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第二章 ⑥ 崩れゆく世界
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こんな関係はいけないと自分のなかで警鐘が鳴る。
だけど、あれから私は拒みきれず何度か桐谷くんを受け入れてしまっている。
もちろんオフィスでの行為はあの一回限りだ。
そして毎回、賢者タイムに陥る度に桐谷くんは私を優しく抱きしめながらこう言ってくれる。
「そんな顔しないでください、返事は急ぎませんから、だけど俺はいつでも陽愛先輩の恋人になる準備は出来てます。だから陽愛先輩もいつか俺を好きになってください。だけど、それまでは、他の誰にも目が行かないように俺は陽愛先輩にこうやってしっかり張り付いてますから」
「ちょっと、そんなわけにはいかないでしょう?爛れてるよ、こんな関係!?」
「じゃあ、俺のことは犬とでも思ってください!」
そう言って笑う桐谷くん。
「は?犬って??」
「でっかい犬に懐かれたと思って溜息つく気持ちで、それでも傍に置いてくれたらそれでいいです、でも、陽愛先輩、なにかちょっとでも上手く出来たら、ご褒美ください」
「ご褒美ってなんだよ?」
「何だっていいんです、陽愛先輩がくれるなら、キスでも、頭撫でるのでも、言葉でも、あめ玉ひとつでも口に含ませてくれたら、それだけでテンション上がりますから」
「もうっ、どんな性癖だよ?」
「はぁ、でも、いつか孕ませたいなぁ、このお腹」
うっとりとした表情でお腹を摩られて私は顔色を変えた。
「ちょっと何言って、あっ、待って、桐谷くん!」
「待ちません、俺、基本待てが苦手な馬鹿犬なんで……」
笑いながらそう言った桐谷くんの言葉は、たぶんただの冗談ではない。
長身で筋肉質な大きな体は、一度スイッチが入ってしまったら、高揚感が抑えられない獣に変わる。
でも、その一方で、桐谷くんはいつだって優しい。
出会った頃から、今に至るまでずっと桐谷くんは私の気持ちを大切にしてくれている。
私はと言えば、きっとその強引さに流されたふりをしながら、桐谷くんの優しさに甘えていた。
---今は、簡単に好きだなんて言えない。言ってはいけない。
でもこうしていたら、いつかそれが許される日がくるだろうか?
桐谷くんに迷いなく愛情を返せる日が来るだろうか。
この時、狡い私は自分を正当化しながら現実から逃げて、桐谷くんの優しさに甘えていた。
だけどきっと元々、そんな資格など自分に無いことに愚かな私は気付いてはいなかったのだ。
その後、私は思ってもいない形でそれを痛感することになった。
それから数日後。
夕方のアパートで妊娠検査薬を握りしめた私は自らの背負った責任の重さに途方に暮れていた。
---海晴の、子供
きっとあの友人の結婚式の日、最後に愛し合った夜に宿した命。
今も脳裏に残る、愛の囁き。
《陽愛、愛してるよ、ずっと一緒に………》
海晴は、あの言葉を最後まで紡いだだろうか……
今となってはもう、それさえも思い出せない。
私は、その晩心細さに泣き続けた。
そんな自分が誰よりも残酷な母親だと、自分を罵りながらも、不安と惨めさを噛み締め、いつの間にか自分一人ではなくなった自分の体を抱き締めて震えながら泣いた。
---ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい
次の日、会社を休んだ。
私を心配して、何度も送られる桐谷くんの着信にもメッセージにも気付かないくらい茫然自失となっていた。
動揺は治ることなく、未来が酷く恐ろしかった。
だけど、不思議な事に、自分の心に中絶という二文字が浮かぶ事はなかった。
そんな時、突然玄関の扉が音をたてた。
「陽愛先輩?いるんでしょ??ねぇ、開けてください!陽愛先輩…」
余りの勢いに驚いた私は、その扉を開けた。
「桐谷くん………」
