事の仕事は、法律に違反した人を取り調べ、起訴をするかどうかの判断を下したり、事件についての立証を行う事で、立場はお堅いとされる国家公務員である。そして、私が働くのは検察庁で、そこで捜査・公判や裁判執行時の指揮監督などの仕事に携わっている。要は一日中、一般人なら眉を寄せたくなるようなきな臭い事件に向き合い、自分より年上の男性の事務次官にあらゆる指示を出し、日常的に厳つい刑事達と時には口論をしながら渡り合い、裁判では容疑者の狂気にも触れる特殊な仕事でもあるのだ。

そうして、求められる能力はもう一つある。
裁判で有能な弁護士達を論破できるほどの、精神力と説得力が必要とされる仕事だ。

社会人になったばかりのころは数々の憂き目にあい、酒を飲んで自宅のベッドで涙する事も度々であった。だけどそんな私も、社会の荒波にもまれて早5年となる。慣れとは恐ろしいもので、すでにこの世界にどっぷりと浸かってしまった私は、既に可愛げのない女の代名詞となってしまった。

彼氏がいた事もあったが、就職後のすれ違いで『お前、可愛げが無くなったよな?』と別れを切り出された。そんなトラウマが尾を引いてから、それ以来、彼氏もいない。仕事人間となった。無論、結婚の予定もない。時折、田舎の母から、その辺りの探りを入れられるが、報告できる話など、無いものは無いのだ。無い袖は振れないので勘弁して欲しい。

そんな私を心配した母が、何度か見合いの話を得ようと動いたみたいのだが、見合いに至る前に『ご立派過ぎて…』との断りが続いたようで、見合いの話すらも、進まないらしい。

ーーごめんね、お母さん。私の雛人形、あんなに律儀に出したり、入れたりしてくれたのに

 そうこうしている内に、私は先週28歳となった。
だけど、今朝の今朝まで私は普通の毎日を送っていた。私の前に、鍋島と言う名前が再び登場するまでは、殺人、強盗、強姦、爆破、テロなどなど、物騒な会話が飛び交っていようが、私個人は至って普通の公務員として、真っ当な生活をしていたのだ!

それなのに…
数日前のいつもの日常を思い出す。



「検事、昨日の夜はあれからどうしたんですか?誕生日にいい事の一つや二つあったんじゃないんですか?」

兄貴分だけど事務官の武井さんに、にやにやしながら、問いかけられる。

「え?…家に帰って、資料を作って寝ただけですけど、何か?あっ、そう言えば、お母さんから、お祝いのメールもきたな」

「資料作りとお母さんからのメールだけって…、アンタいい歳して」

その言葉に、ピクリと顔を引き攣らせた私は、鞄から取り出した資料をドンっと置いた。

「はいっ、次の裁判の資料です!初期の情報からもう一度洗い出したから、しっかりと目を通しておいて下さいね!」

「これがその創作物ですか?はぁ、誕生日の夜に一人でこれを…、他人事ながら、くぅ、涙が出ますねぇ」

「ちょっと!失礼!何がいけないんですか?一審での準備は万端だと思っていたのに、先方があんな切り札を持っていたなんて、次こそは絶対負けられないでしょう?」

「あー、はいはい、まぁ、そうですけどね、こんな人だから、昨日、食事だけでも付き合いましょうかって、気を遣って声かけたのに、断られるから、何かあるのかと勘ぐれば、公判の後、この資料作りじゃ誕生日気分なんて一瞬もなかったんじゃないですか?」 

「うっ…」

「本当に糞真面目な仕事人間なんだから、検事は」

「放っておいて頂戴!」

「はいはい、承知致しました!!」

≪たくもう、本当に可愛げがない≫そんな陰口を聞こえるように漏らす大きな背中を睨みながら、再びパソコンに向かった瞬間、電話が鳴った。

「はい、事務官の武井です」

さっきまで、軽い口を聞いていた、私より二つ年上の武井事務官が事務的な口調に戻り電話を取る。「はい、はい、そう言う事ですね。承知いたしました。それでは確かにお伝えします。」そう言って、丁寧に受話器を置いて私を振り返る。

「検事」

「どうかしましたか?」

眉を寄せる私に武井事務官は報告をしてくれる。

「今、次回の公判の担当弁護士の変更の連絡がありました」

「えっ…?春島弁護士が下りたの?何かあったのかしら…」

私は、目を瞬かせた。

春島弁護士とは、昨日まで自信満々だったやり手弁護士だ。こちらの情報収集の甘さから裏を掻かれた形で第一審を終えた私は、有能な彼女への悔しさもあり、必死で次回公判の証拠集めに励んでいたのだ。

「さぁ、詳しいことは…」

「そっか…」

やや、拍子抜けしてしまい瞳を曇らせていた私の気持ちに気付いたのだろう。武井事務官が、揶揄うように口角を上げた。

「検事、そうがっかりしなさんな。代理はもっと手強い相手がでてきましたよ!」

そう言われた私は首を傾げた。

「あの弁護事務所に春島弁護士より有能な人っていたの?」そう言った私に、武井事務官は苦笑するように言った。

「事務所以外の弁護士に、今回は伝手で委任したみたいですよ!この公判は注目されてますからね」

「え……?」

春島弁護士の事を良く知る私は、不可解に眉を寄せた。自らの仕事を降りる事さえ考えにくい春島弁護士。現在、彼女は妊娠中だとは聞いていたが、体調不良なのだろうかと心配になる。

