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第四章 巻き戻された世界

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「陽愛、陽愛?」

聞き慣れた声が聞こえる。
なんだか凄く懐かしい声。

目を開くと、サラサラとした茶色の髪と柔らかな琥珀色の瞳が映し出される。

---夢?

だとしたら、ひどく懐かしい夢を見るものだ。
死ぬ間際に見る夢だからだろうかとも思った。
だけど、7年近くも前に別れた海晴との夢なんて、どうして今更?

あぁ、でもそうだね…
一番長く、一緒に時を過ごした人だもんね、夢でもお別れを言わなきゃね。

(海晴…)

そんな私の思いを他所に、海晴は昔を思わせる優しい瞳で私を見つめる。

「陽愛……」

上から覗き込まれて、そっと髪を撫でられる。

「どうしたの?酷く魘されてたから心配したよ、流石に今日はお酒を飲み過ぎちゃったのかもしれないね?」

---飲み過ぎた?

そう言えば、酷く気持ち悪くて、頭も少し痛む事に気付いた。
でも、今、お酒って、薬じゃなくてお酒。

だけど待って、私は妊娠してからお酒を口にしたことは一度もない。
今だって酔ってなんか……

そう思うのに、胸に込み上げる気持ち悪さと頭痛はかつて私の知っている二日酔いの感覚そのものだった。

(うそ、……気持ち悪い)

---って、ちょっと待って、ここはどこ?


その時、漸くハッとした私は、ハンガーに吊るされた、海晴のスーツと私のパーティー用のワンピースを見て眉を寄せたまま固まった。

これを着用したのは生涯に一度だけなのだ。
海晴と別れる少し前に友人の結婚式に着るために奮発して買ったワンピースに間違いない。

---な、なんで?

私は、周囲を見回して、驚きに顔を歪めて様子を伺った。

---ちょっと待って、ここって、確か何年も前に、泊まったホテル?

「陽愛?どうしたの??やっぱり気分が悪い?薬貰えるかフロントに聞いてみようか?」

---それに、やっぱり、どう考えてもおかしいよ、この状況?

「陽愛……?水飲む?背中、擦ろうか?」

---夢?だけど、それにしてはリアル過ぎはしないだろうか?

「いい!そっ、それよりさ、今、何年?」

「………2023年だけど、どうして??」

海晴は、私の突然の質問に怪訝な顔をしながらそう答えた。
だけど私はその言葉にパニックに陥った。

---2023年?

「う、嘘でしょ、なんで………」

「陽愛………?」

案じるように眉を寄せて私を窺う海晴に私はもう一度訪ねた。

「ほ、本当に?」

「………陽愛?どうした??さっきから、なんか変だよ?」

そう戸惑う海晴の顔はまだ若く、肌も潤いを帯びている。
一部女子から「王子」なんてあだ名されていた学生の頃の雰囲気すらまだ残るイケメンぶりに私は驚愕した。
とてもではないが、三十をいくつか越えた男の雰囲気ではなかったからだ。

「違う………、そんなはずない……」

さっき、失意のなかでテレビに映っていた海晴は、もっと疲れた様子で大人びていた。

「陽愛?」

私は立ち上がって、部屋のカーテンを開けた。
6年ぶりにみる大都会の夜景に絶句する。

そして振り返って、恐る恐るホテルの鏡に映る自分の顔を見た私は息をのんだ。

---これは一体

私は確かに死んだはずだったのだ。

---それなのに

僅かな可能性から考えられる答えを探るように私は鏡の前で頭を抱えた。

「陽愛………?」

死後の夢?
それともタイムリープ?
もしかして、転生?

待って、転生は違う、きっと違う、だって私は、私のままだし、たぶん私の設定だし……

「陽愛?………陽愛どうしたの??」

だけど、そんな言葉も耳に入らない。

「死ねなかった?だけど、なんで………」

「死って?陽愛、なんだか様子が変だよ、酒が悪さして怖い夢を見たんならもう一度寝よう?ほら、水を飲んで、布団に入ろう?」

その言葉に私は戸惑った。
こんな風に海晴は私を当然のようにベッドに誘う。
トランクスにTシャツ一枚の海晴が今はとても生々しい。

だって、私にしてみれば、海晴とは実に7年ぶりの再会なのだ。
そして別れた経緯を考えるととてもではないがそれではお邪魔しますという気にはならない。

そして、私はひとつの事に思い至り、肩を強張らせた。

---ちょっと待って、この状況って

再び、パーティードレスと床におかれた引き出物の袋に目を止める。
次の瞬間、背中に冷たい汗が伝った。

《陽愛、愛してるよ、ずっと一緒に………》

あぁ、そうだ、これがもしタイムリープだとしたら、今日は私の知る特別な日。

---海晴の偽りの愛に溺れて、日向をお腹に宿した運命の日?