そこには動揺した様子の桐谷くんが大きく息をはずませて立っていた。
「陽愛先輩、良かった、調子崩してるって聞いたのに、何度連絡しても応答ないから……」
そう言いかけた桐谷くんは次の瞬間、私の顔を見て絶句した。
「っ、何て顔してるんですか?一体何が………」
険しい顔をした桐谷くんは、次の瞬間、部屋の奥を睨み付けるように窺った。
誰もいないことを悟って少しだけ険がとれた彼は「上がらせてもらいます」と言うと私の腕をつかんで玄関の奥に向かう。
「ちょ、ちょっと待って!桐谷くん!!今日は………」
躊躇う私に、桐谷くんは鋭い瞳で私に言った。
「何もしませんから、一体何があったんですか?そんなに泣き張らして、いくらなんでも顔色が悪すぎます、座って下さい」
そう言って私の手を引いて、ローテーブルの脇のソファに私を座らせようとした桐谷くんは、テーブルの上にある小さなケースと体温計の大きさの物体に目を止めて固まった。
「っ、こ、これって………」
一瞬にして青ざめて、険しい顔になった桐谷くんの後ろで私は顔を歪めたまま俯いた。
「……」
そこにあった検査済みの器具を手にとる桐谷くん。
無言のまま、器具と説明書を持ったまま固まっている。そしてその手は徐々に震え始めた。
私は、その後ろで黙ったまま俯く事しか出来なかった。
「ま、まさか………」
石のような固い表情で絶句する桐谷くん。
私は、ついに崩れるようにその場に座り込んだ。
そして、無理矢理笑顔を作ろうと口角を引き上げた。
「ははっ、ゴメンね、でも桐谷くんの子供なんて言わないから、安心して……」
そう言った瞬間、桐谷くんの表情は歪み、その目は悲しみと怒りに凍りついたようだった。
こんな風にこの優しい人を傷つける結果になるとは思わなかった。
私は自分を責めながら、懸命に彼に詫びた。
「…………、ごめんなさい、本当に、ごめんなさい」
不穏な空気を漂わせて黙り込んでいた桐谷くんは、そんな私に口を開いた。
「………なんで、謝るんですか?」
その言葉に私は、堪らず嗚咽を含んだ声をあげた。
「だから、………もう桐谷くんとは」
(本当にごめんなさい…………)
だけど、そう言いかけた瞬間、ぎゅっと肩を強く捕まれた。見上げると今にも泣き出しそうな桐谷くんの顔が間近に迫っていた。
「桐谷くん………」
硬い動かない顔。
だけど、その奥に必死に隠そうとしているやるせない悲しみが痛いほどに分かってしまう。
きっと、それくらいの愛情をもらっていた。
恋人という定義もないままに、これほどまでに真っ直ぐに向けてくれた愛情を、こんな形で裏切る事しかできなかった自分が悲しくて、なにより許せなかった。
狡いのは私なのに、桐谷くんより先に泣いちゃうなんてダメだ。
「ごめん、ごめんなさい………」
そう言った瞬間、抱き締められた。
その強い包容は、逃げ場をなくすくらいギリギリと私を締め付ける。
「だから、なんで謝ろうとするんですか?子供を理由にあいつのところに行きたいから??」
その体から、カタカタと桐谷くんの震えが伝わってくる。
「ちがっ、違うよ?」
私は慌ててそう言った。
(そんなこと、できるはずがない……)
「………俺の子です、そうでしょ?」
そう言われた瞬間、私の顔は驚きで強ばった。
「き、桐谷くん?それは………」
(それはないのだ、きっとそんな事があり得ないのは桐谷くん自身が一番よく分かっているはずだ)
その言葉に戸惑って否定しようとした言葉はすぐに荒々しく打ち消された。
「そうだって、そう言ってください!」
その言葉が胸を震わせる。
「例え、そうじゃなくても、それでも、そう言ってください………、お願いですから……」
そんな発言に私は、はっとして、桐谷くんの胸を突き飛ばした。
「む、無理だよ!だって、桐谷くんはずっと………」
そう、ずっと強引なところはあったが、私を気遣ってくれていた。
孕ませたいなんて冗談をいいながら、私の気持ちがちゃんと自分に向くまではと、避妊だっていつもきっちりしてくれていた。