それにしても他の弁護士事務所の人にあれだけ気合を入れていた案件を任せるなんて、どこか彼女らしくないと思い私は眉を寄せた。

「検事、代理人は、最近、マスコミでも人気の鍋島弁護士ですってよ!」

その言葉に私は目を瞬かせる。

「鍋島弁護士…?あの?」

「そう、その、鍋島弁護士です!」

「…、え?何だってまた??」

「さぁねぇ、人気者の気紛れとか?」

その言葉に私は頷いた。

ぼんやりとテレビで見た、その人の容姿を朧げながら思い出す。たしか、芸能人のようなルックスをした弁護士らしき人がコメンテーターとして登場してて、その番組では…

ダメだ、詳細は思い出せない。
あの手の人は弁護士資格をもった事を売りにする芸能人の一人のように別世界の住人に思えてしまう自分がいる。

だけど、今回、そんな人がこの公判の弁護を受けたのだ。訝し気に思案する私に、武井事務官が笑った。

「まぁ、でも男日照りの検事にとっては、久々の目の保養になるんじゃないんですか?お相手イケメン弁護士の名を欲しいままにしてる人でしょ?よかったですねぇ?」

その無神経な言葉に私はキッと目を釣り上げた。

「あ、あのねぇ?し、神聖な法廷で、そんな事考える暇ある訳ないでしょう?冗談でもそんな事言わないで下さい!」

そんなの、無実かも知れない容疑者にも、正当な裁きを望む被害者にも不誠実極まりない。

「冗談って分かってるんでしたら、そんなに怒らないでくださいよ!!本当に検事は糞真面目なんだから!!」

「ま、真面目に、糞は付けなくていい!」

「へいへい…」

「返事は『はい』と一回だけって、お母さんや研修時に教えてもらわなかったんですか?」

「はい!石崎検事殿、小生は仕事に戻ります。ご用事がありましたら、いつでもはせ参じますので、どうぞご遠慮無くお申し付け下さい!!」

そう言って、大柄な武井事務官は丁寧過ぎる程、丁寧に一礼して部屋を退出した。
部屋を出た瞬間笑いながら「なんて、かーわいい、でもあれで、ほんと有能だから、あの嬢ちゃんすげぇよな?」なんて言ってる事は私には想像すらできなかった。

「もうっ、人を小馬鹿にして!!!」

そう言って私は閉じられたドアを、唇を尖らせて睨みつけていた。



そして今日、第二審の公判の日、事件は起きたのだ。

公判で初めて目にしたスーツに眼鏡姿の男は、それは出来る弁護士風の清潔感に溢れるイケメンだった。
、渾身の一撃をお見舞しようと、準備に準備を重ねた調書による展開は、何度も「意義有り!」と理路整然とした態度で主張を覆されて今日の公判は終了した。完全にこちらが押し負けている事は誰の目にも明らかだった。

「……嘘でしょ?あれだけ準備したのに」

久々に舐めた苦渋に茫然とする私に、武井事務官が苦笑する。

「検事、今回は相手がちょっと手強かったですね。でもまだ次回があります、次こそはしっかり準備して取り戻しましょう?景気づけに一杯行きますか?」

「う、うん……」

(いる、欲しい…)

今の私には、酒がいる。
付き合いが長くなってきた武井事務官にもそれが分かっているのだろう。
先輩であり、部下でもある武井事務官の心遣いに今日は甘える事にした。

芸能人弁護士と思っていた人に負けるのは、口に出さないけどこの道一筋で努力を重ねた自分にはショックだったのだと思う。

苦虫を噛み締めながら、私は武井事務官を裁判所のロビーで待っていた。
その時、突然後ろから声をかけられた。

「今日の公判、お疲れさまでした」

振り返った男を見上げた私は眉を寄せた。
(うっ…、これは…)
芸能人と思えるほどの綺麗な立ち姿に圧倒されたのだ。さっきまで法廷で距離を保って対峙していた相手、あの鍋島弁護士が今、目の前にいる。
芸能人弁護士と言われるだけあって、纏うオーラが一般人とはどこか違う。

「ど、どうも、お疲れさまでした」

そう挨拶した私は、それでも今日の悔しさから戦闘モードに入る。

『今日は正直、こちらの完敗でした。お見事です。でも、次回は必ず巻き返して見せますから!」

先ほどまでコテンパンに論破され続けていた私は、相手を真っ直ぐに睨みつける勢いでそう言って、不愛想なほど丁寧に頭を下げた。

テレビで見たこの人は眼鏡をしておらず、端正な顔を小さな笑顔で綻ばせていてもう少し柔らかい印象があったように思う。だけど、あれはテレビ用の営業スマイルなのだろう。法廷で見る目の前のこの人は、とてもよく眼鏡が似合っていて、嫌味なくらいに隙が無いのだ。言葉も話し方も理路整然として説得力に溢れ、表情も場を圧倒する存在感があり、立ち居振る舞いも経験を裏付けるように落ち着いていた。
だから、彼の敏腕弁護士という評判は決して偽りでは無かったのだと思い知る。だけど何故だろう。それだけに、今、とても悔しいと感じてしまう自分もいるのだ。理屈では無い劣等感。
これは一体何故なのか自分でも戸惑う。

そんな、敵意を隠さない私の言葉に、男は一瞬目を見開いた後、その表情に不敵な笑みを浮かべた。
それに私はムッとする。きっと、相手にもならない女だ、と侮蔑しているのだろう。この仕事を初めてから何度もそんな嘲笑を密かに受けてきた私は、またかと顔を歪めた。

「ふふっ、相変わらずですね、石崎さん、お久しぶりです」

突然そう言われた私は、固まった。
この人と法廷で戦ったのはこれが初めてのはずなのだ。

訝し気に眉を寄せたままの私に、目の前の男は、少し顔を綻ばせた。

そのギャップに不覚にも心臓がドキリとした。
イケメン眼鏡の破壊力おそるべし!

