19 / 89
2巻
2-3
しおりを挟む
確かに朱華が言いそうなことだ。一週間と区切れば、それまでを適当に済ませてしまえば罰は終わるのだと朱華なら思うかもしれない。水汲みは必須なのに、重くて出来ませんでしたと朱華が汲まずに放っておけば、誰かがその分を肩代わりしなければいけなくなる。結局大変なのは周囲だ。
「それに石林殿には草の生えた庭はほとんどありません。その名の通り、石の林……砂利を敷き、形の良い大岩や原石などを並べてあるのです。薫春殿のような緑豊かな庭と違い、毟る草も生えてはきませんから、そもそも罰になるほどの仕事にはならないのです」
「石とは言ってもとても趣があって素敵なのですよ。鳥や獣の剥製なんかも置いてあるのです」
「ええ。水晶や玉石の原石だから、それぞれ色味が異なるのです。南国を模した縞模様の石に、青や黄色の鮮やかな鳥の剥製を止まらせている様子はそれはそれは美しくて……」
「様々な地域から集められた石なのだそうです。本当に素敵な石庭なので朱妃にも一度ご覧になっていただきたいですわ」
「へ、へえ、そうなの……」
それまで静かにしているか、嬉々として残酷な罰を出す以外殆ど喋らなかった胡嬪の宮女たちが、興奮した面持ちで口々に石林殿の自慢を始める。うっとりと頬を赤らめて言うことが庭の石の話というのは何だか不可思議であるが、胡嬪からして風変わりなので、宮女も相応に変わっているのかもしれない。
そんな中、朱華だけは真っ赤な目をしておどおどとしていた。話は庭のことへ移ってしまったが、朱華はいつ酷い罰を言い渡されるかと、生きた心地がしないのだろう。
「……脱線はそれくらいにしておきましょう。石林殿の庭よりも今は朱華の罰のことです」
胡嬪がそう言えば宮女たちは恭しく頭を下げて口を閉じる。朱華だけはひいっと声を上げて震えた。
「出た案は鞭打ちに爪剥ぎ、ああ丸刈りもありましたね」
「い、痛いのは嫌です! どうかお許しください……」
恐怖に顔を引きつらせ、自慢の黒髪も振り乱している。
「朱華、本当に反省したのですか」
「はい、しました! ですから、どうか……」
「では、その自慢の髪を切りましょう。丸刈りとまでは言いませんから安心なさい」
「え……髪、を……?」
さあっと青ざめていく朱華。私からすれば鞭で叩かれるのや爪を剥がされるのに比べればずっと軽い罰だと思えるのだが、朱華はその長く伸ばした黒髪をとにかく大切にしているのだ。朱家にいた時からずっと、毎日髪の先まで手入れを欠かさず、黒く艶々とした髪を保っているのを私は知っていた。
その髪を切れと言われて、痛い罰よりは良いかもしれないが、今度は欲が出てきて躊躇う気持ちになったのだろう。
朱華は震えながら、助けを求めるように私を見てくるが、さすがにこれ以上は無理だ。血の繋がった私の姉かもしれないが、私の宮女ではない。そもそも朱華は加害者なのだ。ここで助けるのは甘やかすだけだ。髪であればまた伸びるし、死ぬわけではない。
「……朱妃、わたくしは大切な宮女に対してここまでするのです。どうか石林殿は皇帝陛下に叛意ありと思わないでくださいませ。わたくしは……ただ石のように静かに、平穏に生きたいだけなのです」
胡嬪は静かに淡々と、今までとまったく同じような声色でそう言った。
「え、ええ……」
「朱華にも理解してもらわねばなりません。わたくしは愛妃たる朱妃とは違うのです。皇帝陛下に愛されることなど絶対にないわたくしには、石のようにただ静かに生きることのみが許されるのです。それはこの後宮にいる者全てが同様です。朱妃だけが特別であり、順序すらなく、愛されるのは最初から最後までたったお一人だけなのです。血を分けた姉である貴方とて例外ではありません。それを身を以て分からせるため、わたくしは貴方の大切な髪を切るのです」
「……はい……」
私は愛妃、龍の番だ。胡嬪の言葉はことさら胸をチクリと刺した。
本来は皇帝陛下から――雨了から愛される存在だ。けれど、私の手には雨了の鱗はない。どうしてもあれを手に入れなければならないのに。今のままでは私は未熟な愛妃でしかない。なのに周囲からは愛妃として扱われる。今の私の何が朱華や胡嬪と違うのか。私だって、朱家にいた頃には義母を恨み、朱華を羨んでいたし、ただ祖父の形見に囲まれて静かに暮らしたいと思っていたのに。
見ればいつの間にか朱華は静かに泣いていた。先程までのように派手に騒ぐでもなく、縋り付くでもなく。感情の見えない胡嬪のように、物言わぬ石のように、ただ静かだった。
「――というわけだったのよ。会っている時間はあまり長くなかったけど、本当に疲れたわ。青妃以上に変わっている方ね」
「まあそうでしたか。朱妃、お疲れ様でございます」
「じゅうっ」
汪蘭と、私の膝に乗ったろくが労ってくれる。
胡嬪たちはその後、朱華の髪を切るために帰って行った。髪を切るには刃物が必要だが、彼女達が持ってきているはずもない。薫春殿としてもさすがに刃物を貸すことは避けたかった。
切り終えた髪は薫春殿に持って行きますと言われたが固辞した。一度見せにだけは来るらしいがそれも遠慮したい。というか石林殿は胡嬪も宮女も風変わりなので避けたい。
私は息抜きを兼ねてろくと遊びながら、つい汪蘭に愚痴ってしまう。
「だからなのでしょうか……。胡嬪の着物、あれは一見すると地味な灰色ながら、とても凝ったものでした。同色で細かな刺繍がびっしりされていましたし、裏布は鮮やかで翡翠の原石を模していたのかもしれません」
「あら、汪蘭てばいつのまに見たの」
「ええ、実は気になって……こっそり覗いてしまいました。あ、お帰りの際に一瞬だけですよ!」
「全然気が付かなかったわ」