大切に思ってくれているのが分かっていたからこそ辛い。
だって、私には誰がなんと言おうが確信があるのだ。
あの友人の結婚式の日、海晴のいつにない甘い囁きに身を任せ、あるはずのない未来を夢見た。
《陽愛、愛してる、君とずっと一緒に………》
あの夜、友人の式に当てられた私は、それをプロポーズの言葉のように錯覚した。
その結果、無意識を装いながらも望んで授かったのが今、お腹に宿ったこの命なのだ。
それが、私のもたらした、受け入れなければならない現実なのだ。
「桐谷くん、ちゃんと聞いて?この子の父親は………」
(海晴なのだ………)
「やめてください!」
だけど、その続きは桐谷くんに掻き消される。
やるせない気持ちで見つめた先には、すごく辛そうな横顔があった。
「………今更、父親だから?それが、なんだっていうんですか!?だってあいつは!!」
そう言いかけて、はっとしたように口をつぐんだ桐谷くん。
だけど、その続きは誰よりも私自身が知っている。
---そうだ、海晴は私を選ばなかった
そして、今は別の女性の夫となった海晴は、もうじき愛する女性の産んだ子供の父親になる。
今や話題の人となった海晴のもとには、シナリオだけではなく多くの仕事が舞い込んでいるようだ。
皮肉にもこんな形で、海晴の作品が再び多くの人の注目を浴びて、評価され始めた。
そうでなくても騒いでいるマスコミにこんな新たなスキャンダルが知られたら、私は海晴を、産まれてくる二人の子供の父親を、社会的に殺してしまうかもしれない。
それは、やはり避けなければならないことなのだと噛み締める。
そして孤独と不安が胸を締め付ける。
それは、この子の誕生すら海晴にも世間にも知らせることすらできない事を突きつけていた。
---なんてことを、ごめんね、ごめんなさい
惨めな境遇しか与えてやれない命への罪の意識で、視界が遠退きそうになった。
---私は一体この先、どうすればいいのか
「陽愛先輩、すみません……、しばらく横になりましょう」
私の顔色の悪さに気付いた桐谷くんは、案じるようにそう言って私に手を差しのべる。
「桐谷くん………」
そう言って桐谷くんは私を抱き抱えるようにして、共にベッドに身を任せた。
憂いのある瞳で私を見下ろす桐谷くんに胸が締め付けられる。
申し訳なくて、もう一度詫びようとした。
だけど、大きな手の平で両頬を包まれて、私の唇にはゆっくりとキスが落とされた。
「守ります、守らせてください、だから陽愛先輩………」
じっと私を見つめる漆黒の瞳は切なくて、それでも意思を宿して揺らめく。
「………俺と結婚してください」
「………………」
その言葉を聞いた私はしばらく呆然自失となって固まった。
そして、表情を保てなくなった瞳からは涙がポロポロと溢れ始めた。
「ごめっ……、でも私………」
「すみません、こんな時に………、でもいい返事を聞かせてください」
「…………」
「好きなんです………、今更何があったって、この気持ちを覆せる訳じゃない……」
---あぁ
こうして、ひとつ、またひとつ、きっと私は大切なものを無くしていく。
そう、桐谷くんはいつの間にか、私の大切な人になっていた。
だからこそ、甘える訳にはいかないのだ。
今なら、まだ、この優しい人を自由にしてあげられる。
---今なら
そして、その一方でもうひとつの覚悟を突きつけられる。
誰も頼ることが出来ずに産み落とされるこの命を守れるのは、もう自分しかいないのだと。
---どれだけ弱くても、わたしだけ
わたしだけはずっと側にいるから、だからどうか私を許して
「もう、寝てください。顔色が悪すぎます、また明日ゆっくり今後の事を話しましょう」
「………うん」
「陽愛先輩………」
「うん」
「………愛してます」
「…………うん」
その晩、私は桐谷くんの暖かさに身を任せて眠った。