「……、思い出せませんか?残念だな、同級生だったのに」

目の前の男は、その美貌を一瞬悲し気に歪ませた。

「ちょ、待ってください!」

知っている人だと言うのだろうか?
いや、それは無いと思う。
割と人の顔を覚える自信はあるのに、これだけの特徴のある人なのに、会った事があれば記憶にあるはず。
焦った様子の私に、男は少し困ったように続けた。

「なら、これならどうですか?」

そう言った男は、低い声で続けた。

「石崎さん、僕も今度は負けませんよ?勝負です!」

グッと顔を近づけられて、目を真っすぐに見つめられて突然そう言われた私は、目を見開いたまま固まった。

びっくりしただけではない。
この光景に確かな既視感を感じたからだ。
未だに、真っすぐ向けられた、答えを求める様な瞳から目を離せない。

耳にこだまするように残る、痺れるような大人の男性の声は、さっきの法廷とも、私の知る男の子とも違う。

ーー知らない、だけど、これは

「鍋島…くん?」

そう呟いた自分の声に誰より自分が驚き、私は目の前の男を目を見開いて凝視した。
弁護士、それが今回の担当弁護士の名前。
そして、私が、今思い浮かべたのが、かつての同級生の君。

「う、嘘……」

目を瞬かせたままの私の反応に苦笑する男。

「思い出して、くれましたか?石崎さん?嬉しいなぁ、また君と逢えるなんて、法廷中も気になって、気がそぞろになりそうな自分を律するのに必死でしたよ?」

そんな事を言う、鍋島弁護士こと鍋島君。
この私の認識が確かならば、これは驚愕の事実だ!

だって、私の知る鍋島君は、決してこんなタイプの男の子では無かったはずなのだ。


****

あれは確か、中学校に入ってからだ。
定期テストの点数が張り出されるような、そんな学校で私達は同級生だった。
確か、一年生と二年生の時に同じクラスだったように思う。
仲が良かったかと言われれば、正直よく分からない。
ただ、テストが返ってくる度に、彼が私のところに、白い用紙を握りしめて訪れていた事は今もよく覚えている。

「石崎さん、勝負です!」
決してイケメンの印象などない。
どちらかと言えば、某国民的人気アニメの学級委員長の、〇男くんのような真面目な印象の私と同じくらいの身長の男の子。
長い前髪に丸眼鏡。同級生には時々真面眼鏡まじめがねなんて言われていたような。

本来、人と競うという事がピンと来なかった私の元に訪れては私にテストの点数を問いかけて、まるで最終宣告を待つような面持ちをした後に、勝っても負けても大袈裟に一喜一憂していた鍋島君。
私も始めは戸惑っていたけれど、いつの間にかそれが、恒例行事のようになり、私も密かに彼の訪れを楽しみにしていた。そして周りもそんな私達のやり取りを≪雛人形と武将の国盗り合戦≫とか言って、面白おかしく笑っていた。武将と言うのは、鍋島君の事で、本人の物腰が固過ぎるところと、確か正勝と言う戦国武将のような名前から来ていたような。今思えば、私達の定期テストは、一番か二番である事が多かった。だからその上位争いを周囲は苦笑しながらも、興味深く見守っていたのかもしれない。

「あの、鍋島くん?うそ!?本当に久しぶり。私、全然、分からなかったよ、だって…」

信じられない様子で不躾に見つめてしまう。
だって、同じ人がこんなにも変わるものとは誰が思うだろうか。

当時、私と同じくらいだった身長は、私の頭一つ半以上の、見上げる程の高身長となり、そのバランスもモデル顔負けなのだ。いや、テレビ等でコメンテーターとして芸能人と変わらないくらいの取り上げ方をされている人なのだ。モデル顔負けと言う言い方自体、彼に対して失礼なのかもしれない。

ほぅっと息を吐いて、まじまじとその姿を見上げる。
短く形よく切られた黒い髪の毛は、テレビの時とは少し印象を変えるように、きっちりと弁護士らしく整えられているのに、実に今っぽい。アーモンドを思わせる切れ長の瞳は長い睫で縁取られて凛とした意志の強さを醸し出す。だけど、今、その瞳は、そんな見た目の印象を覆すように柔らかく細められてこちらを懐かしそうに見つめていた。

「十年以上ぶりだからね?」

そう言われて、もうそんなにも時が経つのかと改めて驚く。

「もう、そんなになるの?」

驚く私に、鍋島君は笑った。
その笑顔が少しだけ切なそうに感じたのは気のせいだろうか。

「石崎さんは変わらない、…こんなにも、変わってないなんて思わなかった」

そう言われた私は、やっぱりと思いながらもちょっとだけがっかりする。
十年以上経って変わらないと言われた28歳は喜んでいいのか、悲しんでいいのか正直判断に迷う。

「ははっ、そりゃね、皆が皆、鍋島君みたいに劇的に変わるもんじゃないよ?」

「……変わったのかな、僕は?」

「そりゃ、そうだよ?もう全然別人の域だよね?スーツだって、モデル顔負けに着こなしてるし、ほんと、ビックリだよ?」

「これは、…勝負服だから」

「勝負服?」

そっか、ここは法廷。
私は検事、彼は弁護士、身を包むスーツは勝負服とは確かに。苦笑しながらも納得する私に、鍋島君は何か言いかけた。

その瞬間、後方のドアが開いて、大きな声がした。

「検事!?喜んで下さいよ!!検事が前に読んでいた雑誌の冒頭飾ってた、創作フレンチの店あったっしょ?えっと、確か、リヨールでしたっけ?」

そう言われた私は振り返った。

(うん、読んでたね、本当は違うページのお一人様居酒屋特集が気になって買った本だったんだけどね…)

「その店、梶谷事務官が、気を利かせて検事の為に押さえてくれたって連絡きましたよ!」

「えっ……?そうなの??」

あの時、本当に行きたかった店が、渋すぎて言い出し辛かったから、咄嗟に他の女性から冒頭の店の話題があがったから乗っかっただけの私。
内心引き攣る私に、武井事務官は胸を張る。