私は俯いた。

---日向

無数の笑顔と、思い出が脳裏を巡る。

---ママ、僕がもってあげる!
---大丈夫だよ、男の子だから!!
---ねぇ、ママ、どうして?どうして僕はみんなと同じことができないと思うの?
---見て、ちゃんと見ててね!?
---ママ、お誕生日おめでとう!
---世界って、綺麗だね、いつか僕、色んなところに行ってみたいな
---ママ、苦しい、すごく、苦しいの、はぁ、なんでかな
---僕、頑張るから……
---僕がいるから、ママ悲しむの?
---ありがとう、僕のこと、忘れないで、ママ、大好きだよ

私の可愛い息子。

理屈ではない、離れたくないと、未だに心が泣いている。

死ぬことさえ、今は怖くなどないのに皮肉だ。

ーーーもう一度逢いたい

「陽愛?」

再びそう呼ばれて、俯いた顔をあげると、海晴が柔らかな表情で、布団を持ち上げている。

「何してるの?こっちにおいでよ??」

その瞬間私は、ひとつの可能性に行き着いて、体を硬直させた。

もし、これがタイムリープだとしたら、私はここからやり直せるのだろうか。

もう一度、日向をこの体に授かることができるのだろうか。

「陽愛…?」

私は、吸い込まれるようにベッドに向かって足を進めた。
そんな私を受け入れるように、海晴は布団を持ち上げて、私を迎え入れて、お腹に手を回して背後からぎゅっと抱き締めた。

---海晴

その優しい仕草に胸が苦しくなった。
私は、これが偽りの愛だと知っているから。

「本当にどうしちゃったんだろうね今日の陽愛は?いつもの陽愛じゃないみたい、なんてね……」

そう言われた私は、ギクリと肩を強張らせた。

「そ、そうかな?」

それはそうだ。
私はもうあの頃の私ではないのだから。

ギュッと抱き締められて首筋に与えられる暖かくて甘い痺れに身を仰け反らせる。
そして甘やかされるようにしなやかな指先で頬を撫でられて、旋毛にキスを落とされる。

かつて知ったる男の臭いが、どれほど私をやるせない気持ちにしているのか海晴はきっと知らない。

---あぁ、好きだったなこの臭い

ポンポンと労うように頭を撫でられる。
そんな仕草に、まだ海晴を疑うことなく好きでいられた幸せだった昔を思い出す。

そして、それは同時にどうしようもない痛みを呼び覚ます。

「……結婚式、幸せそうだったね」

「…………うん」

その問いかけに、頭を撫でられたまま私は答えた。

「あんな風に、僕たちも、ずっと一緒に幸せに暮らせたらいいのにね」

その言葉を私は感情のない心で受け止める。そうはならないことを私は誰よりも知っているから。

「陽愛……」

そっと合わせられた唇の切なさに私は気付かれないように俯き顔を歪めた。
だけど再び唇を重ねようと角度を変えられた瞬間合わさった海晴の瞳はハッとしたように狼狽の色を宿した。

「陽愛……?どうしたの??」

その瞬間、瞳に溜まっていた涙が溢れ落ちたのだ。

---やはりこれはタイムリープ?

私は、海晴の胸を押し返した。

きっとこれが夢でないとしたら、今、雰囲気に流されて海晴と抱き合えば、このお腹には今日、再び日向が宿るのかもしれない。
そうすれば私は失った命を取り戻すことができるというのか?

その誘惑に流されそうになった私は、懸命に自分を戒めた。
同時に未だ癒えるはずもない心が警鐘を鳴らしていたからだ。

これがタイムリープであるのならば話はそう簡単ではないことを私は知りすぎていた。

---行き着く先は、無限ループかもしれないのだ

そう思うと怖くなった。
まるで生と死を弄ぶ悪魔から、残酷なカードを渡されたような恐ろしさを覚えた。

自らが孤独から逃れる為に、幼い命を燃やすように生ききった日向を、再び巻き込むのだとしたら、それは果たして許されることなのだろうか?