私の髪や、腰をいたわるように撫で続けてくれる桐谷くんの大きな胸は、羽を痛めて疲れきった私の、一時の止まり木のように優しい場所だったと思う。
(温もりをありがとう……)
次の日の朝、顔を洗い、身支度を整えた私は、顔色がよく見える程度の化粧をして、朝食を作り、桐谷くんを起こした。
そして二人で朝食をとり、私を心配して会社を休むという彼を大丈夫だからと無理矢理会社に送り出した。
「桐谷くん、昨日はありがとう」
そう微笑む私に、彼も照れたように微笑んだ。
「陽愛先輩、ちゃんと寝ててくださいね!?無理しちゃ駄目ですからね!!今日は俺、最速で仕事終わらして定時で戻ってきますから、体調がいいようなら、ちゃんと二人で今後の話しましょうね?」
「うん、もう分かったから、大丈夫だよ」
そう言って慌ただしく出掛ける桐谷くんの背中に声をかける。
本当は、ありがとう、そう伝えたかった。
だけど感の鋭い桐谷くんにはそうは言えない。
「桐谷くん」
私の声に振り返った桐谷くんに私は伝えた。
「いってらっしゃい」
そう言って微笑む私に、桐谷くんは一瞬、呆けたような顔になって顔を綻ばせた。
「いってきます」
そうして私は、とても優しい人の大きな背中を見送った。
---さようなら桐谷くん、ありがとう
そして本当に、ごめんなさい
だけど、数々の可能性が溢れる桐谷くんには、やはり、桐谷くんに相応しい人生を歩んでほしい。
こんな私だけど、これ以上邪魔だけはしたくないと思うほどに、やはり彼は素晴らしい人だと思うから。
それが桐谷くんと私との別れになった。
その日の内に、私は身の回りの荷物だけを持ち、住み慣れた街を後にした。
地方の海辺の町に住む昔馴染みの友人夫婦を頼り、そこに移り住むことにしたのだ。
会社への退職の報告も済ませて、桐谷くんに最初の夜に認めた一通の手紙を送ったのは、旅の途中の地方都市からだった。
感謝の思いと、幸せになって欲しい、気持ちに答えられなくてごめんなさいと………
だけど、あれから私は拒みきれず何度か桐谷くんを受け入れてしまっている。
もちろんオフィスでの行為はあの一回限りだ。
そして毎回、賢者タイムに陥る度に桐谷くんは私を優しく抱きしめながらこう言ってくれる。
「そんな顔しないでください、返事は急ぎませんから、だけど俺はいつでも陽愛先輩の恋人になる準備は出来てます。だから陽愛先輩もいつか俺を好きになってください。だけど、それまでは、他の誰にも目が行かないように俺は陽愛先輩にこうやってしっかり張り付いてますから」
「ちょっと、そんなわけにはいかないでしょう?爛れてるよ、こんな関係!?」
「じゃあ、俺のことは犬とでも思ってください!」
そう言って笑う桐谷くん。
「は?犬って??」
「でっかい犬に懐かれたと思って溜息つく気持ちで、それでも傍に置いてくれたらそれでいいです、でも、陽愛先輩、なにかちょっとでも上手く出来たら、ご褒美ください」
「ご褒美ってなんだよ?」
「何だっていいんです、陽愛先輩がくれるなら、キスでも、頭撫でるのでも、言葉でも、あめ玉ひとつでも口に含ませてくれたら、それだけでテンション上がりますから」
「もうっ、どんな性癖だよ?」
「はぁ、でも、いつか孕ませたいなぁ、このお腹」
うっとりとした表情でお腹を摩られて私は顔色を変えた。
「ちょっと何言って、あっ、待って、桐谷くん!」
「待ちません、俺、基本待てが苦手な馬鹿犬なんで……」
笑いながらそう言った桐谷くんの言葉は、たぶんただの冗談ではない。
長身で筋肉質な大きな体は、一度スイッチが入ってしまったら、高揚感が抑えられない獣に変わる。
でも、その一方で、桐谷くんはいつだって優しい。
出会った頃から、今に至るまでずっと桐谷くんは私の気持ちを大切にしてくれている。
私はと言えば、きっとその強引さに流されたふりをしながら、桐谷くんの優しさに甘えていた。
---今は、簡単に好きだなんて言えない。言ってはいけない。
でもこうしていたら、いつかそれが許される日がくるだろうか?