汪蘭は案外好奇心旺盛なのかもしれない。
そんなことを思いながら私は疲労を回復させようと、ろくの柔らかなお腹を吸い、六本の足でやんわりと顔を蹴られたのだった。
第二章
昼より夜、それよりも寝る時が一番寂しい。
両手両足を投げ出しても余りある広い寝台に、今夜も雨了はいない。遠い馬理に向かっているのだから、まだしばらく帰ってこないのは理解している。それでも今まではすぐそばにあった雨了の温もりが恋しかった。
温かい胸元に額を押し当てて眠りたい。ぎゅうっと強く抱きしめてほしい。
「……雨了に会いたいな……」
手を伸ばしても触れるのはひんやりとした絹の寝具だけ。
目を閉じてる間に雨了が帰ってきていたらいいのに。
後宮に入り、雨了が来るまでは一人寝を寂しいと思ったことなどない。なのに雨了が留守にした途端、こんなにも寂しさが募ってしまう。
決して寒いわけじゃないのに、寒々しく感じて身を縮める。
「雨了……今、どこにいるの……?」
雨了に会いたい、今すぐそばに行きたい。せめて夢で雨了に会えたらいいのに。
そればかりを考えて私は眠りについた。
ふと気がつくと、私は見知らぬ場所にいた。
白っぽい天幕が張られている。砂埃の匂いに混じり、油の燃える匂いがしていた。
天幕の外からはたくさんの人の気配。たくさんの人たちが焚き火を囲み、小声で語らっている。そのざわざわした音はまるで潮騒みたいだ。
――何だか不思議な夢。
そう思ったのは私が立っていないからだ。
ふわふわと空中に浮いている。ふと気が付いた瞬間には横になって浮いていたが、体勢を変えてもまだ浮いたままで足が地面に付かない。手を翳すと後ろの景色が透けて見えた。さすがにこれでは現実と思えない。
ここがどこだか知らないが、夢の中で夢だと意識して動けることはそうそうないだろう。少し楽しくなってきた私は、空中を泳ぐみたいにふわりふわりと移動を開始した。
こっちだ、となんとなく思う方へ向かう。
立派な鎧姿の近衛兵が置物のように突っ立っている。私の姿は見えないらしく、目の前で手をヒラヒラさせても無反応だ。
私はすぐに飽きて更に奥へと進む。
(多分、こっちに……なんだっけ。すっごく大切な……)
何かを求めてひたすら進み、私は奥の方に目を止めた。
(……そっか、雨了だ)
天幕の一番奥、薄い紗で仕切られた中央には雨了がいた。
いつもより簡素な格好の雨了はもう寝る支度を済ませたらしい。長い艶やかな黒髪はほどかれて、その背をさらさらと流れている。
静かに俯いた雨了は手元の書物を読んでいた。微かにパラリと頁を捲る音が聞こえる。夢でも悔しいほど綺麗な顔だ。一人でいる時の雨了は当たり前だが何の表情も浮かんでいない。いつもうるさい口も閉じている。ただただ整った顔に見惚れた。
(まるで本物みたい)
夢でいいから会いたいと、そう願ったからだろうか。
私は雨了に近付いた。
夢だから紗の仕切りもそのままするりと抜けられる。薄い紗は私が通っても揺れさえしない。
不意に雨了が書から顔を上げ、私の方を向いた。
(誰にも見えないはずなのに、どうして……)
黒い瞳がゆっくりと鮮やかな青に染まっていく。それを間近ではっきりと見て、思わず私の胸は高鳴った。
「莉珠……?」
雨了は瞳を青く光らせて私の方を見ている。
雨了だけが私に気が付いてくれた。そう思うと嬉しくて仕方がない。さっきから胸がドキドキしていた。夢だとしても雨了に久しぶりに会えたことが嬉しくて、むず痒くて、胸がきゅうっとするのに、すごく暖かい気分になる。
――これはただの夢のはずなのに、すごく嬉しい。
私はふわふわと浮かびながら雨了に近付いた。
「莉珠、もしやそこにいるのか? そなたに会いたさのあまり、引き寄せてしまったのか……?」
雨了は私のいる方向にそっと手を伸ばしてくる。
(雨了も私に会いたいって、そう思ってくれたの……?)
夢の中だけど、もしもこれが本当だったら、なんて嬉しいのだろう。
私も雨了のその手に触れられそうなほど近くまで寄った。しかし雨了のその手は私に触れることなく、パタリと力なく降ろされた。
「……いや、気のせいか。茉莉花の香りがした気がしたが……」
そう雨了は呟いた。
『雨了、私はここにいるよ』
そう声をかけたが、夢の中では口がパクパク動くだけで声にはならない。雨了も気のせいだと思ってしまったらしく、もう私の方を向いたりもしない。先程まで胸にあった高揚感はぺっちゃんこに潰れてしまっていた。
「ああ、これのせいか……」
雨了が取り出したのは私がお守りとして渡した、祖父の形見が入った小袋だった。
「……まだ香りが残っている」
雨了はそれを鼻に近付けて嗅いでいる。
『わあっ! やだっ!』
身につけてずっと持ち歩いていたから、確かに私の匂いもするのかもしれない。
しかしながら体臭を嗅がれるようなものなので、恥ずかしくていたたまれない。
やめてとばかりに拳を振り上げたが、雨了が気が付かない今は何の意味もなかった。力尽くで止めようにも、雨了の体に触れることも出来ずに私の手は空を切るだけ。
誰にも気が付かれないなんて、まるで幽霊のようだ。そう、私以外には見えない円茘や、ずっと前に見た首吊りの男みたいに。そこにいるのに誰にも気付かれない、あんな感じ。
(……ん、もしかして、これは夢ではなく、私も幽霊だったりするのでは)
その可能性に思い至り、さあっと血の気が引く。
もしもこれがただの夢ではなく、現実であるのなら、後宮外どころか都から遠く離れた場所にたった一晩で来れるはずはない。ましてや生身であれば透き通ったりもせず浮かぶはずもない。ということは、つまり幽霊だ。
(ま、まさか、私もう死んでるとか?)