今日は創作フレンチじゃないんだよね、気分は、なんて言えそうに無い。

「二名で六時からしか予約取れなかったみたいなんで、急いでくださいよ!今日は、ちゃんと面倒みますから、たっぷり飲んじゃっていいっすよ?しっかり憂さを晴らしてまた頑張りましょう?」

(いや、憂さをあそこで?私が求めてた憂さ晴らしってのは、あぁいうところじゃなくて、もっとさ……、もっと、こう、ほらっ)

そう心で盛大に突っ込んだ瞬間、目の前の同級生の身体がピクリと震えるのを見て、しまったと思った。

「あっ……」
「げっ……」

武井事務官も人がいるとは思っていなかったのだろう。
しかもに違いない鍋島君を目の前にして気まずさに固まっていた。

「……二人?創作フレンチ??」

だけど、鍋島くんは怒る様子はない。
ないけど、ぼそりとそんな声が聞こえた気がした。
あまりにも生気が無く低い声だった為、気のせいだと思う事にした。

「あっ、ははっ? 気にしないでね?よ、よく行くの。公判の後の恒例みたいなものだから、ね?い、行きましょうか?武井先輩」

「そ、そうだな、行こうか、石崎……」

何度も数々の修羅場を、共に切り抜けてきた私達は、公式の場では私が上司で彼が部下であるのだが、定時を過ぎたら、こう呼び合う事を随分前から、暗黙の了解にしていた。
それでなければ、お酒の場では著しく浮いてしまうからと、私が希望した事だった。
それに何より、お兄ちゃんのように感じる気さくな武井事務官との関係は、本当はこちらの方がずっとしっくりとくるのだ。

「じゃあ、また、鍋島君…」

そう言って、少し気まずいまま、気安く手を振る私を見て、武井先輩は一瞬目を瞬かせた。

って、お前……」

そう諫める武井先輩は、鍋島君に小さく会釈した。
そうして立ち去る私達の後ろ姿を、鍋島君が感情を殺した能面のような表情で見つめている事に、この時の私は気付くはずは無かった。

いつものように武井先輩に酔っ払いらしく、醜態を晒しながら、お洒落過ぎる創作料理を口にして、少し奮発したワインを口にした。内心では、これじゃないんだよね、と相当罰当たりな事を思いながら。

「遅れた誕生日にご馳走してやるよ」と言ってくれる武井先輩に「部下に奢ってもらう訳にはいきません」と辞退して、「チっ、ほんと、可愛くねえな」なんてケタケタ笑われながら、結局割り勘で店を出た私達は、送ると言ってくれた武井先輩を丁重にお断りして、夜の街を一人歩いていた。

「はぁ~、気持ちいい~!!」

ほろ酔い気分の私は上機嫌ながらも、街のところどころにある少し田舎臭さを感じる個人料理店の看板に目を向けて溜息を吐いた。

「本当は、こんなところがいいんだけどなぁ、今度は、正直に言ってみようかな。先輩や、今の職場の皆なら、きっと分かってくれる気がする…」

気心が知れた今なら、馬鹿にしないでいてくれる気がする。
就職して以来、ずっと気が張っていた。

新人のくせに…
女性のくせに…

随分女性の社会進出が進んだ今でも、根強い男社会の意識は未だに残っている。

だから、女性の弱さも、田舎臭さも見せないように振る舞ってきた。早く一人前になれるように、自分にできる勉強を続けてきた。

それで、無くしたものもあったけれど、それでしか得られなかった経験もまた、同じように積んできたように思う。

28歳、検察官。
実家を出てから、早十年。
ホームシックなど、もう遠い昔の話になったけれど、だからこそ、駅で、故郷の言葉を聞くと懐かしさに聞き耳を立ててしまうくらいには、地元に愛着も持っている。

頑張っている自分を誇ってやりたいと思う一方で、自分がしている無理にも気付きたく無いのに気づいてしまうのも、そんな瞬間だ。だから、少しだけ肩肘張らずに、癒される時間や場所が欲しいと、そう思ってしまうくらいの弱さは、そろそろ自分にも許されるだろうか?

「今度、気になるお店に、皆を誘ってみようかな…。それとも一人で……。」

そんな事をぼやきながら、少し冷たくて気持ちよい、5月の街を歩く。その時、突然前に立ちふさがった人影に目を見開いて足を止めた。

「あっ……、えっ、鍋島くん?」

そこには、黙ってジッと立っている鍋島君の姿があった。ただ一つ、先ほどと違うのは、彼は今、眼鏡をしていない事。

「えっ、あのっ、どうしてここに?」

そう戸惑う私に、鍋島君は、口を開いた。

『石崎さん!』
『はい!?』

少し緊張した面持ちの鍋島君。

(なに…?どうしたんだろう?)

『お久し、ぶりです』

『ほ、ほんとうに、お久しぶりね?』

おや、この挨拶はさっき、したよね?

『い、石崎さん!』

『は、はい!?』

突然、固い口調でそう呼びかけれた私は、背筋を伸ばした。鍋島くんの前だと、緊張する癖は未だ健在のようだ。

そんな鍋島君は怖いくらい真剣な顔で私をみている。
説教されそうな勢いに、思わず一歩後ずさった私に彼は二歩歩み寄る勢いで言った。

(もしかして、ダメ出し、されるのかな?私…)

かつてこの人から浴びせられた辛辣な言葉が脳裏に過ぎる。

『石崎さん』

『はい…』

『僕とお酒を飲みに行きましょう!』

『は、はい??』

意外過ぎる言葉に、私は目を瞬かせて戸惑う。
そんな私に更に一歩近づく端正な顔。
イケメンも過ぎれば酔いが回りそうだ。

だけどそんな彼は、私に続ける。

『君を見ていたら…』

『……?』

そう眼鏡をかけていない端正な面立ちで見つめられる。ずるい、と言いたくなるほどのイケメンぶりに私は眉を寄せる。そう言えば、眼鏡をかけていない彼をリアルで見るのは初めてかもしれない。