桐谷くんに迷いなく愛情を返せる日が来るだろうか。
この時、狡い私は自分を正当化しながら現実から逃げて、桐谷くんの優しさに甘えていた。
だけどきっと元々、そんな資格など自分に無いことに愚かな私は気付いてはいなかったのだ。
その後、私は思ってもいない形でそれを痛感することになった。
それから数日後。
夕方のアパートで妊娠検査薬を握りしめた私は自らの背負った責任の重さに途方に暮れていた。
---海晴の、子供
きっとあの友人の結婚式の日、最後に愛し合った夜に宿した命。
今も脳裏に残る、愛の囁き。
《陽愛、愛してるよ、ずっと一緒に………》
海晴は、あの言葉を最後まで紡いだだろうか……
今となってはもう、それさえも思い出せない。
私は、その晩心細さに泣き続けた。
そんな自分が誰よりも残酷な母親だと、自分を罵りながらも、不安と惨めさを噛み締め、いつの間にか自分一人ではなくなった自分の体を抱き締めて震えながら泣いた。
---ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい
次の日、会社を休んだ。
私を心配して、何度も送られる桐谷くんの着信にもメッセージにも気付かないくらい茫然自失となっていた。
動揺は治ることなく、未来が酷く恐ろしかった。
だけど、不思議な事に、自分の心に中絶という二文字が浮かぶ事はなかった。
そんな時、突然玄関の扉が音をたてた。
「陽愛先輩?いるんでしょ??ねぇ、開けてください!陽愛先輩…」
余りの勢いに驚いた私は、その扉を開けた。
「桐谷くん………」
そこには動揺した様子の桐谷くんが大きく息をはずませて立っていた。
「陽愛先輩、良かった、調子崩してるって聞いたのに、何度連絡しても応答ないから……」
そう言いかけた桐谷くんは次の瞬間、私の顔を見て絶句した。
「っ、何て顔してるんですか?一体何が………」
険しい顔をした桐谷くんは、次の瞬間、部屋の奥を睨み付けるように窺った。
誰もいないことを悟って少しだけ険がとれた彼は「上がらせてもらいます」と言うと私の腕をつかんで玄関の奥に向かう。
「ちょ、ちょっと待って!桐谷くん!!今日は………」
躊躇う私に、桐谷くんは鋭い瞳で私に言った。
「何もしませんから、一体何があったんですか?そんなに泣き張らして、いくらなんでも顔色が悪すぎます、座って下さい」
そう言って私の手を引いて、ローテーブルの脇のソファに私を座らせようとした桐谷くんは、テーブルの上にある小さなケースと体温計の大きさの物体に目を止めて固まった。
「っ、こ、これって………」
一瞬にして青ざめて、険しい顔になった桐谷くんの後ろで私は顔を歪めたまま俯いた。
「……」
そこにあった検査済みの器具を手にとる桐谷くん。
無言のまま、器具と説明書を持ったまま固まっている。そしてその手は徐々に震え始めた。
私は、その後ろで黙ったまま俯く事しか出来なかった。
「ま、まさか………」
石のような固い表情で絶句する桐谷くん。
私は、ついに崩れるようにその場に座り込んだ。
そして、無理矢理笑顔を作ろうと口角を引き上げた。
「ははっ、ゴメンね、でも桐谷くんの子供なんて言わないから、安心して……」
そう言った瞬間、桐谷くんの表情は歪み、その目は悲しみと怒りに凍りついたようだった。
こんな風にこの優しい人を傷つける結果になるとは思わなかった。
私は自分を責めながら、懸命に彼に詫びた。
「…………、ごめんなさい、本当に、ごめんなさい」
不穏な空気を漂わせて黙り込んでいた桐谷くんは、そんな私に口を開いた。
「………なんで、謝るんですか?」
その言葉に私は、堪らず嗚咽を含んだ声をあげた。
「だから、………もう桐谷くんとは」
(本当にごめんなさい…………)
だけど、そう言いかけた瞬間、ぎゅっと肩を強く捕まれた。見上げると今にも泣き出しそうな桐谷くんの顔が間近に迫っていた。