そんな考えが頭をよぎり、その考えを振り払うようにふるふると首を横に振った。
少なくとも死ぬような目にあった覚えはない。私は至って健康だ。胡嬪の来訪で疲れ果ててはいたが、いつもと同じように眠りについていた。
でも、生き霊ならどうだろう。眠っている間に魂魄が抜け出て、遠く離れた雨了のもとに引き寄せられたのだとすれば。確かに寝る前、私は雨了に会いたいと強く願っていた。そう、書物でも読んだことがある。どうしても会いたい思い人のもとへ、魂魄だけで飛んでいってしまったりするのだと。
(お、お、お、思い人……だなんて!)
何を考えているのだ、私は。思考から我に返り、首を振る。何故か熱など感じないはずの頬が熱くなったような気がして手で押さえた。
そして雨了の方を見て、私は声にならない声を上げた。
『雨了――⁉』
雨了はいつのまにか具合が悪そうにぐったりともたれかかっていた。顔は真っ青で額からは脂汗が滴るほどである。
「っく……ぅ……」
ぎゅっと握った拳は、苦しいのか痛いのか、それらを耐えるように強く握り込まれ、手の甲には筋が浮いている。
『きゅ、急にどうしちゃったの? だ、誰か人を……!』
けれど今の私は生き霊のようなもの。私の声は誰にも届かない。流れ落ちる汗すら拭ってあげられない。その間にも雨了は苦しみ続け、脂汗を流しながら痙攣するように震えている。
私は自分の無力さに唇を噛んだ。
「う……っぐ……! く……はぁっ、はあっ……」
『雨了……しっかりして……! 誰か! 誰でもいいから聞いて! お願い! 雨了を助けて!』
寄り添ってあげたくとも、私の半透明な体はすかすかと空を切り、雨了の肩に触れることさえ出来なかった。
「陛下……? どうかされましたか」
その時、救いのような声がかけられた。天幕のすぐ外で見張っている兵士のようだ。きっと雨了の苦しむ声を聞きつけてくれたのだろう。
良かった、とほっと息をついたのも束の間。
「……いや、なんでもない。少し魘されていたようだ。もう、休む」
雨了はそう言って自分の体調不良を誤魔化してしまった。
「さようでございましたか。お休みを邪魔してしまい申し訳ございません」
声をかけた兵士もそれを信じてしまったようだ。
「……構わぬ。夜番の勤め、大儀である」
「はっ、恐縮にございます。御身はこの命に替えてもお守りいたしますゆえ、どうぞご安心ください!」
「ああ……」
雨了は至極平気そうな声でそう会話をしているが、相変わらず顔色は悪く、流れる脂汗もひどい有様だ。それをぐい、と袖で拭い、横になる。それでもさっきよりは少しましになったのか、ふう、と大きく息を吐いた。
「ああ……汚しては莉珠に怒られてしまうな……」
密やかな声でそう言うと、取り落としていた私の小袋を雨了は大切そうに拾い上げた。まだ苦しいはずなのに、私の小袋を両手で握り、幸せそうに薄く微笑む。
顔色も少しずつ良くなっていく。発作のような苦しみはそれほど長くは続かないようだ。
しかし私の脳裏には、かつての壁巍の言葉が過っていた。
――雨了はもう、長くはない。
龍の力が強くなりすぎて、もう人の身に釣り合わないのだ。
今の苦しみはおそらく、龍の力が暴走しているせいだ。それを雨了は気力だけで抑え込んでいる。本当は子供の頃に体の鱗が自然に取れるまでに龍の力を制御出来るようになるはずだった。しかしその鱗は雨了が自分から剥がしてしまったし、渡された私はそれを失ってしまった。
私に出来ることは二つ。雨了の鱗を探し出すこと。雨了が出立してから、私は龍や鱗に関連しそうな文献を紐解き、また薫春殿を全てひっくり返すような大掃除までしたが、手がかりさえないままだった。
もう一つの方法は――雨了の人としての生を終わらせて、龍の身に戻すこと。雨了に残された時間は思っていたよりずっと短いのかもしれない。
雨了は苦しんでいる。もしかしたら、毎晩ああなのかもしれない。私と一緒に寝る晩もあるくせに、雨了はそんな様子なんて一度も見せなかった。
(……雨了の意地っ張り!)