やはり、テレビに出ている鍋島弁護士に間違いがないのだと今更不思議な気持ちに襲われる。

『君を、見ていたら、無性に僕は…』

まるでドラマの名場面を見ている視聴者のような気持ちになって、ちょっとだけ胸がキュンとした。

『……』

『無性に、焼酎が、飲みたくなった!』

その瞬間、ドラマはあっけなく終了した。

『は…い??』

真剣そのものの声で続ける彼に少しだけ悔しさが込み上げるのは仕方がない事だろう。

『この近くに、郷土料理の店があるのだけど、一人ではちょっとばかり入りにくくてね…』

『はぁ…』

『だから、君も一緒に行ってくれないか?』

なんだ、そう言う事かとストンと納得する。

我らは同郷、の出身なのだ。
おいしいお酒と郷土料理は、同郷の間柄ではやはりなのだ!!

お酒万歳!
郷土料理万歳!!

そう言えば、本当に長い事口にしてはいない。

『いやいや…、でも』

だけど、一つだけ引っ掛かりがある私は躊躇した。
私達は、お酒と郷土料理を愛する同郷の同級生♡

ーーであったとしてもだ!

今は同じ案件を扱う、弁護士と検事でもあるのだ。
やはり、これはよろしくない。
うん、とてもよろしくない。

『行こう!石崎さん!!』

更に一歩歩み寄る鍋島君。

だから、近いってば!
私は後ろに仰け反る。

『いや、でもね、やっぱりそういうのは、公判中は…』

その時、逃さないとでもいうように鍋島くんは私の肩をガッチリと掴んだ。そして恐ろしいほどの威圧感で、私に告げた。法廷で多くの場面を経験してきたこの私が、この瞬間、気圧されたのだ。

そして、目の前の男は、怯む私にをお見舞した。

や、が、それはもう絶品の店なんだ!』

『えっ??』

何という恐ろしい切り札を持っているんだ、この男は。

この時、私は自らの敗北をじわじわと悟り始めた。
それでも、この狡猾な男は、更なる、決定的なトドメを刺す事を怠らなかった。

『さすがに故郷で食べるには及ばないながら、もなかなかだ!石崎さん!!君だって好きだろう?』

(うん、好き♡あれは白い宝石だ!!刺身の王様だ!!!)

『地酒もとてもいいものを揃えているんだ!同郷の俺の味覚を、君も信用してくれるね?!』

(うん、信用するよ、だって、鍋島君は同郷だもんね♡お酒の町の同志だもんね?)

『……じゃあ、少しだけ』

プライベートでの私はチョロかった。


赤提灯
狭い座敷
元気なおじちゃんとおばちゃん
常連さんが騒ぐ声
店内に複数混ざる故郷のなまり

(いい…、凄くいい……)

私は言葉もなく感動していた。

『石崎さん?』
『はい』

はいよ、と運ばれてくる、並々と注がれた日本酒に頬を緩める私に、鍋島君の堅い声が掛かる。

『いける口ですか?』

『え、それはまぁ、そうだと思うけど、鍋島くんもやっぱり、お酒好き?』

にっこり上機嫌で応える私に、鍋島君は大きく頷いた。

『はい、もちろんです!酒と郷土料理に対する思いは地元愛に比例します!』

『ははっ、大袈裟!だけど、たしかに!!そうだ!そうだ!』

凄く真面目な回答が益々、鍋島君らしくて、思わず笑ってしまった私に鍋島君は構わず続けた。

『それでは、石崎さん、僕と勝負をしませんか?』

『勝負?』

真剣な顔が私を真っすぐに捉えている。
こういう顔をされると、私の知っている鍋島君だなと、本当に懐かしくなる。

いつも一直線に私のところにテストを握りしめてやってきて勝負を挑んだ鍋島君。
定期テストの前『負けませんからね!石崎さん!!』と宣戦布告してきた鍋島君。

『何を?』

懐かしさに、笑みを浮かべたままそう問い返す私に、鍋島君は言う。

『どちらが、精神力が強いかですよ?もちろん先に潰れた方が負けです』

『なっ、なんでそんな事を?』

私は目を瞬かせた。

折角訪れた郷土料理店、その味をこれからゆっくりまったりと堪能しようとしていた矢先での、まさかの飲み比べの誘いに私は戸惑う。

『ちょっとした遊び心です?それではいけませんか?』

『い、いけなくはないけど、折角来たんだし、ゆっくり食べる方が…』

そう迷う私を、鍋島君はジッと見つめる。

だから、近いんだってば。
今は眼鏡を外しているせいかもしれないけど、そのお顔でのこの距離感は、女性は戸惑ったり、勘違いしちゃいますよ?

そう言いたい。
だけど、そう教えてあげたところで、鍋島君には通用しない気がして、私は指摘するのを諦めた。
再会しても感じるのだ。
私が知る限り、この人はだけは欠如しているように思うのだ。

『それとも石崎さんは、未だにお勉強と仕事以外に興味はありませんか?ご結婚もまだのようですし』

そう言われた私は、現実に戻り、グッと拳を握りしめた。

(これだ!、なのだ…)

『うっ……、鍋島くんだって、けっ、結婚はまだでしょう!?』

何故だか、彼の変わらないところを見つけた私は、そんな確信に近い何かを感じてそう問いかけた。でも、鍋島君は、そんなささやかな私の反撃には動じずに、私をジッと見つめている。

『……確かにまだですが、興味がない訳ではありません』

『そ、そう……』

この回答は正直意外だった。
鍋島君らしくない。
何故だかもやもやする感情の正体に私はようやく思い当たったのだ。

(分かった!これはきっと、鍋島君には、既にがいて、それについての幸せ自慢に違いなくない??鍋島くんは、昔から私に妙な対抗心を燃やして勝負を挑む癖があったから!!)