「桐谷くん………」
硬い動かない顔。
だけど、その奥に必死に隠そうとしているやるせない悲しみが痛いほどに分かってしまう。
きっと、それくらいの愛情をもらっていた。
恋人という定義もないままに、これほどまでに真っ直ぐに向けてくれた愛情を、こんな形で裏切る事しかできなかった自分が悲しくて、なにより許せなかった。
狡いのは私なのに、桐谷くんより先に泣いちゃうなんてダメだ。
「ごめん、ごめんなさい………」
そう言った瞬間、抱き締められた。
その強い包容は、逃げ場をなくすくらいギリギリと私を締め付ける。
「だから、なんで謝ろうとするんですか?子供を理由にあいつのところに行きたいから??」
その体から、カタカタと桐谷くんの震えが伝わってくる。
「ちがっ、違うよ?」
私は慌ててそう言った。
(そんなこと、できるはずがない……)
「………俺の子です、そうでしょ?」
そう言われた瞬間、私の顔は驚きで強ばった。
「き、桐谷くん?それは………」
(それはないのだ、きっとそんな事があり得ないのは桐谷くん自身が一番よく分かっているはずだ)
その言葉に戸惑って否定しようとした言葉はすぐに荒々しく打ち消された。
「そうだって、そう言ってください!」
その言葉が胸を震わせる。
「例え、そうじゃなくても、それでも、そう言ってください………、お願いですから……」
そんな発言に私は、はっとして、桐谷くんの胸を突き飛ばした。
「む、無理だよ!だって、桐谷くんはずっと………」
そう、ずっと強引なところはあったが、私を気遣ってくれていた。
孕ませたいなんて冗談をいいながら、私の気持ちがちゃんと自分に向くまではと、避妊だっていつもきっちりしてくれていた。
大切に思ってくれているのが分かっていたからこそ辛い。
だって、私には誰がなんと言おうが確信があるのだ。
あの友人の結婚式の日、海晴のいつにない甘い囁きに身を任せ、あるはずのない未来を夢見た。
《陽愛、愛してる、君とずっと一緒に………》
あの夜、友人の式に当てられた私は、それをプロポーズの言葉のように錯覚した。
その結果、無意識を装いながらも望んで授かったのが今、お腹に宿ったこの命なのだ。
それが、私のもたらした、受け入れなければならない現実なのだ。
「桐谷くん、ちゃんと聞いて?この子の父親は………」
(海晴なのだ………)
「やめてください!」
だけど、その続きは桐谷くんに掻き消される。
やるせない気持ちで見つめた先には、すごく辛そうな横顔があった。
「………今更、父親だから?それが、なんだっていうんですか!?だってあいつは!!」
そう言いかけて、はっとしたように口をつぐんだ桐谷くん。
だけど、その続きは誰よりも私自身が知っている。
---そうだ、海晴は私を選ばなかった
そして、今は別の女性の夫となった海晴は、もうじき愛する女性の産んだ子供の父親になる。
今や話題の人となった海晴のもとには、シナリオだけではなく多くの仕事が舞い込んでいるようだ。
皮肉にもこんな形で、海晴の作品が再び多くの人の注目を浴びて、評価され始めた。
そうでなくても騒いでいるマスコミにこんな新たなスキャンダルが知られたら、私は海晴を、産まれてくる二人の子供の父親を、社会的に殺してしまうかもしれない。
それは、やはり避けなければならないことなのだと噛み締める。
そして孤独と不安が胸を締め付ける。
それは、この子の誕生すら海晴にも世間にも知らせることすらできない事を突きつけていた。
---なんてことを、ごめんね、ごめんなさい
惨めな境遇しか与えてやれない命への罪の意識で、視界が遠退きそうになった。
---私は一体この先、どうすればいいのか
「陽愛先輩、すみません……、しばらく横になりましょう」
私の顔色の悪さに気付いた桐谷くんは、案じるようにそう言って私に手を差しのべる。