いつのまにか雨了の青い瞳は瞼に閉ざされ、静かな寝息を立てている。
私は己の無力さを思い知った。私の手のひらには何もないままなのだ。
私に本当に番としての資格があるなら、この手に雨了の鱗が戻るはずなのに。どうして。
(どうして、私には何も出来ないんだろう――)
私は雨了の寝顔を見つめていた。目を閉じていると、少し幼く見えるその寝顔。まだ少し顔色は悪いが、苦しいのはもう去ったのか安らかでさえある。
私は雨了が苦しい時にそばにすらいられない。私の体は後宮にいる。
『雨了……』
雨了がだんだん遠ざかっていく気がした。いや、多分、私の目覚めが近いのだ。
『早く、帰ってきて……雨了に会いたいよ……』
「……莉珠……」
私の意識が泡のように消える瞬間、雨了が私の名前を呼んだ気がした。
――目が覚めた。
ここは薫春殿の私の部屋。
寝台の細かな格子の透かし彫りから朝の日差しが入り込み、光が複雑な模様を刻んでいた。
窓の外から元気に囀る小鳥の声が聞こえてくる。
私は身を起こす。いつも通りの朝だった。
「朱妃、お目覚めですか」
私が起きる物音が聞こえたのか、汪蘭が穏やかな笑顔で私の顔を覗き込み、そして「まあ」と声を上げた。
「朱妃……どうかなさいましたか? 嫌な夢でも見ましたか」
心配そうに、そして安心させるように優しく微笑む。
何事かと思えば、私は無意識の内に泣いていたらしい。頬に冷たく濡れた感触がした。手の甲で頬を擦ろうとした私に、汪蘭が布を差し出す。朝の身繕い用の濡らした布で顔を拭けば気分が少しすっきりした。
汪蘭は優しい眼差しで私が顔を拭き終えるのを見守ってくれている。
私はそんな汪蘭に、顔も知らない生母がもしいたならこんな感じなのだろうかと少しだけ思うのだ。まあ、母にしては若過ぎるか。
「じゅうぅん」
ろくも寝床の籠から飛び降りて、私の肩に登り、頬をざりざりと舐めてくる。猫の舌はざらざらしているのだ。六本足の妖の猫でもそれは変わらない。ざりざりと何度も舐められると痛痒くて思わず笑ってしまう。
「……大丈夫。汪蘭、ろく、ありがとう。あ、それからおはよう」
「おはようございます。今日も良い天気ですよ」
窓から入る日差しは柔らかだ。ろくも肩から降り、日差しの当たる位置で「んじゅう」と鳴きながら伸びをしている。日差しを浴びて黒い毛が虹色に煌めく。平和で、穏やかで、そして暖かな朝だった。
雨了が今いるところは私には想像もつかないくらい遠いけれど、それでもきっと朝は朝だろう。
もう起きただろうか。そっちはどんな天気で、雨了はどんな朝を迎えたのだろうか。昨晩の苦しみはもう良くなっただろうか。ちゃんとご飯を食べているのだろうか。
朝の日差しの眩しい照り返しに、私は目を細めた。
「――それでわたくしのところへ来たの?」
「ええ」
私はあの夢を見た日、すぐに青妃に連絡を取り、再び青薔宮を訪れていた。
前回と同じく、恩永玉と金苑を連れて。そして今度はこちらから頼んで二人きりにさせてもらい、壁巍に会った話や昨晩見た夢の話を聞かせたのだった。
「青妃は壁巍を知っていると思って」
「……それは、龍の祖たるお方のことね。ええ、知っているわ」
「あの、なんでこんな夢を見るのでしょう。これはただの夢ですか? それとも……本当に雨了のもとへ行ったんでしょうか」
青妃は私の話を聞きながら、僅かに朱唇を開くが何も言わずに閉じた。
彼女は造作が整いすぎていて人形めいている。こうして目の前にいてもなお作り物のような美しさがある。雨了と面差しは似ているのだが、人形のようだと感じるのは青妃だけだ。雨了は夢ではともかく現実では三秒とおとなしくしていないので、どんなに顔が綺麗でも人形とはまったく思えない。
「そうね……おそらく、わたくしは朱妃の知りたいことを朱妃よりは多く知っている。けれど全ては話せない。わたくしの身にも龍の血が流れているから、より強い龍の力には抗えない仕組みなの」
青色の瞳がわずかに揺らぐ。風に吹かれた水面のように。
「それは話せることと話せないことがあるってことですか?」
「そう。何度か試してみたけれど、知っていることを伝えようとしても声が出ないの。多分、わたくしから話して聞かせても意味がない。自分自身で気付かなきゃならないことだからだと思うわ」
「私自身が……?」
「そう……あまりお役に立てなくてごめんなさい」
龍の子孫であっても、私からすれば目の色が青色なくらいでごく普通の人間にしか見えない。しかし、そういった制約のようなものがいくつか存在するらしい。壁巍も約束を守ることを大切にしているようだった。それが龍としての本能のようなものなのかもしれない。
「雨了にもそういう制約があるんですか」
「……どうかしら。雨了は龍の子孫としては別格に強いから。それに、そもそも制約に引っかかることは覚えていないかもしれないわ」
「それでしたら、青妃が話せることだけで結構です。思い出すのも辛いかもしれませんが、十年前のことを教えてもらえませんか」
「それは……何故?」
真っ直ぐに見つめてくる青妃を私は見つめ返した。
「それに石林殿には草の生えた庭はほとんどありません。その名の通り、石の林……砂利を敷き、形の良い大岩や原石などを並べてあるのです。薫春殿のような緑豊かな庭と違い、毟る草も生えてはきませんから、そもそも罰になるほどの仕事にはならないのです」