幸せ比べ?
そんな勝負なんて…
あぁ、最悪だ、絶対、悪酔いしちゃうよ?私…

今からでも事前逃亡したいな、なんて思っていると、またもや意外な事を言われた。

『あっ、それとも、もしかして、酔って僕に秘密情報でもバラしてしまうのが恐ろしいですか?』

『へっ…?』

『大丈夫ですよ?そんな事をしなくても僕はこの法廷で負ける事は99%と思っていますから』

『なっ…』

その言葉に私は絶句した。
今、確実に、私は馬鹿にされたのだ!
これは、これだけは、同郷でも許すまじ!

『どうします?』

『い、いいい、いいでしょう!!』

こうして、意地をかけた絶対負けられない戦いは始まった。

美味しい料理と、お酒を十分過ぎるほど堪能した。
予想を何倍も裏切るほどの好みの味。
雰囲気、温かい空間。

だけど、飲んだ…
さすがに飲み過ぎた…


「あらあらあら、大丈夫?まぁ、弁護士先生がいらっしゃるからねぇ?」
心配する周りの声に、店の人に「大丈夫ですよ、ちゃんと連れて帰りますから」と柔和に語る声。

ザルなのか??
君に限界は無いのか?

世界が少しずつ遠くなるなかで、抱き上げられるような浮遊感を感じたと思ったら、聞き覚えのある、声が耳元で響く。

『石崎さん、この勝負は僕の勝ちでしたね、君は全然変わらない、安心しましたよ』

その声に、この状態でも、自らの敗北を悟る。

だけど、だけどだ!
酒と料理は本当に美味しかった。
故郷を感じる絶品であったのだ。

私は、確かに感動した!

負けて悔いなしとはこのことだと、私は、潔く、敵を讃えようと微笑んだ。

『…おいし、かったひょ、また、来たい、な…』

『それは良かった。でも、まだ勝負はついていませんから。石崎さん?』

『…ん?』

『次は、僕と本気で勝負です』

そんなストイックな鍋島君の態度の意味も分からずに、正体を無くした私は、酒と料理への満足感と相まって、どんどん目の前の同郷のライバルに絆されているようだ。

『うん……、いーよ?勝負??あははっ、受けて立ちまひょう♡』

『で…?次は何するのぉ?何してくれるの??言ってみなよぉ、ほれ、ほれ、同級生なんでひょ?遠慮しないでぇ』

そうフワフワと返した私の言葉に、鍋島君が顔を真っ赤にして複雑な顔を浮かべていた事に私は気付かなかった。


☆鍋島視点☆

ふにゃりと俺に体を預けて幸せそうに眠る石崎さんに、自爆しそうな程、心臓が高鳴る。
愛しい、今ならはっきりと分かる。
あの頃の自分を殴ってやりたい。

彼女は学業を競い合う相手だった。
よきライバルだと信じていた。
本当に、ただ、それだけだった。

だけど、中学三年に入った頃から、彼女の成績が少しづつ下がった俺は、無意識に彼女を目で追いかけた。その理由は、鈍い自分でも直ぐに分かった。
『瀬尾』と言う、サッカー部の男に彼女は恋をして、告白をして付き合い始めたからだった。

多分、自分は傷ついたのだと思う。
だけどあの時、自分は何故、自分が悲しいのか分からなかった。だから、彼女が勉強以外に目を向けている事が悲しいのだと、そうに違いないと、そう無理やり結論づけて、何事も無かったように勉強を続けた。

だけど、そんな彼女を、学業を競い合うだけだった青春ともいえない青春を、自分はずっと忘れる事ができなかった。

その頃、始めて自慰をした時も、瞼に彼女が浮かんでいた。大学に入り、女性の身体というものを知った後も、それは何故か変わらなかった。

一人暮らしを始め、暫くした頃、猫を飼い始めた。
白に黒ブチの昔からよくいる日本猫。
名前は『石崎さん』だ。
ちなみに今も、我が家で健在だ。
その名前の由来を突っ込まれて付き合っていた女性に別れを告げられた事もあるが、不思議な程、痛みが無かった。

自分の胸を痛くしたのは、後でも先でもあの経験だけなのだ。あまり自覚はないが、変人だとよく言われる。ちょっとアレだよね、と濁した言葉も慣れるくらい受けてきた。

そんな自分は彼女に勝ちたい。
その思いは無くならなかった。
大学卒業した翌年、興味の無い同窓会に参加して彼女を探した。
だけど彼女はいなかった。

その時聞いた。
検事を目指して、勉強中だと。
逢いたいと思った。
でも、その方法が分からなくって、数年間、悶々としていた自分にTV出演の話が来た。
初めは断った。
でも、仕事を回してくれる同業の女性に囁かれた。

ーー探してる彼女に気づいて貰えるかもよ?
  やってみたら?