「桐谷くん………」
そう言って桐谷くんは私を抱き抱えるようにして、共にベッドに身を任せた。
憂いのある瞳で私を見下ろす桐谷くんに胸が締め付けられる。
申し訳なくて、もう一度詫びようとした。
だけど、大きな手の平で両頬を包まれて、私の唇にはゆっくりとキスが落とされた。
「守ります、守らせてください、だから陽愛先輩………」
じっと私を見つめる漆黒の瞳は切なくて、それでも意思を宿して揺らめく。
「………俺と結婚してください」
「………………」
その言葉を聞いた私はしばらく呆然自失となって固まった。
そして、表情を保てなくなった瞳からは涙がポロポロと溢れ始めた。
「ごめっ……、でも私………」
「すみません、こんな時に………、でもいい返事を聞かせてください」
「…………」
「好きなんです………、今更何があったって、この気持ちを覆せる訳じゃない……」
---あぁ
こうして、ひとつ、またひとつ、きっと私は大切なものを無くしていく。
そう、桐谷くんはいつの間にか、私の大切な人になっていた。
だからこそ、甘える訳にはいかないのだ。
今なら、まだ、この優しい人を自由にしてあげられる。
---今なら
そして、その一方でもうひとつの覚悟を突きつけられる。
誰も頼ることが出来ずに産み落とされるこの命を守れるのは、もう自分しかいないのだと。
---どれだけ弱くても、わたしだけ
わたしだけはずっと側にいるから、だからどうか私を許して
「もう、寝てください。顔色が悪すぎます、また明日ゆっくり今後の事を話しましょう」
「………うん」
「陽愛先輩………」
「うん」
「………愛してます」
「…………うん」
その晩、私は桐谷くんの暖かさに身を任せて眠った。
私の髪や、腰をいたわるように撫で続けてくれる桐谷くんの大きな胸は、羽を痛めて疲れきった私の、一時の止まり木のように優しい場所だったと思う。
(温もりをありがとう……)
次の日の朝、顔を洗い、身支度を整えた私は、顔色がよく見える程度の化粧をして、朝食を作り、桐谷くんを起こした。
そして二人で朝食をとり、私を心配して会社を休むという彼を大丈夫だからと無理矢理会社に送り出した。
「桐谷くん、昨日はありがとう」
そう微笑む私に、彼も照れたように微笑んだ。
「陽愛先輩、ちゃんと寝ててくださいね!?無理しちゃ駄目ですからね!!今日は俺、最速で仕事終わらして定時で戻ってきますから、体調がいいようなら、ちゃんと二人で今後の話しましょうね?」
「うん、もう分かったから、大丈夫だよ」
そう言って慌ただしく出掛ける桐谷くんの背中に声をかける。
本当は、ありがとう、そう伝えたかった。
だけど感の鋭い桐谷くんにはそうは言えない。
「桐谷くん」
私の声に振り返った桐谷くんに私は伝えた。
「いってらっしゃい」
そう言って微笑む私に、桐谷くんは一瞬、呆けたような顔になって顔を綻ばせた。
「いってきます」
そうして私は、とても優しい人の大きな背中を見送った。
---さようなら桐谷くん、ありがとう
そして本当に、ごめんなさい
だけど、数々の可能性が溢れる桐谷くんには、やはり、桐谷くんに相応しい人生を歩んでほしい。
こんな私だけど、これ以上邪魔だけはしたくないと思うほどに、やはり彼は素晴らしい人だと思うから。
それが桐谷くんと私との別れになった。
その日の内に、私は身の回りの荷物だけを持ち、住み慣れた街を後にした。
地方の海辺の町に住む昔馴染みの友人夫婦を頼り、そこに移り住むことにしたのだ。
会社への退職の報告も済ませて、桐谷くんに最初の夜に認めた一通の手紙を送ったのは、旅の途中の地方都市からだった。
感謝の思いと、幸せになって欲しい、気持ちに答えられなくてごめんなさいと………
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