「石とは言ってもとても趣があって素敵なのですよ。鳥や獣の剥製なんかも置いてあるのです」
「ええ。水晶や玉石の原石だから、それぞれ色味が異なるのです。南国を模した縞模様の石に、青や黄色の鮮やかな鳥の剥製を止まらせている様子はそれはそれは美しくて……」
「様々な地域から集められた石なのだそうです。本当に素敵な石庭なので朱妃にも一度ご覧になっていただきたいですわ」
「へ、へえ、そうなの……」
それまで静かにしているか、嬉々として残酷な罰を出す以外殆ど喋らなかった胡嬪の宮女たちが、興奮した面持ちで口々に石林殿の自慢を始める。うっとりと頬を赤らめて言うことが庭の石の話というのは何だか不可思議であるが、胡嬪からして風変わりなので、宮女も相応に変わっているのかもしれない。
そんな中、朱華だけは真っ赤な目をしておどおどとしていた。話は庭のことへ移ってしまったが、朱華はいつ酷い罰を言い渡されるかと、生きた心地がしないのだろう。
「……脱線はそれくらいにしておきましょう。石林殿の庭よりも今は朱華の罰のことです」
胡嬪がそう言えば宮女たちは恭しく頭を下げて口を閉じる。朱華だけはひいっと声を上げて震えた。
「出た案は鞭打ちに爪剥ぎ、ああ丸刈りもありましたね」
「い、痛いのは嫌です! どうかお許しください……」
恐怖に顔を引きつらせ、自慢の黒髪も振り乱している。
「朱華、本当に反省したのですか」
「はい、しました! ですから、どうか……」
「では、その自慢の髪を切りましょう。丸刈りとまでは言いませんから安心なさい」
「え……髪、を……?」
さあっと青ざめていく朱華。私からすれば鞭で叩かれるのや爪を剥がされるのに比べればずっと軽い罰だと思えるのだが、朱華はその長く伸ばした黒髪をとにかく大切にしているのだ。朱家にいた時からずっと、毎日髪の先まで手入れを欠かさず、黒く艶々とした髪を保っているのを私は知っていた。
その髪を切れと言われて、痛い罰よりは良いかもしれないが、今度は欲が出てきて躊躇う気持ちになったのだろう。
朱華は震えながら、助けを求めるように私を見てくるが、さすがにこれ以上は無理だ。血の繋がった私の姉かもしれないが、私の宮女ではない。そもそも朱華は加害者なのだ。ここで助けるのは甘やかすだけだ。髪であればまた伸びるし、死ぬわけではない。
「……朱妃、わたくしは大切な宮女に対してここまでするのです。どうか石林殿は皇帝陛下に叛意ありと思わないでくださいませ。わたくしは……ただ石のように静かに、平穏に生きたいだけなのです」
胡嬪は静かに淡々と、今までとまったく同じような声色でそう言った。
「え、ええ……」
「朱華にも理解してもらわねばなりません。わたくしは愛妃たる朱妃とは違うのです。皇帝陛下に愛されることなど絶対にないわたくしには、石のようにただ静かに生きることのみが許されるのです。それはこの後宮にいる者全てが同様です。朱妃だけが特別であり、順序すらなく、愛されるのは最初から最後までたったお一人だけなのです。血を分けた姉である貴方とて例外ではありません。それを身を以て分からせるため、わたくしは貴方の大切な髪を切るのです」
「……はい……」
私は愛妃、龍の番だ。胡嬪の言葉はことさら胸をチクリと刺した。
本来は皇帝陛下から――雨了から愛される存在だ。けれど、私の手には雨了の鱗はない。どうしてもあれを手に入れなければならないのに。今のままでは私は未熟な愛妃でしかない。なのに周囲からは愛妃として扱われる。今の私の何が朱華や胡嬪と違うのか。私だって、朱家にいた頃には義母を恨み、朱華を羨んでいたし、ただ祖父の形見に囲まれて静かに暮らしたいと思っていたのに。
見ればいつの間にか朱華は静かに泣いていた。先程までのように派手に騒ぐでもなく、縋り付くでもなく。感情の見えない胡嬪のように、物言わぬ石のように、ただ静かだった。
「――というわけだったのよ。会っている時間はあまり長くなかったけど、本当に疲れたわ。青妃以上に変わっている方ね」
「まあそうでしたか。朱妃、お疲れ様でございます」
「じゅうっ」
汪蘭と、私の膝に乗ったろくが労ってくれる。
胡嬪たちはその後、朱華の髪を切るために帰って行った。髪を切るには刃物が必要だが、彼女達が持ってきているはずもない。薫春殿としてもさすがに刃物を貸すことは避けたかった。
切り終えた髪は薫春殿に持って行きますと言われたが固辞した。一度見せにだけは来るらしいがそれも遠慮したい。というか石林殿は胡嬪も宮女も風変わりなので避けたい。
私は息抜きを兼ねてろくと遊びながら、つい汪蘭に愚痴ってしまう。
「だからなのでしょうか……。胡嬪の着物、あれは一見すると地味な灰色ながら、とても凝ったものでした。同色で細かな刺繍がびっしりされていましたし、裏布は鮮やかで翡翠の原石を模していたのかもしれません」
「あら、汪蘭てばいつのまに見たの」
「ええ、実は気になって……こっそり覗いてしまいました。あ、お帰りの際に一瞬だけですよ!」
「全然気が付かなかったわ」
汪蘭は案外好奇心旺盛なのかもしれない。
そんなことを思いながら私は疲労を回復させようと、ろくの柔らかなお腹を吸い、六本の足でやんわりと顔を蹴られたのだった。
第二章
昼より夜、それよりも寝る時が一番寂しい。