日向は先天的な心臓疾患だった。
短い命を、多くの痛みや辛さに堪え続けて、それでも思い通りにはならない人生を真っ直ぐに生ききった日向。

偉かったね、頑張ったねと、だからもう、ゆっくり眠ってね………

そう言って見送ったのは確かに自分なのだ。
漸く痛みと苦しみから解き放たれたあの無垢で優しくて、直向きな魂に、もう一度、同じ試練を背負わせて何も出来ずにまた恐怖と失意を押し付けて、無力に見送る事が愛情だというなら、それはエゴに他ならない。

そして、ひとつ失い、ひとつ得て、またひとつとなくしていく自らの運命に、結局私は耐えられはしないのだ。

きっと、なんど繰り返しても……

---日向、日向、私は、どうすればいいのだろう?

そもそも、どうして私は今、ここにいるのだろう?
これは、果たして、現実なのか、執着が見せる死に行く人間の夢なのか……

もし夢ならば、許されるのなら……
私は、再びあなたをこの腕に抱き締めたい。

「陽愛?大丈夫、真っ青だよ?」

「………めない」

「え?なんて………」

「………資格がない」

「は………?」

「海晴だって、そうでしょう?」

掠れて声がでなかった。
そして、心はどんどん冷えきっていく。
無力な自分が悲しくて許せなくて、そんなやるせなさが怒りに変わる。

こんなよく分からない状況になっても、自分は一人だと突きつけられる。
このままでは生きられない、そう思ったから、あの日私はすべてを終わらせたつもりだったのに、突然こんなところにやってきて、こんな風に自分を試される状況に発狂しそうになる。

「陽愛、一体、何を言って………」

諦めと未練のどす黒い葛藤を持て余した私は海晴を睨み付けた。
もう、自分の気持ちも、相手の気持ちも分からなかった。
守るべきものも存在しない。

日向は逝ってしまった。
そして、私は後を追うこともままならないで、ここにいる。

「私が、何も知らないとでも思ってるの?………優しいふりしないで!!」

その言葉に海晴は驚愕して目を見開く。

「陽愛、ちょっと待って、いきなりどうしたんだよ?」

「いきなり?………私からしたら海晴が、こんな状況で私を抱ける方が不思議だったよ??馬鹿に、しないでよ!!」

その言葉に途端に海晴の顔が愕然とした面持ちに変わる。
その表情に私は一つの事を確信した。
これはやはりタイムリープの可能性が高いのだ。

「否定、しないんだね?………そうだよね、できないよね」

冷気を漂わせた私の質問に、海晴は当惑した顔つきで私を見つめる。

「陽愛………」

うっすらと汗がにじんだ表情に私はいい放った。

「………もう、海晴とは会わない。だから、海晴も、もう私には連絡しないで」

そう言った瞬間海晴が大きく目を見開いた。

「ちょっと待って!陽愛?」

慌てたように追いすがる海晴を私は突き放すように睨み付けた。

「どうして?私から別れてあげるって言ってるんだよ!?」

自分で言ったその言葉に空っぽのはずの胸が痛む。
数年経った今でも、私の心はやはり私の心なのだと不毛な感覚を突きつけられる。

「っ……、陽愛?」

心に幾つもの穴があいたような虚無感のなかで私は海晴に伝えた。

「連絡しないのが、最後の条件。約束だよ?それだけは、……それくらいはちゃんと守って、でなきゃ私………」

その瞬間、表情を保てなくなった私は踵を返して走り出した。
一刻も早くここから離れなくてはならない。
だけど、ここはどこ、私は誰?

---日向

ここにいたら
もう一度、今度こそは……
そんな思いに負けて、手を伸ばしてしまかもしれないから。

だけどそれは………

日向の病状がいよいよ悪化した時の医師とのやり取りが甦る。

《先生!どうかお願いします、あの子を日向を助けてください!なんでも、なんでもしますから、だからどうか……》

《お母さん、お気持ちは分かりますが、今の技術ではもう手のつくしようがないんです、力不足で申し訳ありません、残念です》

《そんな!先生、どうか……》

《お母さん、どうかこれからは時間を大切にしてあげてください、日向くんは、懸命に生きようとしています。少しでもお母さんと一緒に過ごせるように。強いお子さんです……、我々も大切な時間を全面的にサポートしていきます》

《痛みどめを、もっと増やしてもらえませんか?》

《ですが、それでは体に負担が………》

《でも、息子が苦しんでるんです!》

《ママ、大好きだよ、僕の事、忘れないで……、一緒にいてくれてありがとう、優しくしてくれてありがとう》

---忘れない、忘れられないよ

ホテルを飛び出した私は、何かにとりつかれたように街をさまよった。
私の知る過去の街と、今の街の違いを懸命に探しだそうと、必死に足掻いた。

---過去が違えば、もしかしたら未来だって変わるかもしれない

そうすれば辛かった息子の過去も何もかも塗り替えてまたあの子を心から祝福してこの世界に迎え入れることができるのだろうか?