本当は、とっくに負けている、自分は彼女に惨敗に惨敗を重ねてきたのだろう。

こんなにも、忘れられなかったのだから。
今また、時を超えて、久しぶりに会った彼女に、一瞬にして恋に落ちて、こんなにも溺れているのだから。

もう絶対に離したくないと心と体が叫びをあげるくらいに執着しているのだから。

≪だから、僕は負けない!≫

今度は負ける訳にはいかない。
きっと、この心も永遠に手に入れてみせる。

(だから……)


⭐︎⭐︎

『石崎さん、勝負です!』

『だから、何の、…勝負!?な、の…っ…』

息も絶え絶えに、そう悲鳴をあげる彼女の再奥を執拗に穿つ僕は、縋るように彼女を抱きしめてその匂いを嗅ぐ。

『石崎さん…』

あの頃の匂いがする。
自分の唯一の青春とも呼べない青春の香り。

『石崎さん、石崎さん、石崎さん…』

まるで、セックスを覚えたてのように、余裕なく、彼女を責め立てる。不味いとは思いながらも、完全に、体と心が彼女の痴態を前に暴走を始めてしまった。
これはもう、刺したり、殴ったりされない限りは止まらない。

だけど、自分も法律に関わる人間だ!
挿れる前に、許可はとった、ちゃんととった!!
その前は、ほんの少し強引で若干卑怯、いや、戦略的であったかもしれないけれど…

これは、セーフだ!
セーフに違いないと、自分を納得させる。

強制猥褻罪にも、ストーカーにも該当はしないはずだ。

このまま、エスカレートしなければだが…

酒を飲みに行くのも、ちゃんと了承を得た。
一つ一つの勝負にも、キチンと了承を得た。
ホテルで少し休む事も、一応了承を得た、……はずだ。

唇に唇で触れる事も、彼女は了承してくれた。
服を脱がす事も、彼女の身体に触れる事も…
善がって涙を流して熱く火照った彼女に、自分の分身を挿入することも…

許してくれたのだ!
彼女が、この自分を!!
だから、自分は今、彼女と繋がっている!!!

ついに、ついに…
自分は彼女と繋がる事ができたのだ!

歓喜に震えながら、はっはっはっとまるで犬のように腰を振る。彼女が嬌声をあげた場所を容赦なく、自分の亀頭で何度も擦りつける。マーキングするように彼女の白い肌に何度も印をつけたい衝動が治らない。

これが誰に付けられた跡なのか、忘れられないように。気持ちいいと思って欲しい、また自分が欲しいと思って欲しい。

もう逃がさない、もう絶対に離れない……

気持ちは高まるばかりで、結局この日、封を開けた避妊具はもう半分は使用済みの状態で、正気になった時の彼女の目に触れないようにゴミ箱の奥深くに隠す様に捨てる事になった。

その晩は、眠る事など出来なかった。
ぐったりと眠る彼女の白い顔を、ただひたすら見つめ続けた。きっと、どれだけ見ていても、これだけは飽きない自信がある。

長い睫、白い肌、薄化粧なのに紅い唇。
寝ている姿が可愛いと思いながら、瞳を開けて欲しいと、焦れる気持ちを持て余す。

この瞳を開いた彼女を想像する。
いつも朗らかに笑い、時にはドキリとするほどの意思を込めた瞳で周囲を魅了する事を自分は知っている。本気になった時の彼女は美しい。
それを何度も何度も思い返し、自分は後悔と共に生きてきた。

だけど、彼女は、今、ここにいる。
あの頃のふんわりとした優しい面影を十分に残したまま、より一層強くなって、美しくなって、大人の女性になって、この腕の中にいる。

ーーそして自分も、既に愛情表現の仕方を知らない子供ではない

可愛い…
可愛すぎる…

自分の、自分だけの本物のの額にそっと唇を寄せると、長い睫が僅かに震えた。
それは彼女の眠りに間も無く終わりが訪れる事を物語っている。

今度こそは、瞳を開けて、僕をみつめる彼女に気持ちを伝えて、不甲斐ない青春と決別しよう。

『僕と勝負して下さい!』

目覚めた君に、そう言ったなら、君はきっと問うだろう。いつものように『何の勝負ですか?』と、その黒い瞳を瞬かせて。

そんな君に、僕は、今度こそ、誠実に答えよう。

『貴女を一生、幸せにする勝負です!』

―――僕は、絶対負けません!!と。

そう独りよがりに突然言い切る僕に、君はなんて答えるだろう?

それは分からない。

だけど、一つだけ分かるとしたら、これで自分達の時は動き始める。そして、この勝負だけは引かないし、彼女は誰にも譲らない。

そして、必ず最後には勝利をこの手に収めてみせる。


☆石崎視点☆

夢を見ていた。

『石崎さん、勝負です!』
そう言われて、見上げた先には酷く真面目な顔をした、あどけなさが残る男の子が一人。
涙で霞んで、よく見えないその顔に、私は必死で引き攣った笑顔を浮かべる。
その時の私は、酷く悲しくて、情けなくて、彼にそれを悟られたくなかった。

彼の手には理科のテストが握りしめられている。
私も彼も理科は得意分野だ。
94点と書いてある、彼の答案を見て、私は机の中のテスト用紙を握りしめて俯いた。
そっと、答案用紙を差し出した私の67点と言ういつもとはかけ離れた点数に彼は唖然としていた。気まずくて、『ははっ』っと笑ってごまかす私に、彼の辛辣な言葉が突き刺さる。眼鏡の底の表情は見えない。それでも酷く強張った失望したような声だった。『残念です、石崎さん、貴女が集中力を欠くなんて。あなたは本来そんな点数を取るような人じゃないでしょう!いつも、平穏で、穏やかで、それでも、たゆまない努力をし続ける貴女だから、僕は尊敬していたのに…』そう言われた私は冷や水を浴びせられたような気分だった。『今の、貴女では、勝負になりませんね。……僕は、今、とても、つまらない』そう落胆されたのが、とても悲しくって『鍋島くん…、ごめんね?次はちゃんと頑張るから…』と何故か謝る私。そんな私に痛そうな顔をした彼は『……謝らないでください、君を責めたい訳ではないんです、そうじゃないんです。だけど、どうしても、あぁ、何を言ってるんでしょうね、僕は、忘れて下さい、石崎さん!』そう言って私から、背を向けた鍋島君は、その後、卒業まで、私に新たな勝負を挑む事は無かった。