両手両足を投げ出しても余りある広い寝台に、今夜も雨了はいない。遠い馬理に向かっているのだから、まだしばらく帰ってこないのは理解している。それでも今まではすぐそばにあった雨了の温もりが恋しかった。
温かい胸元に額を押し当てて眠りたい。ぎゅうっと強く抱きしめてほしい。
「……雨了に会いたいな……」
手を伸ばしても触れるのはひんやりとした絹の寝具だけ。
目を閉じてる間に雨了が帰ってきていたらいいのに。
後宮に入り、雨了が来るまでは一人寝を寂しいと思ったことなどない。なのに雨了が留守にした途端、こんなにも寂しさが募ってしまう。
決して寒いわけじゃないのに、寒々しく感じて身を縮める。
「雨了……今、どこにいるの……?」
雨了に会いたい、今すぐそばに行きたい。せめて夢で雨了に会えたらいいのに。
そればかりを考えて私は眠りについた。
ふと気がつくと、私は見知らぬ場所にいた。
白っぽい天幕が張られている。砂埃の匂いに混じり、油の燃える匂いがしていた。
天幕の外からはたくさんの人の気配。たくさんの人たちが焚き火を囲み、小声で語らっている。そのざわざわした音はまるで潮騒みたいだ。
――何だか不思議な夢。
そう思ったのは私が立っていないからだ。
ふわふわと空中に浮いている。ふと気が付いた瞬間には横になって浮いていたが、体勢を変えてもまだ浮いたままで足が地面に付かない。手を翳すと後ろの景色が透けて見えた。さすがにこれでは現実と思えない。
ここがどこだか知らないが、夢の中で夢だと意識して動けることはそうそうないだろう。少し楽しくなってきた私は、空中を泳ぐみたいにふわりふわりと移動を開始した。
こっちだ、となんとなく思う方へ向かう。
立派な鎧姿の近衛兵が置物のように突っ立っている。私の姿は見えないらしく、目の前で手をヒラヒラさせても無反応だ。
私はすぐに飽きて更に奥へと進む。
(多分、こっちに……なんだっけ。すっごく大切な……)
何かを求めてひたすら進み、私は奥の方に目を止めた。
(……そっか、雨了だ)
天幕の一番奥、薄い紗で仕切られた中央には雨了がいた。
いつもより簡素な格好の雨了はもう寝る支度を済ませたらしい。長い艶やかな黒髪はほどかれて、その背をさらさらと流れている。
静かに俯いた雨了は手元の書物を読んでいた。微かにパラリと頁を捲る音が聞こえる。夢でも悔しいほど綺麗な顔だ。一人でいる時の雨了は当たり前だが何の表情も浮かんでいない。いつもうるさい口も閉じている。ただただ整った顔に見惚れた。
(まるで本物みたい)
夢でいいから会いたいと、そう願ったからだろうか。
私は雨了に近付いた。
夢だから紗の仕切りもそのままするりと抜けられる。薄い紗は私が通っても揺れさえしない。
不意に雨了が書から顔を上げ、私の方を向いた。
(誰にも見えないはずなのに、どうして……)
黒い瞳がゆっくりと鮮やかな青に染まっていく。それを間近ではっきりと見て、思わず私の胸は高鳴った。
「莉珠……?」
雨了は瞳を青く光らせて私の方を見ている。
雨了だけが私に気が付いてくれた。そう思うと嬉しくて仕方がない。さっきから胸がドキドキしていた。夢だとしても雨了に久しぶりに会えたことが嬉しくて、むず痒くて、胸がきゅうっとするのに、すごく暖かい気分になる。
――これはただの夢のはずなのに、すごく嬉しい。
私はふわふわと浮かびながら雨了に近付いた。
「莉珠、もしやそこにいるのか? そなたに会いたさのあまり、引き寄せてしまったのか……?」
雨了は私のいる方向にそっと手を伸ばしてくる。
(雨了も私に会いたいって、そう思ってくれたの……?)
夢の中だけど、もしもこれが本当だったら、なんて嬉しいのだろう。
私も雨了のその手に触れられそうなほど近くまで寄った。しかし雨了のその手は私に触れることなく、パタリと力なく降ろされた。
「……いや、気のせいか。茉莉花の香りがした気がしたが……」
そう雨了は呟いた。
『雨了、私はここにいるよ』
そう声をかけたが、夢の中では口がパクパク動くだけで声にはならない。雨了も気のせいだと思ってしまったらしく、もう私の方を向いたりもしない。先程まで胸にあった高揚感はぺっちゃんこに潰れてしまっていた。
「ああ、これのせいか……」
雨了が取り出したのは私がお守りとして渡した、祖父の形見が入った小袋だった。
「……まだ香りが残っている」
雨了はそれを鼻に近付けて嗅いでいる。
『わあっ! やだっ!』
身につけてずっと持ち歩いていたから、確かに私の匂いもするのかもしれない。
しかしながら体臭を嗅がれるようなものなので、恥ずかしくていたたまれない。
やめてとばかりに拳を振り上げたが、雨了が気が付かない今は何の意味もなかった。力尽くで止めようにも、雨了の体に触れることも出来ずに私の手は空を切るだけ。
誰にも気が付かれないなんて、まるで幽霊のようだ。そう、私以外には見えない円茘や、ずっと前に見た首吊りの男みたいに。そこにいるのに誰にも気付かれない、あんな感じ。
(……ん、もしかして、これは夢ではなく、私も幽霊だったりするのでは)
その可能性に思い至り、さあっと血の気が引く。
もしもこれがただの夢ではなく、現実であるのなら、後宮外どころか都から遠く離れた場所にたった一晩で来れるはずはない。ましてや生身であれば透き通ったりもせず浮かぶはずもない。ということは、つまり幽霊だ。
(ま、まさか、私もう死んでるとか?)