だけど、現実は皮肉だった。
賑わう街並みも、鳴り響く音楽も、電工掲示板のニュースも私の記憶の彼方にあるものばかりだった。

どこをどうさまよい歩いたのか、それからのことはよく覚えていない。
気がつけば、朝になっていて、私はヒールの折れた靴を傍らに、公園のベンチに座って途方に暮れていた。

体と心が限界だと悲鳴をあげている。

---ここは、どこ?あぁ、そうだ

そして、その答えを悟った時から、私はここを動けなくなった。
痛い足を引きずりながら、私がようやくたどり着いて腰を下ろしたのは、海晴と別れたあの夜、桐谷くんと出会ったあの公園だった。

---ははっ、なにやってるんだか、さすがに待ってるはずなんてないのに

そう思いその皮肉に自嘲する。
だって、ここはあの世界ではないのだから。

この世の終わりに聞いた慟哭するような叫びを思い出す。

《俺は、あんたの忠犬ハチ公じゃねえんだよぉぉ!!!生きてくれ、生きてくれよぉ!!!》

あの世界で私は私なりにきっと、一杯一杯で生きてきた。
その一方で、桐谷くんにあんな思いをさせているなんて気付きもしなかった。
別れを決意した翌日、引っ越し先に向かうホテルでしたためて桐谷くん宛に投函した手紙は彼の元には届いていなかったということだろうか。
だとしたら、きっと随分心配をかけてしまったのだと思う。

だけど、桐谷くんと別れてから6年以上の歳月が経っていたのだ。

---忠犬、ハチ公

そんな風に彼に言わせてしまった私は今更、彼にどう償えばいいのだろうか。
海晴の事をどうこう言えないくらいには、私は残酷な女だったのだと顔を歪めた。

きっと私が悪い。
全面的に私が悪い。
そうなのだけど、だからと言って、死に際にあんな風に怒鳴られた人は私以外にいるだろうか。

あれは諦めと共に死の訪れを待つ精神にも、さすがにちょっとばかり衝撃的だった。
私の人生を全て否定されたような、そんな衝撃。

でも、彼はずっと、待っていてくれたのだ。
こんな自分を………
そして、その死をあれほどまでに悲しんでくれたのだ。

---だとしたら、本当にごめんなさい
伝えられないけど、ごめんなさい。


胸に手をあててみる。
きっと、あの世界の私はあのまま、あそこで死んでしまったのだろう。
何となくそれだけは分かる。

そして今、感じているこの小さな鼓動は生の証だとしたら……


あそこから巻き戻ったのがこの世界?
それとも新たに飛ばされたのがこの世界?
その真相は、私には分かるはずもなかった。

だけどひとつだけ今分かる事があった。
あの頃の私は自分と日向のことに精一杯だった。

だから、桐谷くんのなかでの自分の存在すらも勝手に過小評価していたのかもしれない。
それは私自身が海晴の裏切りで経験して、一番悲しいことだと知っていたはずなのだ。

それなのに、人は自分のことになると案外気付かずに、独りよがりに大罪を犯してしまうのかもしれない。やはり謝れるならば謝りたいと願う。

---でも誰に?

これからどうすればいいのか私には検討もつかない。
今まで以上に途方もない時間と空間のなかに、存在意義すらもないちっぽけな存在として放り出されたような心地がする。

---ここは誰の世界?

自分だけが突然湧き出たようなこの世界で、私はいったい今更どこに行き、何をすればいいというのだろうか?

まるで生を弄ばれているようで不安に支配されそうになる。
それはとても嫌な感覚だった。

もしかしたら、もはや死ぬことすらも、今の自分の意思ではままならないのだとしたら?
そう思うとゾッとした。

生前の罪悪を永久に突きつけられる居場所のない無限地獄だとしたら?

---それはとても恐ろしい

そんな不安を抱えながら、私は確かに一人の男を待っていた。
きっとこの世界では、先輩と後輩という浅い縁しかもたない優しい人。

また逢えるだろうか?
遠くから詫びることしかできないとしても元気でいる顔が見たいと思った。

そして、願わくば静かにこの地を去りたいと思う。
電車の車窓からしか眺めたことのない街を静かに通りすぎるように……
ごめんなさい、もう私に関わらず今度こそ幸せになって下さいと心で祈って……

そうすれば、いつか眠るように、この世界は終わってくれてはいないだろうか?
夢なんて、大概そんなものなのだから………
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