微睡みの中で、夢を見ていた事を知り、苦笑する。

―――あぁ、あの頃の夢だ

中学二年になった私は、サッカー部の男の子に一年以上片想いをしていて、勇気を出して告白した。ダメで元々と、勇気を出した告白は予想を裏切って成功をして、その男の子と交際をするようになった。だけど初めての彼氏に浮かれていた私の成績は、少しずつ確実に下がり始めた。その彼の成績はもっとずっと思わしくなくて、それを心配した私の提案で、二人で勉強をするようになったが、やがて私は振られてしまった。『顔だけだったら、それなりに好みなのに、こんなに面白みもない女とは付き合えない』と、そんなショックが癒えないまま迎えたテストの点数が、その時の点数だった。

鍋島君に軽蔑されて、正論を言われた事は正直とても悲しかった。
だけど、それは、本当に的を得ていて、それまでの自分の努力を肯定してくれるものだった。
だから、再び、本来の自分を思い出した私は、前向きに頑張る事を思い出し、その後も、勉強だけではなく、色んな事を一つ一つコツコツと乗り越えてきた。

私も、嫌いじゃなかったんだなと、今は思う。
鍋島くんとの勝負も『石崎さん、勝負です!』という真面目な顔も。
それに真っすぐ向き合ってきた、あの頃の自分が、おそらく、今の私の原点なのだ。

私は、まだ、あの瞳に向き合う事ができる自分だろうか?
今の自分は、彼に再び勝負を挑んでもらえる資格があるのだろうか。

そんな時、ふと、額に温もりを感じて、今の状況に戸惑った。

(待って、……ここどこ? 私、何してたんだっけ??)

自分の寝姿が、想像つかない。
どっちを向いてどこで寝ているのか思い当たらない違和感に、パチリと目を見開いた私の前には、優しく自分を見つめる瞳があった。

『おはよう、石崎さん』

『ひっ?』

その笑顔の破壊力に、パニック状態に陥りそうな私に、目の前の男は言う。

『さっそくだけど、石崎さん、昨日の事は覚えてる?』

そう問われて、私は眉を寄せた。
そして、チラリと下をみて、互いが全裸である事を確認して、内心大きな叫び声をあげた。

(う、嘘でしょ?……で、でも、覚えてる、ちゃあ、お、覚えてるわ、私!!断片的にだけど)

その、事実に愕然とした。
顔が引き攣る。

『お、覚えてる、け、けど、大丈夫、大丈夫だよ?鍋島君!!気にしないで……』

そう鍋島君の顔の前で両手を振りながら取り繕った。

『こ、こんなの、よ、よくある事だよね?お互い??お、大人だし…』

ある訳ない…
が、石崎雛、28歳。
もちろん処女ではない。
もはや、小娘のように狼狽える歳でもないのだ。
そう、ガクガクと震えそうな自分に言い聞かせる。

『……よくある?』

そう言って、押し黙る目の前の裸体を見て、私は顔を背けた。どこの雑誌のモデルかと突っ込みたくなる肉体が眩しくて見つめられない。
だけど、そんな私を逃がさないとでも言うように、鍋島君は端正な顔で私を覗き込む。

『僕は、無いよ?こんな事、付き合ってもいない女性とホテルでこんなことするなんて』

そう言われて、怒ったように、私を見つめる鍋島君。
そうだ、鍋島くんは、がつくほど、真面目な人だった。

うん、そうだね。こんなこと、しなさそう。
あれ、でも、じゃあなんだって、私達はこんな事になってしまったのか?

もしかして、もしかしてだけど、私は、…私が、鍋島君を襲った??
やってしまったの、私?犯罪者なの?私…
職業、検事の犯罪者?

!!!いやぁぁあぁ~!!!

一気に顔面が蒼白になった。
身体から血の気と言う血の気が引いた。

『ねぇ、石崎さん、君も、そんな人じゃない、そうだよね?』

『うっ……?』

身持ちは、固すぎる程固い方だと、自分でも思う。
だけど、こんな事を昨日の今日しでかしてしまった今、胸を張ってそんな事は言えない。

ていうか、私、じゃないの?

それじゃあ、襲った訳でもないのか?

よ、よかったぁ~

涙目で自分にセーフを出す私は突然手を取られた。

『誤解しないで、聞いて欲しいんだ』

そう、指先をキュっと握りしめられて、彼を見上げる。

『う、うん?』

私を見つめる、彼の顔は、少し照れているようだが、優しく細められていた。

『昨日の、君のなか、……凄く、気持ちよかった』

『………ん??』

何か、今、この真面目な人から凄く似つかわしくない言葉が飛び出なかっただろうか?

『ほんとうに気持ちよかったんだ、今までのどんな瞬間よりも…』

『そ、そっか、それは、うん、よかった、ね……?』

引き攣りながら、そう答える私は、そのままベッドに押し倒された。今にも唇が触れ合うほど至近距離に鍋島君がいる。

『ちょ、鍋島君、さすがに、駄目だよ?こんなの、わ、忘れられなくなっちゃうでしょ?』

酒という名の、夢が覚めた朝
検事と弁護士
久しぶりに偶然会っただけの同級生

『というと、このままじゃあ、忘れちゃうかも知れないんだ?』

そう、不穏な笑みを浮かべる鍋島君。

『石崎さん、勝負、しよ?』

『なっ、こんな時に、なんの?』

『石崎さんは、僕との事、忘れたい?……僕は、忘れられたくないよ』

そう言って、唇を寄せられ、唇を食まれる。

『君が忘れると言うなら、僕は、絶対に忘れられないように、君の身体に僕を刻み付ける、何度でも……』

そんな勝負があるだろうかと、私は驚愕に目を見開いた。

『大丈夫、怖がらないで?それが嫌なら、石崎さん、別の勝負しようか?』

その笑顔は不穏な程、優しい。

―――きっと、私は、また勝負を挑まれるのだろう。

この時、感じるものがあった。
きっと、私と彼の勝負は、とても永いものになるのかもしれないと。


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