そんな考えが頭をよぎり、その考えを振り払うようにふるふると首を横に振った。
少なくとも死ぬような目にあった覚えはない。私は至って健康だ。胡嬪の来訪で疲れ果ててはいたが、いつもと同じように眠りについていた。
でも、生き霊ならどうだろう。眠っている間に魂魄が抜け出て、遠く離れた雨了のもとに引き寄せられたのだとすれば。確かに寝る前、私は雨了に会いたいと強く願っていた。そう、書物でも読んだことがある。どうしても会いたい思い人のもとへ、魂魄だけで飛んでいってしまったりするのだと。
(お、お、お、思い人……だなんて!)
何を考えているのだ、私は。思考から我に返り、首を振る。何故か熱など感じないはずの頬が熱くなったような気がして手で押さえた。
そして雨了の方を見て、私は声にならない声を上げた。
『雨了――⁉』
雨了はいつのまにか具合が悪そうにぐったりともたれかかっていた。顔は真っ青で額からは脂汗が滴るほどである。
「っく……ぅ……」
ぎゅっと握った拳は、苦しいのか痛いのか、それらを耐えるように強く握り込まれ、手の甲には筋が浮いている。
『きゅ、急にどうしちゃったの? だ、誰か人を……!』
けれど今の私は生き霊のようなもの。私の声は誰にも届かない。流れ落ちる汗すら拭ってあげられない。その間にも雨了は苦しみ続け、脂汗を流しながら痙攣するように震えている。
私は自分の無力さに唇を噛んだ。
「う……っぐ……! く……はぁっ、はあっ……」
『雨了……しっかりして……! 誰か! 誰でもいいから聞いて! お願い! 雨了を助けて!』
寄り添ってあげたくとも、私の半透明な体はすかすかと空を切り、雨了の肩に触れることさえ出来なかった。
「陛下……? どうかされましたか」
その時、救いのような声がかけられた。天幕のすぐ外で見張っている兵士のようだ。きっと雨了の苦しむ声を聞きつけてくれたのだろう。
良かった、とほっと息をついたのも束の間。
「……いや、なんでもない。少し魘されていたようだ。もう、休む」
雨了はそう言って自分の体調不良を誤魔化してしまった。
「さようでございましたか。お休みを邪魔してしまい申し訳ございません」
声をかけた兵士もそれを信じてしまったようだ。
「……構わぬ。夜番の勤め、大儀である」
「はっ、恐縮にございます。御身はこの命に替えてもお守りいたしますゆえ、どうぞご安心ください!」
「ああ……」
雨了は至極平気そうな声でそう会話をしているが、相変わらず顔色は悪く、流れる脂汗もひどい有様だ。それをぐい、と袖で拭い、横になる。それでもさっきよりは少しましになったのか、ふう、と大きく息を吐いた。
「ああ……汚しては莉珠に怒られてしまうな……」
密やかな声でそう言うと、取り落としていた私の小袋を雨了は大切そうに拾い上げた。まだ苦しいはずなのに、私の小袋を両手で握り、幸せそうに薄く微笑む。
顔色も少しずつ良くなっていく。発作のような苦しみはそれほど長くは続かないようだ。
しかし私の脳裏には、かつての壁巍の言葉が過っていた。
――雨了はもう、長くはない。
龍の力が強くなりすぎて、もう人の身に釣り合わないのだ。
今の苦しみはおそらく、龍の力が暴走しているせいだ。それを雨了は気力だけで抑え込んでいる。本当は子供の頃に体の鱗が自然に取れるまでに龍の力を制御出来るようになるはずだった。しかしその鱗は雨了が自分から剥がしてしまったし、渡された私はそれを失ってしまった。
私に出来ることは二つ。雨了の鱗を探し出すこと。雨了が出立してから、私は龍や鱗に関連しそうな文献を紐解き、また薫春殿を全てひっくり返すような大掃除までしたが、手がかりさえないままだった。
もう一つの方法は――雨了の人としての生を終わらせて、龍の身に戻すこと。雨了に残された時間は思っていたよりずっと短いのかもしれない。
雨了は苦しんでいる。もしかしたら、毎晩ああなのかもしれない。私と一緒に寝る晩もあるくせに、雨了はそんな様子なんて一度も見せなかった。
(……雨了の意地っ張り!)
いつのまにか雨了の青い瞳は瞼に閉ざされ、静かな寝息を立てている。
私は己の無力さを思い知った。私の手のひらには何もないままなのだ。
私に本当に番としての資格があるなら、この手に雨了の鱗が戻るはずなのに。どうして。
(どうして、私には何も出来ないんだろう――)
私は雨了の寝顔を見つめていた。目を閉じていると、少し幼く見えるその寝顔。まだ少し顔色は悪いが、苦しいのはもう去ったのか安らかでさえある。
私は雨了が苦しい時にそばにすらいられない。私の体は後宮にいる。
『雨了……』
雨了がだんだん遠ざかっていく気がした。いや、多分、私の目覚めが近いのだ。
『早く、帰ってきて……雨了に会いたいよ……』
「……莉珠……」
私の意識が泡のように消える瞬間、雨了が私の名前を呼んだ気がした。
――目が覚めた。
ここは薫春殿の私の部屋。
寝台の細かな格子の透かし彫りから朝の日差しが入り込み、光が複雑な模様を刻んでいた。
窓の外から元気に囀る小鳥の声が聞こえてくる。
私は身を起こす。いつも通りの朝だった。
「朱妃、お目覚めですか」
私が起きる物音が聞こえたのか、汪蘭が穏やかな笑顔で私の顔を覗き込み、そして「まあ」と声を上げた。
「朱妃……どうかなさいましたか? 嫌な夢でも見ましたか」
心配そうに、そして安心させるように優しく微笑む。
何事かと思えば、私は無意識の内に泣いていたらしい。頬に冷たく濡れた感触がした。手の甲で頬を擦ろうとした私に、汪蘭が布を差し出す。朝の身繕い用の濡らした布で顔を拭けば気分が少しすっきりした。
汪蘭は優しい眼差しで私が顔を拭き終えるのを見守ってくれている。
私はそんな汪蘭に、顔も知らない生母がもしいたならこんな感じなのだろうかと少しだけ思うのだ。まあ、母にしては若過ぎるか。
「じゅうぅん」
ろくも寝床の籠から飛び降りて、私の肩に登り、頬をざりざりと舐めてくる。猫の舌はざらざらしているのだ。六本足の妖の猫でもそれは変わらない。ざりざりと何度も舐められると痛痒くて思わず笑ってしまう。
「……大丈夫。汪蘭、ろく、ありがとう。あ、それからおはよう」
「おはようございます。今日も良い天気ですよ」
窓から入る日差しは柔らかだ。ろくも肩から降り、日差しの当たる位置で「んじゅう」と鳴きながら伸びをしている。日差しを浴びて黒い毛が虹色に煌めく。平和で、穏やかで、そして暖かな朝だった。
雨了が今いるところは私には想像もつかないくらい遠いけれど、それでもきっと朝は朝だろう。
もう起きただろうか。そっちはどんな天気で、雨了はどんな朝を迎えたのだろうか。昨晩の苦しみはもう良くなっただろうか。ちゃんとご飯を食べているのだろうか。
朝の日差しの眩しい照り返しに、私は目を細めた。
「――それでわたくしのところへ来たの?」
「ええ」
私はあの夢を見た日、すぐに青妃に連絡を取り、再び青薔宮を訪れていた。
前回と同じく、恩永玉と金苑を連れて。そして今度はこちらから頼んで二人きりにさせてもらい、壁巍に会った話や昨晩見た夢の話を聞かせたのだった。
「青妃は壁巍を知っていると思って」
「……それは、龍の祖たるお方のことね。ええ、知っているわ」
「あの、なんでこんな夢を見るのでしょう。これはただの夢ですか? それとも……本当に雨了のもとへ行ったんでしょうか」
青妃は私の話を聞きながら、僅かに朱唇を開くが何も言わずに閉じた。
彼女は造作が整いすぎていて人形めいている。こうして目の前にいてもなお作り物のような美しさがある。雨了と面差しは似ているのだが、人形のようだと感じるのは青妃だけだ。雨了は夢ではともかく現実では三秒とおとなしくしていないので、どんなに顔が綺麗でも人形とはまったく思えない。
「そうね……おそらく、わたくしは朱妃の知りたいことを朱妃よりは多く知っている。けれど全ては話せない。わたくしの身にも龍の血が流れているから、より強い龍の力には抗えない仕組みなの」
青色の瞳がわずかに揺らぐ。風に吹かれた水面のように。
「それは話せることと話せないことがあるってことですか?」
「そう。何度か試してみたけれど、知っていることを伝えようとしても声が出ないの。多分、わたくしから話して聞かせても意味がない。自分自身で気付かなきゃならないことだからだと思うわ」
「私自身が……?」
「そう……あまりお役に立てなくてごめんなさい」
龍の子孫であっても、私からすれば目の色が青色なくらいでごく普通の人間にしか見えない。しかし、そういった制約のようなものがいくつか存在するらしい。壁巍も約束を守ることを大切にしているようだった。それが龍としての本能のようなものなのかもしれない。
「雨了にもそういう制約があるんですか」
「……どうかしら。雨了は龍の子孫としては別格に強いから。それに、そもそも制約に引っかかることは覚えていないかもしれないわ」
「それでしたら、青妃が話せることだけで結構です。思い出すのも辛いかもしれませんが、十年前のことを教えてもらえませんか」
「それは……何故?」
真っ直ぐに見つめてくる青妃を私は見つめ返した。
25
あなたにおすすめの小説
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
夫が妹を第二夫人に迎えたので、英雄の妻の座を捨てます。
Nao*
恋愛
夫が英雄の称号を授かり、私は英雄の妻となった。
そして英雄は、何でも一つ願いを叶える事が出来る。
そんな夫が願ったのは、私の妹を第二夫人に迎えると言う信じられないものだった。
これまで夫の為に祈りを捧げて来たと言うのに、私は彼に手酷く裏切られたのだ──。
(1万字以上と少し長いので、短編集とは別にしてあります。)
好きな人に『その気持ちが迷惑だ』と言われたので、姿を消します【完結済み】
皇 翼
恋愛
「正直、貴女のその気持ちは迷惑なのですよ……この場だから言いますが、既に想い人が居るんです。諦めて頂けませんか?」
「っ――――!!」
「賢い貴女の事だ。地位も身分も財力も何もかもが貴女にとっては高嶺の花だと元々分かっていたのでしょう?そんな感情を持っているだけ時間が無駄だと思いませんか?」
クロエの気持ちなどお構いなしに、言葉は続けられる。既に想い人がいる。気持ちが迷惑。諦めろ。時間の無駄。彼は止まらず話し続ける。彼が口を開く度に、まるで弾丸のように心を抉っていった。
******
・執筆時間空けてしまった間に途中過程が気に食わなくなったので、設定などを少し変えて改稿しています。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
【完結】冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない
くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、
軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。
言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。
――そして初めて、夫は気づく。
自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。
一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、
「必要とされる存在」として歩き始めていた。
去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。
これは、失ってから愛に気づいた男と、
二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。
――今さら、遅いのです。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。